2 弥由のアルバイト
弥由はビル清掃のアルバイトを始めた。平日、大学の授業が終わってから数時間の仕事である。
ファッションの勉強も兼ねた仕事を選びたかったが、生活費を稼ぐことが第一の目的である。贅沢を言う余地はなかった。
仕事は選り取り見取りのようでも、勤め先までの距離や勤務時間、時給などの条件を具体的に考えると、自然と選択肢は限られた。
それに年間一定以上の収入を得ると、扶養家族と認められなくなって、親が支払う税金も増える上に、弥由も税金を払わなくてはならないから気をつけるように、と次由から注意を受けた。
初めて親元を離れた弥由には、思いもかけないことであった。こういう時に兄はありがたい存在であったが、半面口煩くもあった。
例えばフロアレディという高額報酬のバイトは、次由から猛烈な反対を受けた。
「もし、その手のバイトをするなら、ここから出てもらう」
本気で言われて、弥由も渋々思いとどまった。聞けば、それらは所謂水商売のことで、一口にフロアレディと言っても様々な分類があり、詳しくは語れないが楽して稼ごうと考えるのは甘い、とのことである。
何故兄がその筋に詳しいのか疑問に思いながらも、住処を追われるのは辛いので、弥由も諦めた。
すっかり次由の部屋に馴染んだ身には、今更一由の部屋から大学へ通うのは遠すぎるように感じられた。
ビル清掃のバイトにも、次由はいい顔をしなかった。家庭教師や教授秘書のような仕事を思い描いていたらしい。一由や次由が通う大学ならば、名前で仕事を取れるであろうが、そもそも弥由は勉強自体が好きな訳ではない。
人に教えるなど考えられない。
弥由は次由の思い込みを指摘し、扶養控除や時給や学生生活との両立を数字で書き表して、どうにか兄を説き伏せた。弥由も差し当たり夏休みまでの仕事と心に決めていた。
夏休みになれば、平日でも丸一日バイトに充てることができ、選択肢が増える。上手く稼げば、冬休みまで臨時のバイトだけで過ごせるかもしれない。
もし生活費に余裕ができれば、卒業までには自動車の運転免許も取りたいし、海外旅行もしてみたい。
したいことは山ほどあった。何をするにつけても、先立つものは金である。教科書や参考書代が思ったより嵩み、弥由はとにかく収入を確保して安心したかった。
バイト仲間には、高齢者が多かった。見るからに弥由の両親よりも年上で、仮にも仲間と呼ぶのが失礼に感じられる年の差である。
仕事先へ行ってみて、採用面接の際、担当者が驚いた訳がよくわかった。弥由は昼間は大学に通っていることや、生活費を自力で稼がねばならないことなどを正直に話し、相手も納得したのか採用されたのである。
下手をすると孫ぐらいの年齢に当たる弥由は、先輩たちからも珍しがられた。清掃の仕事は、時給がよいだけあって、予想よりも激しい肉体労働であった。
ごみを集めて運ぶだけにしても、家を掃除するのとは規模が違う。一枚一枚は軽い紙のごみが、集まるとこんなに重いのか。
特に、シュレッダーにかけた紙片の塊が重かった。袋の大きさの違いもあって、むしろ瓶や缶の方が軽い。
掃除機なら楽かと思いきや、これも一苦労であった。面積が広いこともあるが、まず業務用の掃除機自体が重い。ただ引き摺って歩くだけでも体力を消耗する。
こうした重労働を、弥由より遥かに年老いた人々が軽々とこなしていることに、弥由は感心した。しかも、その多くは女性であった。
長年家事をこなして体力をつけたのだろうか、と母を思い起こしながらも弥由は先輩に遅れをとらないよう、懸命に働いた。
初日からぼろぼろに疲れた。
翌日寝坊して、授業に危うく遅刻するところであった。次由が居合わせたおかげで助かった。
兄は今にも「辞めたら」と言いたげな顔つきであった。それでも十日ほど続けるうちに、体が慣れてきた。
それまで辞めずに持ち堪えた理由の一つは、バイトの行き帰りに通りかかる工事現場にあった。
初めてバイトに出かけた日、そこで交通整理をしている男性に一目惚れしたのである。顔立ちも申し分なく、厚ぼったい警備員の制服の上からも分かるほど、筋骨隆々の堂々たる体躯であった。
残念なことに声をかける暇もなく、翌日から彼は姿を見せなくなったが、工事はまだ続いていた。
弥由はいつかまた会えるかもしれない、という希望を持ってバイトに通っていた。
次由は、弥由と同居しても案外煩わしくない事に気がついた。
卒業試験と国家試験を控えて、さすがに参加の機会が減った合コンでも、同居人がいると言って女性が押し掛けるのを断る口実に使えるし、家事を遠慮なく頼むことができて、大いに助かった。
最初は次由のやり方に馴染まず至らないところも多かった弥由も、徐々にこつを呑み込み、今では安心して任せることができた。思う通りにしてもらえるものならば、自分でするよりも人に頼んだ方がよいに決まっている。
