外伝:もう一つの世界で待つ者
静かな目覚めだった。
朝の陽光が小窓から差し込み、淡い光で部屋を満たしている。耳に届くのは小鳥の囀りか。
「こちらは、穏やかなものだね」
自分が「夢」という形で見ていた世界とは、あまりにかけ離れた空気。こうまで違うものかと、我知らず口元が自嘲で歪む。
「いや、よそう。今更に過ぎる」
軽く頭を振り、浮かび上がってきた自嘲と罪悪感を振り払う。それは、この穏やかで晴れやかな朝にはふさわしくないものだから。
体を起こし、残っていた眠気を瞬きでかき消す。自分以外には誰もいない部屋を見渡して、専属の料理人が用意してくれたらしい朝食に目を止める。
「今日も、少し多いな」
誰に対してでもなく呟き、困ったように眉を下げる。何度要望を出しても、十分な栄養補給という名目で出される料理の量は減る気配を見せない。地位のある者は資源の浪費という形で下の者に夢と希望を与えなければならない、などという理由が本音なのだろう。
飽食は自分には合わない。そう思いつつも、残すよりはと、許容量を僅かに超える料理を平らげにかかった。
「……さて、出るか」
朝から腹に溜まるような重みを感じながらも着替え、いつものように上級執行官の証である白銀の制服を身に纏う。
いつもと変わらぬ今日は、承認待ちで積み上げられた書類の山を減らし、昼休みには胃を休めるために料理人から逃げるようにして外食に出かけ、午後からは後輩の教育・育成と簡単な実務をこなして眠りにつくだろう。
そんな自分の生活を、つまらないと感じたことは無い。
役目として背負っているものもあるが、特に義務だと思っているわけではない。自身に課せられた使命を自覚した時から「そんなものか」と受け入れている。
幼少時から、何か望みがあったわけではなかった。だからこそ、突然自覚した使命を抵抗もなく受け入れた。
大人になった今でも、仕事の合間に紅茶と読書を嗜む時間さえあればいいと思っている。
「おはよう」
仕事場に行くまでにすれ違う人全員に挨拶をする。そうと決めているわけでは無く、反射的にそうしてしまうように教育されてきた。
ある男に言わせれば、窮屈な人生であるらしい。
自覚は無いということ自体が、すでに窮屈であり不幸だということだが、あの男が好き勝手に生きているからそう思うのではないかと思う。
結局、極端な二人を比べたところで、一般解などわかるはずもない。
「こういったことは、誰に聞くのがいいか……」
通常執行官は移動に魔動車を使う。魔動車ならば、家からものの数分で仕事場である中央庁に着いてしまう。それが嫌で、景色を見ながら歩いて通勤するのだが、それも十年近く続けば飽きてしまう。最近は、もっぱら益体の無いことを想像するのが移動中の楽しみだ。
「ウッドに聞くべきか。堅実な彼女なら、一般解を導き出せるかもしれないな。……いや、そもそも一般解を一人の人間から知ろうとすることが間違いか。ならば、名前を隠して市井の声でも集めてみるのも面白い……」
別に、自分が窮屈な人生を送っているがどうかなどさしたる興味も無いのだが、それを確かめるまでの仮定を想像するのは楽しい。
執行官は世界をまとめ上げた魔法という技術を守る、比較的お堅い仕事だ。何の利も生まない、こんな時間を過ごすことはまずない。だからこそ、私的な時間はこんな風に、ある視点から見れば時間の浪費でしかないようなことをして過ごす。
余暇を楽しむ余裕があるのだ、この人生を恨み、嘆く理由など無い。
「ん、着いたか」
考えに没頭するあまり、目的地に到着したことを気付くのが遅れる。
関係者認証用の術式を体外展開し、正面玄関を通る。すると、防音壁によって内部に押し留められていた喧噪が聞こえてくる。
「そこの君」
「え、はっ! おはようございます、フィランツェ様!」
