第78話 父と息子
前回までのあらすじ
パパ上、完全敗北。
夜もすっかり更け、領主館の中は静けさに包まれていた。
長旅直後の鉱山技師との打ち合わせ。そして、夕食の席では娘から予想外の話まで聞かされたせいか、ジョルジュは早々に客室へ引き上げていった。
肉体的にはもちろんのこと、何やら精神的にも疲れたらしい。
一方のレティシアも、いつもよりずいぶん早い時間に自室へ戻った。
「オスカー。今日はもう結構です。あなたも休みなさい」
「ですが、明日の――」
「明日できることは、明日いたしましょう」
珍しい。
いつもなら、もう一仕事くらい平然と始める時間である。
オスカーが何か言おうとすると、レティシアはそれ以上聞かずに、
「では、おやすみなさい」
と、有無を言わさず自室へ入ってしまった。
「……」
閉じられた扉を前に、オスカーが立ち尽くす。やがて小さく息を吐いた。
レティシアは何も言わなかったが、おそらく気を遣われたのだろう。
父ロランと久しぶりに会ったのだから、たまには親子でゆっくり話せ、ということらしい。
「……こういうところは、公爵閣下によく似ておられる」
気遣っているなら、素直にそう言えばいいものを。親子揃って、妙なところで不器用だ。
もっとも、それを本人に言う勇気はオスカーにもなかった。
グランシエール公爵家にいたころの経験を踏まえれば、この時間なら父はまだ夕食を済ませていないはずである。
ジョルジュの側近として一日中付き従うロランは、主人の用事がすべて終わってから食事を取ることが多い。
それは、ここでも同じだろう。
そう考えたオスカーが厨房へ顔を出すと、やはり予想通りだった。
厨房脇に置かれた使用人用の長机。その端で、ロランが一人、遅い夕食を取っていた。
もっとも、完全に一人というわけではなく、
「おや、オスカー様」
と、リオネルが振り返る。
同じ卓にはクララとアレット、庭師のアシルの姿もあった。どうやら仕事を終えた者たちが、それぞれ遅い食事や茶を楽しんでいたらしい。
「夕食はまだですよね?」
リオネルが尋ねる。
「ああ」
「なら、そこに茹でたパスタが残っています。シチューもまだ温かいですよ」
「いただこう」
オスカーが答えた、その直後。
「さて。明日の仕込みを見てくるか」
どこか、芝居がかった様子でリオネルが立ち上がる。
「では、私もそろそろ」
そう言って、クララも続いた。
「私も明日の朝が早いので」
「俺ももう休む」
まるで申し合わせたように、アレットとアシルまで席を立つ。先ほどまでくつろいでいたはずなのに、突然忙しくなったらしい。
「……」
オスカーは無言のまま、その背中を見送った。
どうやら、こちらでも気を遣われたらしい。
オスカーは籠からパンを一つ取り、茹でてあったパスタを皿へ盛った。その上から自分でシチューをかけて、サラダも用意する。
そしてロランの向かいへ腰を下ろした。
「父上。お久しぶりです」
「うむ」
「……」
「……」
久しぶりの父と息子の対面だが、それ以上の言葉はなかった。
これが父である。幼い頃から変わらない。オスカーも別段気にすることなく、食事を始める。
しばらくの間、二人の間に響くのは食器の音だけだった。やがて、ロランがぽつりと言った。
「この、パスタという料理」
「はい」
「なかなか美味いな」
「……」
オスカーはフォークを止めた。
これは質問なのだろうか。それとも、ただの感想なのだろうか。
父のことながら、判断に困る。
「レティシアお嬢様が考案されたと聞いたが」
どうやら話の続きがあったらしい。
「はい。なんでも、以前に王妃教育で学ばれたことを思い出されたそうです」
「そうか」
そこで、また会話が途切れた。
ロランは何も言わぬまま、パスタを口へ運ぶ。オスカーもそれ以上は続けなかった。
