15-3 じゃ、行くわよ!
「なぁ、思うんだが、ボットとか月面車とかを使って調査することはできないのか?」
「そんな予算、私たちにあるわけないでしょ。
さっさと中に入って」
俺の遠回しの回避案は、アリチェによってあっさりと否定されてしまった。
宇宙港の月面活動準備室で、俺の前には白い宇宙服が、後ろ向きに天井から吊り下げられている。
「背中側から中に入ったら両足を入れて、左側のレバーでハッチを閉めるだけ。
その宇宙服は一般向けの簡易型だから簡単よ」
いともたやすいことであるかのようにアリチェは言ってのけるが、「簡易型」と聞いて不安を感じるのは俺だけだろうか。
本職の宇宙飛行士が着る宇宙服は体の動きを妨げないように柔軟な素材でできているが、インナーとアウターに分かれていて、相当の訓練を積んでいなければ、ひとりで着ることは難しいらしい。
だが、この簡易型は「冷蔵庫タイプ」という愛称そのままに、ひとり暮らし用の小さな冷蔵庫から、頭と手足が飛び出しているような形をしている。
不格好だし体の自由は利かないが、背中側に大きく開いたハッチから乗り込むような形なので、初心者でもひとりで着ることができる……とされている。
「あ、そうそう。
内部にスイッチがたくさんあるけど、乗り込むときにうっかり触らないように気をつけてね。
最悪、生命維持装置が働かなくなっちゃうから」
アリチェは親切で言ってくれているのだとは思うが、俺には脅しにしか聞こえない。
実際、冷蔵庫の内側を覗き込んでみると、所狭しとボタンやレバーが取り付けられている。
どれも繊細そうな装置だが、これらがそれぞれどんな機能を持っているのか、俺にはまったくわからないのだ。
「くそっ」
俺は覚悟を決めると、宇宙服の前に設置された3段の小さなステップを上り始めた。
遊園地のジェットコースターに乗るときと同じだ。
深く考えるほど怖くなる。
頭をからっぽにすることが、恐怖に打ち勝つ最良の手段なのだ。
俺は計器類に触れないように注意しながら、体を冷蔵庫の中に入れ、下側に伸びる空洞に、片方ずつ脚を入れた。
次に左側のレバーを引いて背後のハッチを閉める必要があるが――いったん中に入ってしまうと、手元を視認することができない。
なんとか手探りでレバーを探し当てて手前に引くと、プシュッと空気が調整される音とともにハッチが閉まった……はずだ。
ゴーグルには「気密確認。気圧調整完了」と緑色の文字で表示されているので問題ないのだろうが、直接目視できないのは、やはり不安になる。
「問題なさそうね。
じゃ、行くわよ」
声のした方を見ると、アリチェもいつのまにか宇宙服を着ており、すでにエアロックに向かって歩き始めていた。
エアロックは小型のエレベータぐらいのサイズだ。
俺たちが中に入るとすぐに、減圧が開始された。
それまで耳に入っていた周囲の喧騒や空調の音が、次第に小さくなっていく。
当然だが、音は空気の振動なので、空気がなくなれば音も聞こえなくなる。
実際、気圧がゼロになり、外側のハッチが開いたが、足元から軽い振動を感じただけで、音は聞こえなかった。
自分の呼吸音だけが、やたらと大きく感じる。
開いたハッチの奥に広がるのは、黒い空と灰色の地面。
今まではドームの分厚い壁に守られてきたが、まるで裸で投げ出されたかのような不安に襲われる。
ここから先は、音も風もない死の世界が待ち受けているのだ。
ついこの間までは秋葉原でアニメを見たりゲームを遊んだりして、のんびりと暮らしていた俺が、今では宇宙服を着て月面を歩こうとしている。
あまりにもギャップが激しすぎて、とても現実だとは信じられない。
だが――それでいいのだ。
現実だと実感してしまったら、恐怖に押しつぶされてしまうかもしれない。
夢でも見ているのだと思えたほうが、むしろ幸せなのだ。
「転ばないようにね。
生命維持装置は壊れやすいから」
そう言うと、アリチェは地面を蹴って月面へと躍り出た。
そのゆったりとした動きを見て、俺はさっきから感じていた違和感の正体に気づいた。
磁力ブーツの効果が、切れていたのだ。
考えてみれば当然のことだ。
磁力ブーツは地面に磁性体パネルが敷き詰められているからこそ、俺たちの体を安定させることができる。
レゴリスに覆われた月の地表では機能するはずがない。
思えば俺は月面基地に来て以来、ずっと磁力ブーツを履いていたから、その恩恵を忘れてしまっていたのだ。
しかし、こうしている間にも、アリチェはぽーんぽーんと軽く地面を蹴りながら先へ進んでしまっている。
いつまでもエアロックに閉じこもっているわけにもいかないだろう。
俺は意を決して、両足で地面を蹴った。
これは忘れもしない、初めて磁力ブーツを履いたときに習得したテクニックだ。
ロニャには「ウサギ跳び」みたいだとバカにされたが、格好が悪くてもこのスタイルは、体のバランスを安定させるのに最適なのだ。
そしてついに、俺は月面へと降り立った。
足元に舞い上がったレゴリスがパウダーのようにゆっくりと降下する。
周囲を見回すと、太陽が照らしている地面と影になっている地面のコントラストが、無機質に鋭い。
アリチェとの距離は10メートルぐらいだと思われるが、空気がないため遠近感がおかしい。
空を見上げると――星ひとつない漆黒の宇宙に、地球が輝くほど眩しい光を放っている。
見えるもの、何もかもが、異質だった。
ゴーグルを通して、アリチェの声が聞こえた。
「ぼんやりしている時間はないわよ。
Sサイズの酸素タンクだから、2時間しか持たないわ」
俺は思わず、息を止めた。
=== 科学的補足 ===
【月面から見た空】
・月の昼、つまり太陽が当たっている月面では、肉眼で星を見ることができない。これは太陽や地球が明るすぎるため。地球は月から見ると満月の50倍も明るい。カメラで撮影する場合も同様で、太陽や地球の明るさに合わせてシャッターを絞ると、星は暗くて映らない。アポロ計画の月面写真で空に星が写っていないのはそのため。
【生命維持装置(PLSS)】
・Portable Life Support System。宇宙服の背中に装着し、酸素供給・CO2除去・冷却を担う携行型生命維持装置。
【施設外活動(EVA)】
・Extravehicular Activity。本来は「船外活動」の意味だが、月面の施設外での活動についても慣用的に使われている。
【レゴリス】
・月や小惑星など大気のない天体の表面を覆う、隕石衝突で岩石が砕けて積もった細かい粒子の堆積層。