近くにいた事務員に声をかけると、律儀に敬礼をしてくれる。誰かを彷彿とさせる、少し緊張気味の真面目そうな青年だ。
「騒がしいようだけど、何かあったのかな?」
「はい! 庁内で魔法を暴発させた者がいるらしく、けが人が数名出ています。執行官三名が取り押さえに動いているよなのですが、原因と思われる術師の行方がわからず、苦戦している模様です」
緊張しながらも、噛まずにはっきりとした声で簡潔な説明をしてくれる。
「なるほど、よくわかったよ。ありがとう」
「い、いえ、お役に立てて光栄です」
青年に礼を言って、庁内に足を踏み入れる。
入ってすぐは、特に大きな問題があるようには見えなかったが、併設されている研究棟の方から騒ぐ声が聞こえてくる。
「研究棟で騒ぎが起きたということは、早めに手を打った方が良さそうだね」
暴発したという魔法が研究途中の新規術式であった場合、制御がきかずに暴走した結果大参事になる可能性も低くは無い。攻撃用の魔法こそ開発されないものの、きちんとした制御と安全式が組み込まれていない魔法は危険であることに変わりはない。
魔導政府がこの世界を統治してから、魔法によって世界中が発展してきた。だが、まだまだ完全に安全とは言い難いのが現状だ。
特に問題なのが、術師では無い一般の人間が魔法を使う場合だ。
術師であれば、何か問題が起きても別の魔法を使って対処が出来るし、最悪術式そのものを破棄するという方法もとれなくはない。しかし、術式の保有数に大きな制限があり、魔力量も術師とは比べ物にならない程少量の一般の人々は、魔法の使用時に問題が起きても個人で対処が出来ないことも多い。
魔法の術式を埋め込み、魔力を流し込むだけで利用できるようにした魔法道具の普及も進んでいるが、量産体制が整わず、庶民が手にするには高価なものも多い。
術師による研究によって開発された魔法を、幾度もの評価試験で安全性を確認できるまで術式の改良と修正を繰り返す。ただでさえ時間のかかる術式の構築も相まって、一般に安全性と利便性を伴った魔法を配布できるのは術師の数年遅れということも珍しくない。
「だからこその公費を使った研究推進だけれど……最近は問題が起きることが多いようだね」
研究そのものは、学問を問わず魔導政府が権力の中心になった頃から続けられている。当然魔法も長い間研究を続けているのが、何故か最近になって研究中の暴発を始めとした問題が増えてきている。以前に統計をとった時には、五年前の実に四倍もの問題発生数だった。
「まだ、その時ではないはずなのだけれど……」
いずれ、現在の体制に無理が出てくることはわかっている。あの男の言からも、残念ながらそれは確かだ。
だが、まだその時ではない。時が来れば、あの男は元より、私にも何かしらの予感があるはず。
「慣れにより生まれる、機構の中期不良というところだろうか。頭の痛いことだ」
所詮は予想でしかないのだが、つい愚痴が零れる。
「ん、あれかな」
騒ぎのする方へと一直線に歩いていくと、白に統一された建物が壁が黒ずんでいる部分が見えた。
後始末をする術師からの挨拶には目礼で返し、魔法による痕跡に手を触れる。
「魔力の残滓が疎らだ。なるほど、確かに制御失敗による暴発のようだね」
「ロンギア執行官」
感情の籠らない、役人特有の堅苦しい呼び声に振り返る。そこには、眼鏡をかけ、髪を短く刈り込んだ男が口を真一文字に引き結んだ表情で立っている。
「状況を教えてくれるかな?」
「はい。
原因はお気づきの通り。研究中だった新規術式に魔力を流し込んで起動実験を行ったところ、安全弁にあたる部分が崩壊。逆流する魔力を抑えきれずに暴走したようです」
「けが人は無事なのかい?」
「すぐに常駐している治療班が到着し、命に別状はありません」
