15-4 大いなる存在
「ここがキリアンクレーターよ」
ゴーグルのスピーカーから、アリチェの声が聞こえた。
月面基地から10分かけて、ようやくクレーターの外輪山に登ると、全体の地形を一望することができた。
直径は100メートルぐらいだが、複数の小さなクレーターが重なっているため、凹凸の激しい複雑な地形を作り上げている。
そもそも月面には大気がないため、日向と日陰のコントラストが激しい。
明るい場所は明るすぎて良く見えないし、暗い場所は真っ暗で、これまた何も見えない。
さらに遠景も近景もまったく同じように見えるため、近づいてみなければ実際の地形が分からないのだ。
脚を降ろした場所が想定外の角度に傾斜していたりすると、それだけでも簡単に体のバランスが崩れて転んでしまう。
その際に当たりどころが悪く、生命維持装置を壊してしまったら――即、命に関わる事故につながる。
20年前、キリアン・フローレスがここで遭難したのだとしたら、何の不思議もないと感じた。
だが――現実は、そう単純じゃない。
「キリアンが死んだのは、どのへんなんだ?」
「中央丘のあたりよ」
アリチェが指さした方角を見ると、小高い丘のような地形が見えた。
クレーターは隕石が衝突することによって作られるが、激しく地面が抉られた反動で、中央付近にはだいたいこのような丘が形成されるのだ。
キリアンはあの場所で、自ら宇宙服を脱いで死んでいた。
救助隊は死体を発見したとき戦慄を覚えたという。
なぜなら彼は笑みを浮かべていたというのだ。
過度のストレスによる精神的な錯乱――。
一般的にはそう言われているが、だとしたらドリーンを始め、多くの人が毎年、この日に不思議な体験をしている事実の説明をすることができない。
「ぼーっとしている暇はないわ。
あそこを目指すわよ」
「ちょまっ」
俺が抗議の言葉を発するまもなく、アリチェは勢いよく地面を蹴って、外輪山の内壁を下り始めた。
ようやく磁力ブーツなしの歩行に慣れてきた俺だったが、斜面を下るとなると話は別だ。
ひとたび前方向に倒れてしまったら、体の回転を止めることはできず、頭から地面に落下するしかなくなる。
ゴーグルに表示されている傾斜計に注意を払いながら、格好は悪いがへっぴり腰になって、少しずつ進むしかない。
過度に力んでいるせいか、俺の足腰は早くも悲鳴を上げていた。
あと少しで斜面が緩やかになり、クレーター床にたどり着こうとしたそのとき――。
心の緩みと筋肉の疲労が重なって、俺は地面を蹴る角度を間違えてしまった。
「ぐぁっ!」
気づいたときはもう遅い。
体は後方に傾き、着地する際に脚で踏ん張れる限界を超えてしまっていた。
「どうしたの?
大丈夫!?」
アリチェの姿は見えないが、心配そうな声だけがゴーグルから聞こえた。
だが俺はなすすべもなく、背中から地面に落下してしまった。
傾斜計が転倒を示し、赤く点滅している。
だが幸い、痛みはないし、ステ-タス画面には何の警告も表示されていなかった。
「大丈夫。
転んだだけだ」
俺は仰向けの状態で体勢を整えると、両腕で地面を押した。
「あれ?」
俺はそのときになって、ようやく衝撃的な事実に気がついた。
自力で立ち上がることが、できないのだ。
背中に生命維持装置を背負っているせいで地面までの距離が遠いのに加え、俺が着ている簡易型の宇宙服は腰関節がほとんど曲がらないので、起き上がろうにも前かがみの姿勢がとれない。
まるでひっくり返った亀のような状態だった。
「横に転がってうつ伏せになって」
状況を察したアリチェが、落ち着いた声で助言をくれた。
「なるほど!」
俺はどうやら突然のことにパニックになって、簡単なことにも気づかなかったようだ。
横方向の回転ならさほど難しくはない。
ひとたびうつ伏せ状態になれば腕も脚も前に曲げることができるので、立ち上がることは遥かに容易になるのだ。
腕と脚で交互に地面を押して反動をつける必要はあったが、俺はなんとか元の体勢に戻ることができた。
だが、ようやく歩行を再開しようとしたとき――。
「あっ!」
今度は、アリチェから小さな悲鳴が聞こえた。
かなり距離が広がってしまったため、姿は見えない。
「どうした!?」
俺は即座に問いかけたが、返答はない。
「アリチェ!
返事をしてくれ!」
叫んでも、反応はなかった。
彼女も転倒したのかもしれない。
単に宇宙服の通信装置が壊れただけかもしれないが、だとしても月面では命取りになりかねない。
とにかく一刻も早く彼女の元へたどり着こうと、俺は限界まで歩調を速めた。
だが――中央丘に近づくにつれ、なぜか次第に頭痛がするようになった。
妙な耳鳴りがして、意識が遠のくような感覚が襲ってくる。
しかし生命維持装置の表示を見る限り、酸素の分圧は足りているし、故障もしていない。
「ヴィジェ!」
とにかく状況を上司に伝えようと、俺は叫んだ。
いつもなら3秒以内に「ピッ」と反応するのだが――人工人格からの返事は、なかった。
慌てて保安部につながる緊急番号にも呼びかけてみたが、スピーカーから聞こえるのは、高周波のノイズだけだった。
俺は、完全に孤立してしまったのか?
突然の激しい不安と孤独感に襲われる。
鼓動が激しくなり、呼吸が荒くなり、もう何がなんだかわからないまま、俺はアリチェを探して前へと進み続けた。
そのとき――。
青白い光が、俺の視野を覆った。
それはまるで自ら発光する雲のような存在で、急速に俺のほうへと向かってきた。
同時に、ハンマーで殴ったような衝撃が、俺の脳を激しく揺さぶる。
そして突然――重力が、消失した。
重さが失われ、方向感覚も失われた。
薄れゆく意識の中で、俺はぼんやりと思い出していた。
キリアンが残した『光があふれてる……』という言葉、そしてロニャが言っていた『大いなる存在』。
つまり、これが――それなのだろう。
何かを悟ったような気がしたとき、すでに俺は、意識を失っていた。