弥由は父親と約束した通り、学費を除いた生活費を自分で稼ぐつもりでいるらしく、大学の授業が本格的に始まって間もなくアルバイトを探し出してきた。
それが目下次由の心配の種であった。清掃のバイトである。
個人家庭の掃除サービスではなく、オフィス清掃の方である。
次由は医学部生として病院にも出入りしている。
大学でも病院でも、やぼったい制服を身に纏い、黙々と、時に無駄口を叩きながら日陰で働く印象である。職業に貴賤はないとはいえども、とても弥由のような若い娘がするような仕事とは思えない。
家庭教師が無理でも、もっとましな仕事はないのかと言ったら、内容を理解しているとは思えない風俗関係に興味を示したので、次由も仕方なく妥協したのである。
次由も親の脛を齧る身であるから、そう強いことも言えない。次由も弥由によさそうな仕事を密かに探してみたものの、いざとなると条件に適う仕事を見つけるのは難しかった。
そんな状況で、弥由が毎日のようにひどく疲れ切って帰宅する様子を目の当りにしては、兄として心配が募るばかりであった。
一度妹の職場を見れば安心できるのではないかと思いつつ、一人でのこのこ行くのも気恥ずかしく、弥由の留守を窺って一由に何度か電話をかけてみたのだが、研修医は多忙で長兄はなかなか捕まらなかった。
遂に次由は利輝に電話をかけた。大学院への進学を控える利輝は、就職活動よりは暇なのか、すぐに連絡がついた。
「確かに、弥由ちゃんには無鉄砲なところがあるから心配だよね」
事情を話すと、利輝は一も二もなく次由の計画に賛同した。利輝が動けば、自動的に次由の主である影正もついてくる。三人いれば、何かあってもどうにかなりそうな気がした。
卑怯とは思ったが、影正にしても次由を飛び越えて一由に頼み事をしたのだからおあいこである、と無理矢理自分を納得させた。
当日、利輝と影正はサラリーマンのような格好で現れた。就職してもよい年齢でもあり、二人とも全く違和感なくスーツを着こなしている。
ジャケットを羽織っているとはいえ、ラフな格好の次由は、してやられたように思った。
考えてみれば、弥由の行き先はオフィスなのである。学生みたいな格好をしていたら、怪しまれて中へ入れない可能性が高い。これは影正の入れ知恵に違いない。次由が利輝を引っ張り出したことを怒っているのだろうか。
「次由さんなら、無難な格好をしてくると思ったよ」
「職場の雰囲気がわからないから、三人とも同じ服装にしない方が都合がよいと思って、連絡しなかった」
二人の話を聞いて、次由は安堵に胸を撫で下ろした。まさかこの程度で怒りはしないが、この年下の主を本当に怒らせたら果たしてどうなるのか、予想もつかない恐ろしさがあった。
三人は連れ立って弥由が働いているというビルに向かった。入り口にある受付には警備員が詰めていたが、どのように解釈したものか、堂々と歩く利輝たちをあっさり通した。
二人より年上の次由は、多少くだけた服装でも、それなりに見えるらしかった。
勝手知ったる様子で、影正が利輝と次由をエレベータに導く。まだ宵のうちで、皆ごく普通に働いている。
途中に夕飯を挟んで残業するため、人の出入りが多いことも、怪しまれなかった一因であった。
弥由の掃除先は、複合テナントビルの様相である。恐らく持ち主と思われる大きな会社が数階分のフロアを占めるほか、幾つか会社が入っていた。
複数のオフィスが看板を並べているフロアもあった。構造から推測するに、持ち主の会社はフロア全体を掃除して、他の階はトイレなどの共用部分を掃除するのだろう。
社員に怪しまれない程度に幾つか覗き見たが、掃除をしている人はあっても、弥由らしき影は見出せなかった。テナントは大体、まっとうな会社であるように思われた。
「いないなあ」
次由は落胆した。勤め先が怪しげでないことを確認すれば充分な筈が、ここまで来たからには姿を見なければ気が済まなくなっていた。
「どうする。勤務時間が終わるまで、どこかで時間を潰そうか」
気を遣ったのか、利輝が提案した。利輝が言えば、影正も頭ごなしに否とはしない。次由は厚意に甘えることにした。
来た時と同じように正面からビルを出、建物を一周しながら食事する店を探すと、人気のない裏通りに、影正が裏口を見つけた。
清掃職員はここから出入りするに違いない。近くには何の工事をしているのか知らないが、交通整理員がいて、次由は僅かに安心した。
人目があることで、路地裏の危険を和らげる気がした。
裏口の見える店がカクテルバーしかなかったので、一旦別の通りに出て、レストランで軽く夕食を取ってから、バーへ向かった。
窓際の席に陣取り、カクテルを選ぶ。
メニューには定番がほとんど見当たらなかった。しかもオリジナルカクテルの名前が、シャーマンとか、マチルダとか、ヤークトパンツァーとか、まるで統一性が感じられない。