ならば、ひとまずは安心だ。
問題は、玄関で出会った青年の言っていた、原因である術師が行方不明だという点。
「原因となった術師が行方不明と聞いたよ」
「ええ。上級執行官一名と部下の下級執行官二名で行方を追っていますが、難航しています。丁度増員をするところでしたが――」
「問題ない、私が探すよ。皆忙しい時期だ、仕事に集中させてあげたいからね」
捜索を引き受け、原因とされる術師の特徴を聞いて役人と別れる。
被害も大したことは無く、大きな問題にはならないだろう。いや、そうなる前に収めるのが、自分の仕事でもある。
「さて、と」
忙しく動き回る術師達の間を抜け、人通りの少ない資料庫へと向かう。
人が少なくなったところで、魔力領域に待機させていた術式を起動する。
「貸してもらうよ」
この場に――いや、この世界に居ない、部下になるはずだった青年に断りを入れる。
使用する魔法は二つ。『意識喪失』から神経中枢に働きかける部分を取り除き、代わりに触覚共有を霧に付与した独自の術式と、『自動索敵』と名付けられた探索用の術式に魔力を注ぐ。
意識の中で作られた小さな地図のようなものに、小さな光点が映り込んでいる。
まずは光点一つ一つに向けて、目に映らない程度に薄めた霧の手を伸ばす。そうして触れた相手が目当ての術師では無いとわかれば、次へと伸ばす。
資料庫は広く、その数も多いが、中にいる人の数は多くない。その中で術師を魔力量で選別し、かつ役人から聞いた特徴があるかを確かめる。
「ん、この子かな」
第十三資料庫の隅に、少し震えながら座り込む術師がいる。その行動の意味がわかってしまい、つい微笑んでしまう。
「未来のある若者は、いつ見ても心を軽くしてくれる」
言ってから、自分も世間的にはまだまだ若いと言われる年齢なのだと思いだし、なんとなく自己嫌悪に陥りながら目的の場所へと向かった。
第十三資料庫は、歴史的価値のある資料を主に保管しておく所だ。そのため人の出入りは少なく、一時期サボタージュの場所として多用されていたのを知った資料庫総管理人が激怒するという事態になったことがある。それ以来、前にも増してこの場所を訪れる人は減り、ほとんど開かずの間と化していた。
この場所を逃げ込む先に選んだのは、そういった理由から見つかり難いと思ったのだろう。人間、普段から全く使っていないような場所は、怪しいにも関わらず以外と意識に上がってこないものだ。
「失礼するよ」
扉を開いて声をかけると、奥の方でガタガタと何かが動いた音がした。
まさかこんなに早く見つかるとは思っていなかったのかもしれない。あるいは、見つかった後のことが怖いのか。
「大丈夫、別に君を糾弾しにきたわけでは無いさ」
慌てず、歩いて隠れ場所へと向かう。一応、もし逃げられた場合のために備えて霧で囲んでいるが、そのつもりは無いらしい。ただうずくまって震えている。
「大丈夫かい?」
「フィランツェ、様……」
声をかけると、俯いていた顔を上げた。その目は泣き腫らしたように充血し、唇からは血の気が失せている。明らかに恐れの表情だ。
「ごめんなさい、僕……ごめんなさい……!」
まだ若い。というより幼い。
残念ながら顔を覚えているわけでは無いが、役人に聞いた限りでは歴代最年少での研究職採用となった術師で、将来を有望視されていたらしい。
情報を聞いただけでも、この少年が恐れていることや、失敗の理由には想像がつく。
「心配しなくてもいい。一度や二度の失敗で追い出すようなことはしないし、君への評価は揺るがないよ」
「ダメなんです……! 僕、失敗して、それで……けが人まで!」
それが逃げた理由。自分のせいで、他人を傷つけてしまったことが恐ろしいのだろう。
才能があり、それを磨いた結果、他人から期待されるようになった。だが、いつしかその期待が重荷になり、成果を焦ってしまったことが今回の失敗に繋がったのだろう。
