3 妹の秘密
「チパって何だろ」
「日本製の戦車です」
「もしかしてこれ、全部戦車の名前ですか」
そういえば店の名前はチャリオットであった。古代ローマなどで使われた、馬で牽く型の二輪戦車を指す言葉である。
大方、タンクでは格好がつかないと考えたのであろう。願わくば、そのセンスをカクテルのネーミングにまで及ぼして欲しかった。
「主に第二次大戦で使われた物だ」
「お客さん、なかなかやるじゃない」
ウェイター兼バーテンダーが機嫌良く言った。この様子では、オーナーを兼ねているかもしれない。名前の意味を知っても、どんな代物か推測できないのは相変わらずで、ベースになる酒毎に分類してあるのが僅かな救いである。
次由は定番のドライマティーニを注文した。利輝は面白がってチパを注文し、影正はケーニヒスティーゲルを注文した。
出てきたカクテルを見ても、特段の感激はない。黄色の酒に黒オリーブを添えた影正のカクテルは、虎を表しているのだろう。偶々ドイツ語を知る次由に分かるのは、その程度である。
ドライマティーニは、定石通りきっちり作られていた。案外真面目にカクテルの世界を追究しているのかもしれない。
バーには時間が早いと見えて、客は次由たち三人だけである。弥由を見逃さないよう、ビルの裏口を気にしながら形ばかり飲んでいるので、自然口数が少ない。聞こえる音といえば、音量を絞ったBGMばかり。
これも意外なことに、入店以来、ワーグナーが店内を蹌踉としていた。暇を持て余したバーテンが、とうとうカウンター越しに話しかけた。
「私が」
影正が利輝を制すと、次由には目顔で合図をして席を立った。
グラスを持ってカウンターへ移動する。利輝は裏口から目を離さない。次由も目は同じ所を注視しながら、耳は影正とバーテンの会話に吸い寄せられた。
「パックの対戦車砲撃力が」
「ロンメルは」
聞いたような気がする単語は、恐らく次由の知る意味とは異なる物を指すに違いない。
異世界の話を、バーテンと影正は嬉々として語り合っていた。尤も、影正が心底戦車に興味を持っているとは聞いたことがない。
相手の注意を引くために、それらしい顔つきをしているに過ぎない。お陰で、次由と利輝は周囲の耳を憚らずに会話を交わすことができるのである。
「よくもまあ、あんなに話を合わせられるものだねえ」
利輝が次由と同じ感想を漏らした。ちらりと顔を窺うと、チパは強いのか、早くも利輝に酔いが回っている。
サイドカーを入れるようなグラスが、ほとんど空であった。ノンアルコール飲料を頼むつもりで次由がメニューを見せると、利輝はまたもやラングという意味不明のカクテルを注文した。
グラスを干してしまったので、次由もドライマティーニをお代わりすると、影正がウェイターよろしく届けてくれた。空のグラスも下げられる。
一連の動作の合間に、裏口と利輝と次由を効率よくチェックしていった。主の表情を見て、次に利輝がお代わりするようなら、勝手にミネラルウォーターを注文しよう、と次由は思った。
「次由さんは、弥由ちゃんのことをどう思っているの」
アルコールが鼓動を普段よりも過剰に意識させた。質問もさることながら、利輝の口から発せられたことに、どきりとさせられた。利輝は裏口にじっと目を注いだままである。心なしか、口調の割には真剣な表情に見えた。
「どうって、一人しかいない妹だから、やっぱり可愛いというか、心配というか、幸せになって欲しいと思っているよ」
「そうだよね。僕も、幸せになって欲しいと思うよ」
利輝の言葉からは、弥由を指したのか、花鈴を指したのか、定かでなかった。敢えて名前を口にしなかったとすれば、花鈴を指したと解釈するのが妥当である。
事件から二年近く経つというのに、未だにその影から抜け出せないでいる利輝を見ると、次由の心も動かされた。理性ばかりでなく、感情面でも利輝が被害者かもしれないと思えてくる。
再び会話が途切れた。ラングは利輝の口に合わないのか、一向に量が減らない。そのうち常連らしき客がちらほらと姿を見せ、間もなく影正が戻ってきた。見慣れないカクテルとミネラルウォーターのペットボトルを手にしている。
「もうそろそろ時間だろう」
「片付けもあるだろうから、すぐには無理じゃないかな」
利輝が時計に目を落とし、早速水をラッパ飲みした。やはりカクテルが口に合わなかったようである。影正がラングに口をつけ、僅かに眉を動かしてグラスを戻した。次由の好奇心が動いた。そんなに不味いのだろうか。
