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15-1 聖キリアンの日



 カチャカチャと、朝食の皿にスプーンが当たる音が、清掃事務所の壁に反響している。


 月面基地に来て以来、こんな静かな朝は初めてかもしれない。

 心が落ち着く素晴らしい朝だと言いたいところだが――俺の心は逆に、不安感に襲われていた。

 テーブルを囲んで3人の地球人と1人のボサッコ人が座っているのだが、さっきから誰ひとり、口を開こうとしないのだ。


 俺とアリチェが無口なのはいつものことだが、ロニャが伏し目がちに何も言わずに黙々とハンバーガーを食っている姿は、明らかに異常と思える。

 かといって「なぜ喋らないんだ?」と質問するのも、おかしな話だ。

 そもそも食事しながら喋るほうが、無作法なのだから。


 いっぽう、右隣のドッツォも静か過ぎた。

 いつもの彼なら、こんな長い沈黙には耐えられなくなるはずなのに、焦点が定まらないような目をしながら、無表情で大好物の四川風麻婆豆腐を口に運んでいる。


 どうやら個人的な問題ではなく、もっと大きな「何か」が知らないところで起きているに違いない。

 そう考えた俺は、ゴーグルでネットニュースを閲覧しているアリチェに、さりげなく聞いてみることにした。


「なぁ、アリチェ。

 今日は……何か……ニュースはあったか?」


 だめだ。

 自然な聞きかたをしようとすればするほど、不自然なセリフになってしまった。

 アリチェは上目遣いに俺を見ると、呆れたような顔をした。


「知らないの?

 今日は聖キリアンの日よ」


「聖キリアンの日?

 なんだそりゃ」


「フ……。

 しかたないわね……」


 アリチェはため息をつくと、ゴーグルに表示していたブラウザの画面を閉じ、俺に向き直った。


「この月面基地ができて20年ほど経つけど、その間、犠牲者はたったひとり。

 それがキリアン・フローレスよ」


 確かにその話には、聞き覚えがあった。

 月面基地計画唯一の犠牲者、キリアン。

 だが――死因は、なんだったか……。

 記憶が曖昧だ。


「今日は彼の命日だから、月面基地にとっては特別な日なの。

 みんなそれぞれ、命の大切さを噛み締めたり、設備の安全性を確認したりしながら、静かに過ごしているわ」


「彼は……なぜ死んだんだ?」


 俺は当然の疑問を口にしただけだった。

 だが、アリチェは答えをためらうように、神妙な面持ちになった。


「わからないわ。

 月面のクレーターで彼の遺体が発見されたとき、彼は宇宙服を着ていなかったの」


「なんだって!」


 最初は聞き間違えかと思った。

 言うまでも無いが、ほぼ大気のない月面で宇宙服を脱がされたら、人間は10秒も意識を保てない。

 人体には柔軟性があるので即死することはないが、90秒もすれば確実に死ぬ。


「つまり……殺害されたってことか!?」


「最初は事件性も疑われたわ。

 でも違った。

 彼は自分で宇宙服を脱いだあと、しばらく月面を歩いてから死んだの」


「そんな……ばかな……」


「真相はわからないけど、恐らくストレスの影響で錯乱してしまったのでしょうね」


 アリチェがそう言ったとき――ずっと黙っていたロニャが、ピクッと反応した。


「そんなんじゃないし!」


 万年楽観主義者のロニャが、これほど真剣な表情をすることがあっただろうか。


「キリアンは《《大いなる存在》》に触れたんだよ、きっと!」


「大いなる存在!?」


 俺は最初、何の冗談なのかと思った。

 だが、唇を震わせるロニャの怯えかたは真に迫っていて、とても演技とは思えない。


「月には《《何か》》がいるんだよ。

 地球人もポータリアンも超えた何かが!

 キリアンは誰よりも霊感が強かったから、その存在を感じ取ったの。

 みんなそう言ってるよ」


 ――しばしの沈黙。


「神だとか悪魔だとか、いろいろな説があって、信じている人が多いことも認めるけど、私には信じられない。

 どの説も客観的な根拠に欠けているわ」


 アリチェが冷静に切り返したが、ロニャは納得しない。


「なら、聖キリアンの日に不思議な現象が起きることを、どうやって説明すんの?」


「不思議な現象?」


「そ。

 去年だって、宇宙船が着陸失敗して、大惨事になるところだったし!」


「マジか……」


「そのときパイロットのつぶやきがフライトレコーダーに残ってて……『光があふれてる』……って言ってるんだけど、これ、キリアンが最後に残したメッセージと同じなんだよ!」


 背筋がぞっとした。


 俺は心霊現象なんて非科学的なものは信じない。

 だが、かつては心霊現象と同列に扱われていた異星人が、今は俺の隣の席で黙々と朝食を食っているのだ。

 人類を遥かに超越した神のような生命体が存在するというトンデモ説も、はなから否定することはできないだろう。


 誰の発言だったか忘れたが、「人がビルを建てようとするとき、そこに蟻塚があっても気にかけることはない」という言葉がある。

 もし――肉体を持たず永遠の命を持つような生命が月に潜んでいて、それが無意識に人を死に追い込むことがあるとしたら――。

 それはもはや、オカルトではない。

 今そこにある危機だ。


「そのことは、ポータリアンの中でも噂になってるよ……」


 突然、ドッツォがつぶやいた。

 いつもとは声のトーンが違う。

 低くて、しゃがれた声だ。


「ポータリアンが地球と貿易するなら、地球の軌道上に基地を作ればいいのに、なぜ港を月面に指定したのか……。

 それには別の理由があるんじゃないかって……」


「別の理由……?」


「うん。

 ポータリアンにとって、月には何か特別なものがあるんじゃないかって言われてる。

 それが何なのかはわからないけど……」


「特別なもの……」


 言われてみれば――月から地球まではポータリアンの宇宙船を使ったとしても、数時間かかる。

 貿易や観光を目的にするとしたら、利便性の高い場所とは言えないだろう。


 それに最近はアニメの輸出が盛んになってきたとはいえ、遥かに進んだ技術と文明を持つポータリアンが地球に興味を持つことだって、そもそもおかしな話なのだ。


 もしポータリアンが地球との交流を偽装してまで隠している秘密があるとしたら、それは俺のような凡人には想像することさえできないような存在なのだろう。


 俺が底しれぬ恐怖に身震いしたとき――おもむろに、事務所のドアが開いた。


 肩で息をしながら、狼狽した表情で立ち尽くしていたのは――貸衣装屋の店長、ドリーンだった。



=== 科学的補足 ===


【宇宙服】

・月には大気がほとんど無い。大気による熱の伝達も拡散も起きないため、1時間以上船外活動を続けたなら、宇宙服の日向側と日陰側で100度以上の差が出てしまう。そこで宇宙服は内部で水を循環させてこの温度差を均し、約20度の快適な環境を維持している。


【真空が人体に与える影響】

・真空に曝されても人間は即死しない。1966年、NASAジョンソン宇宙センターで宇宙服試験中、技術者ジム・ルブランの宇宙服のホースが外れ急減圧事故が発生した。ルブランは約15秒で意識を失ったが、真空チャンバーは1分以内に再加圧され、後遺症も無く完全に回復した。

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