研究職の術師は、兎角成果を出すことを求める。他の学者などは、自分のやりたいように研究できればそれでいいと思っているような人間も少なくないのだが、世間に対する貢献度が高いことを理解しているのだろう、己の研究に対してとにかく目に見える成果をと焦る術師も少なくない。
「……けがを負わせたことを反省するのは悪い事じゃない。だけど、それを理由に逃げることは正しいことかな?」
「……っ!」
泣きそうになって目を背けられる。
この少年も、逃げたことが良いと考えているわけでは無い。ただ、どうしていいかわからずに衝動的に逃げてしまい、後戻りできなくなっただけだ。
「君の話は聞いたよ。優秀だそうだね」
「でも、失敗しました……」
声が震えている。それ程までに、今回のことを気に病んでいる。
「周囲からの期待に応えようとしたのだろう? 失敗したことを褒めることはしないが、かといって責めもしない。責めることがあるとすれば、全てを放り出して逃げたことだ。わかるね?」
「はい……」
「君が今すべきことは、失敗を悔やんでこんな所でうずくまることではなく、失敗を糧に学ぶことだ。綺麗事に聞こえるかもしれないが、それこそが最も必要な意識であり、成功を導く方法だよ」
微かに頷く少年。まだ体の震えは止まらない。
「安心しなさい、一度の失敗くらい許してくれる。いきなり追い出したりはしないさ。私も口添えしよう」
「えっ……」
驚いて此方を見る。やはり、そこが気になっていたらしい。
期待されて、それに応えようと努力して、今までは成功を収めてきたのだろう。だからこそ、初めての失敗に挫折した。けが人まで出てしまったのだから、許容量を超えてしまったのも無理はない。
「やっと顔を上げたな」
「えっ――わあっ!」
また顔を下げてうずくまってしまわないよう、思い切り抱きしめた。
「ん~~~!」
「ははは。暴れても離さないぞ」
逃げようとして暴れる少年を押さえつけるようにして抱き続ける。少し胸がむず痒いが、気にしないようにする。
「んんっ! んんん!」
「まだ暴れるのかな? ……ん?」
心なしか、少年の動きが鈍っていっている気がする。暴れるのを諦めたというより、暴れられなくなっているという方が正しいような、そんな鈍り方。
「あ……」
少年の訴えるところに気が付き、慌てて顔を離してやる。
「ぷはぁっ!」
「あぁ、ごめんよ。気付かなかった」
どうも呼吸できなかったらしく、咳き込みながら必死に息を吸っている。
「は……ぁ……」
「大丈夫かい?」
「…………――――ぁ」
「うん?」
激しく上下していた背中の動きが、不自然に止まる。
不審に思って顔を覗きこもうとした時、漏れ出した魔力に気が付いた。
「――――!」
少年が叫ぶようにして魔力を放出する。その体の前には、不完全な形で展開された術式があり、形を崩した構築式がその周囲で乱舞する。
魔力が充填された術式がその機能を発揮しようと動作するも、崩れた構築式のせいで魔力の流れが淀んでいる。
「まずいね、これは」
魔力逆流が起こる程度だろうとは思っていたが、この術式はおそらく設定量以上の魔力を術師から吸い出している。これがそのまま逆流して既に満たされている術式を駆け巡れば、魔力同士の反発による影響とその量に術式そのものが耐えられなくなり、大爆発を起こしかねない。
「あの被害は、必死に抑え込んだ結果だったというわけだね」
なまじ才能のある少年のために、暴走している魔力も相当のものだ。このまま放っておけば、第十三資料庫どころか、資料庫区画そのものが跡形も無く消え去ってもおかしくない。――もちろん、このまま放っておく気も、逃げる気も無いが。
「頑張ったんじゃないか」