「あ、出た」
利輝の声で、我に返った。街灯とネオンに照らされた薄暗がりながら、家を出た時と同じシルエットですぐに分かった。
「次由さん、先に行って。すぐ追う」
影正の言葉を待たずに次由は店を出た。エレベータを待つのももどかしく、狭い階段を駆け下りる。外へ出た時には息が切れていた。運動不足を実感する。弥由は工事現場に差し掛かっていた。間に合った。その場で暫し呼吸を整える。弥由が派手に転んだ。
「あ痛」
「弥よ」
駆け寄ろうとした次由は、肩を押さえられて動けなかった。
振り向かずとも分かっていた。主が追いついたのである。呼吸の乱れを感じないのは、エレベータで降りたためであろう。
「わざと転んでいる」
「迫真の演技だね」
利輝が真面目な口調で、茶々を入れる。次由の目の前で、弥由は交通整理員に抱え起こされた。肩にかかった影正の力が強まった。
「動くな。充分に間に合う距離だ」
車通りはまずない。人通りもまばらである。そんな中で、見知らぬ男と弥由が楽しげに語り合っているのを目の当りにして、次由は急に酔いが回ったような気分になった。二人は長々と話している。
遂に我慢の限界を迎え、影正の制止を振り切り、弥由の元へ駆けつけようとしたところで、二人はあっさり別れた。
「彼の身元を聞いてみるか」
拍子抜けして動けない次由に影正が問う。次由が頷くと、主は利輝と一緒に弥由の後をつけるよう言いおいて、一人交通整理員に向かって歩き出した。
弥由は早くも角を曲がりかけている。次由は慌てて後を追った。利輝が続く。
実のところ利輝を守護することなど忘れていたので、勝手についてきてくれるのはありがたいことであった。弥由は角を曲がった途端、先程転んだのが嘘のように、早足になった。
車の通らない裏通りでなければ、道の反対側にいた二人は姿を見失ったかもしれない。弥由は地下鉄の駅に降りて行く。見つからないよう、離れた場所から見守る。
やきもきしながら影正を待ったが、電車が来るまでには戻らなかった。
弥由は、ちゃんと帰る方向の電車に乗り込んだ。どうやら、真っ直ぐ帰宅するようである。弥由の乗った電車がホームを去るのと入れ違いに、漸く影正が降りてきた。
「神道系私立大学経済学部の三年生だそうだ。八上潔、二十三歳。川崎で両親と一緒に住んで、大学には家から通っている。小学生の頃から空手を始め、大学でも空手部に所属。工事現場派遣は小遣い稼ぎのアルバイトで、月に二回ぐらいの割合で働いている。その他、引越スタッフの仕事もするそうだ」
「よく初対面の人から、そんなにたくさん聞き出せたなあ」
利輝が感心したように言う。
「スカウトマンの振りをしました」
次由は、影正の情報収集力に今更驚きはしなかった。
確かに、人物像は場合によって必要となる情報ではあるものの、それよりも先ず、数倍気に懸かる点を尋ねてみる。
「弥由との関係は」
「今日初めて会ったと言っていた。好きな芸能人は荏司まりか」
主は、肝心な所も漏れなく聞き出していた。次由は安堵の息を漏らした。荏司まりかが好みならば、弥由に興味を示すことはあるまい。
落ち着いてみれば、転んだ弥由を助け起こして立ち話しただけのことである。心配は杞憂であった。
「荏司まりかって、コーヒーのCMに出ていた娘だよね。ちょっと弥由ちゃんに似ている」
利輝が思いがけない事を言い出した。
「あの男も弥由の好みのタイプだったな」
軽い混乱状態に陥った次由に、影正が独り言のように呟き、追い打ちをかける。言いたいことがあり過ぎて言葉を失う次由をよそに、利輝が反応した。
「弥由ちゃんは、まだ子どもで男の人に興味ないのかと思っていたけれど」
「弥由の理想は、アントニオ猪木です」
「古い。一体いつの生まれだよ」
「利輝くんより三つ年下」
次由の言葉は、電車の音に掻き消された。乗り込んだ電車の広告に、噂の荏司まりかが載っていた。次由はつくづく観察したが、やはり弥由に似ているとは思えなかった。
途中で利輝たちと別れて部屋へ戻ると、弥由は先に帰宅していた。寄り道はしていないと見える。ひとまずほっとする。
「何なに。次兄ちゃん、私の顔に何かついている?」
「いいことがあったような顔をしている」
「え。そうかな。普通だよ」
弥由はへらへらと笑って答えた。明らかに嘘であることを、不運にも次由は知っていた。やるせない気分である。そして、弥由が荏司まりかに似ているかどうか、妹の顔を見ても、よく分からなかった。