これ程の規模で暴走する術式を、少年は一度抑え込んだのだ。開発者であるとはいえ、並の術師に出来ることではない。
失敗の被害を、極めて優秀な技術でもって最小限に抑えた。それでも、失敗をしたという負い目の方が勝ってしまった。もったいないことだ。
「君の努力を、私が無にするわけにはいかないね」
今回の暴走を止められないのは、先の呼吸困難で意識が朦朧としているからだ。ならば、その責任は自分にある。
「術式展開――」
空間が軋む音が響く。術式の限界だ。
本来の青から赤く変色した術式が、その内に溜まった魔力を吐き出そうと膨張した瞬間、その魔法の起動が間に合った。
「――『覆い包む城壁』」
単純な魔力壁では、少年ごと術式を閉じ込めてしまい、助けることが出来ない。だから、魔力壁の強度や大きさ、形状までも自由に変化できるこの魔法で術式だけを包み込んだ。
薄く張った魔力壁を菱形にして膨張する術式を囲み、さらにその内部で三角錐を無数に作って衝撃を少しでも受け流す。この二重構造にすることで、内部の三角錐で弱めた威力を菱形で防ぎきる。
――魔力壁の形成が済み、暴走する術式が爆発した。
「随分と応用の聞く魔法だ。なるほど、防御用としてこれ以上汎用性に富んだものは無いだろうね」
魔力を大量に消費し、気を失った少年を抱きかかえて独りごちる。
ともあれ、これで危機は脱した。後は、この少年を連れて行って仲裁をすれば終わりだ。――だというのに、闖入者が来た。
「へぇ、あのガキの魔法じゃないか。気に入ってるのか、それ?」
「ヴァニテア……」
常にニヤニヤと笑いを張り付けた顔を崩さない、黒いローブとフードを身に纏った男。
この男こそ、現在この世界において魔導政府長を超える発言力を持つ者。世界で唯一、純粋な「未来」系統の魔法『予言』を使う者。
気まぐれで自分勝手なこの男は、普段は専用の塔に引きこもっているくせに、気が向いた時だけこうして下りてきて場を引っ掻き回してくる。厄介この上無い。
だが、こんな男でもその能力は珍重されている。『予言』という「未来を知る魔法」は、それほどまでに圧倒的な影響力と支配力を持っている。
「あぁ、いや。お前が気に入ってるのはあのガキの方か。随分と手をかけてたもんなぁ」
嫌味ったらしい言い方も、すでに慣れたものだ。
別に、この男は理由があって言っているわけではない。ただの暇つぶしだ。
「暇なら、少しでも未来の危険を知らせてくれると嬉しいのだがね」
「はっ。そこまでしてられるかよ。俺が与えられた使命は、本当に致命的に壊れないように世界を維持することだけだ」
そう、そしてそれは私も同じ。
「なら、余計なことを言わずに役目を果たして欲しいものだね」
「くくく」
この男の言葉一つで、どれだけの人間が日常を奪われたのだろう。例えそれがこの世界にとって必要なことであったとしても、当たり前にあった日常を奪われた人達にとってはただの理不尽でしかなかったろう。しかも――この男が、全て本当のことを言っていたとも思えない。
役目は、絶対だ。特にこの男は、そのためだけに存在する。だが、縛られていること以外なら、自由は保証されている。その自由が、この男の場合周囲の誰かを苦しめる結果になることも少なくない。
今回の事件も、起こる前から知っていたはずだが、致命的な事象で無かったという理由で黙っていた。危うく少年の未来が失われ、不要な被害が出るところだったというのに、この男は気にも留めない。
指摘したところで、この男は考えも行動も改めはしないだろう。おそらくは、「それはお前の役目だろう」とでも言って嗤うに違いない。
「ほらほら、少年趣味の次期魔導政府長さん♪ 未来ある少年を連れて行ってあげないと。それとも……このまま自室まで行っちゃうー?」
顔がはっきりと見えるわけでは無い。せいぜい口元と、光の加減によっては目元が視界を掠める程度だ。それでも、この男が底意地の悪い顔であることは疑いようが無い。
人の人生を窮屈だと嘲り、矮小だと見下し、壊してしまえよ仄めかす。
私は、この男が好きでは無かった。
「それでも――」
「『それでも、役目は投げ出す気は無いから安心するといい』ってか? 真面目だねぇ」
思わずため息をつく。これ以上は相手するだけ無駄だろう。
「お前の言う通り、この少年を連れて行ってあげなければいけない。失礼するよ」
「まぁ、待てよ」
隣を通り過ぎようとした時、肩を掴んで止められる。
「まだ何か用があると?」
「いーい情報だ。聞いておいて損はねぇぜ」
楽しげに、嘲りと興奮を隠そうともせずにフードの下でほくそ笑む。
あぁ、本当に。どうしてこんな男が役目を持っているのか。
ヴァニテアが耳元に口を近づけ、囁いた。
「――もうすぐ、アイツが帰ってくるぜ」
まとわりつくような口調で、吐息のような声を出す。
驚きはしなかった。科学者である男が敗れた時点で、そうなるだろうことは予想できていた。
「楽しみだねぇ、嬉しいねえ! だぁーいすきな元部下がご帰還だぁ」
「部下では無い。そうなる前に、この世界から居なくなった」
「あら、そうだっけ?」
おどけたように上半身ごと首を傾げてとぼける。これにイチイチ反応を返すと、また面白がって付きまとわれる結果になる。
「彼が帰ってくるからといって、何をするわけでもないだろう。私はしょせん、お前の予備なのだから」
「あら、そーぉ? ざーんねーん。けけけ」
耳障りな笑い声を上げながら、軽快な足取りで去っていく。
もう一度ため息をついて、研究室の前まで戻ろうとした時――不気味な声で嗤う予言者の声が聞こえた。
「何も変わらないといいねぇ……あんなことになっても」
「――――っ!」
振り返った先には、すでにヴァニテアの姿は無かった。
「何かが起こると、そういうのかヴァニテア。……そうか、彼が」
可能性を感じなかったわけでは無い。初めて出会った時(一方的に知られてはいたようだが)、強固に組み上げた魔力壁を、あろうことか学院に入学する前の少年が解き崩した。
驚き、覚えた。その時感じた才能の片鱗は瞬く間に芽を出し、執行官という彼の夢を叶えるところまで伸びた。
偶然だと思った。同時に、悲劇だとも思った。
このイグナシルを、将来必ず発展させると確信していた青年が、ヴァニテアによって他世界に放逐されたことを。
どうすることも出来なかった。なにしろそれは、気まぐれでも嫌がらせでも無く、役目を負ったあの男にとっての必然。どうすることも出来ず、自分の役割を果たすだけ。
「だから、見捨ててしまった」
彼をこの世界に留めようともしなかった。仕方のないことだと諦めて、せめてのもの罪滅ぼしにと気絶役を買って出た。その時に仕込んだ魔法も含めて、ただの自己満足でしかない。
彼には何も与えてやることが出来なかった。ただ一方的に此方の事情を押し付けた。
だから、そう。彼が何かを起こすと言うのなら、起こせるというのなら、ただそれを待つことにしよう。
「待っているよ、レイジ・ネート」
本当に、心の底から待っている。変えられない何かを、変えてくれることを。
自分の人生に不満を持っているわけでは無い。窮屈だと、重荷だと感じたことも無い。
だがそれならば――この期待感はなんだと言うのか。
「……考えても益体の無いことかな」
だからこれは、帰りにでも考えよう。景色を見ながら、穏やかな気分で。
何も変わらず、いつもどおりに過ごすことにしよう。
「差し当たり今日は……そう、紅茶の時間を忘れないようにしなければね」
そうして、ゆるりと待って居ればいい。自分が何もしなくとも、その時はやってくるのだから。