王妃教育。
その言葉が今のグランシエール家でどういう意味を持つのか、父が知らないはずもない。
幼い頃から、王太子妃となるために学び続けてきたレティシア。しかし、その未来は唐突に失われた。
けれど、そこで得たものは今も彼女の中に残っている。そして今では、ヴァレーヌを立て直すための力となっていた。
「お嬢様はどうだ」
不意にロランが言った。
「……」
オスカーはすぐには答えなかった。
仕える者同士が、主人について軽々しく品評するものではない。ましてや、相手は父とはいえ、現在は別の家に仕える家令同士である。
しかし、ロランがそんなことを承知せずに尋ねたはずもなかった。
オスカーは口の中のパンをゆっくりと咀嚼し、飲み込む。そして、ようやく口を開いた。
「お嬢様――」
一度言葉を切り、すぐに言い直した。
「領主様は、素晴らしいお方です」
その言葉に、ロランの視線がわずかに動いた。
「ヴァレーヌは、決して恵まれた土地ではありません。むしろ、普通なら避けて当然の領地でしょう」
「ああ」
「それでも領主様は、あえてこの地を選ばれました。そして、誰かに任せるのではなく、ご自身の手で変えようとしておられる」
仕事を作り、人を雇い、金を回す。
そのためにやって来た数々のことを、ひとつひとつ思い返す。
「決して簡単なことではありません。しかし、それでもなさろうとしています。泥で汚れながら」
「そうだな」
「……」
また、沈黙。
二人はそのまま食事を続けた。やがてロランが、皿を見たまま尋ねる。
「大変だろう」
「ええ。大変です」
オスカーは迷わず即答した。父相手に取り繕っても仕方がない。
「何もかも初めてのことばかりです。領主様が何か新しいことを思いつかれるたびに、必要な人間を集め、場所を用意し、金を計算し、問題が起こらないか確認する必要があります」
「そうだな」
「この数か月で、何年分働いたかわかりません」
「そうか」
「……」
もう少し労ってくれてもいいのではないだろうか。そう思わなくもない。
すると、
「だが」
ロランが言った。
「私は、お前が少々羨ましい」
「……父上が、私を?」
思いもよらない言葉だった。
ロランはゆっくりと食器を置きながら続ける。
「私がグランシエール家の家令を継いだのは、ちょうど今のお前と同じくらいの歳だった」
「はい」
「だが、私が継いだときには、何もかもがすでに出来上がっていた」
ロランは淡々と続けた。
「屋敷の仕組みも、使用人の組織も、領内との連絡も、代々の家令が積み重ねてきたものがあった。私はそれを学び、守り、次へ繋いできたに過ぎん」
「……」
「もっとも、それが私の役目なのだ。それを卑下するつもりはない」
「もちろんです」
「だが、お前は違う」
ロランが息子を見る。
「今のお前は、ヴァレーヌ女伯爵家という新しい家を、一から形にしようとしている」
オスカーは目を瞬いた。
「……家を?」
「ああ」
これまで考えたことがなかった。自分の役目は、レティシアの領政を支えることと、領主館を滞りなく回すことだと思っていたからだ。
けれど、確かに父の言う通りなのかもしれない。
使用人を雇い、役割を決め、仕事の流れを作った。加えて、少しずつこの館独自の形が生まれ始めている。
まだ小さく歴史もないが、今ここで生まれているものが、いつか何十年、何百年と続いていく可能性だってあるのだ。
「それは、私にも経験できなかった仕事だ」
ロランが言う。次いで尋ねた。
「やりがいがあるだろう?」
「……はい」
今度は、オスカーも迷わなかった。
「寝る暇もないほど大変ではありますが」
「うむ」
「それ以上に、面白いと思っています」
ロランが黙って続きを待った。
「少しずつ人が増え、仕事が形になり、昨日までなかった仕組みが当たり前のものになっていく。そのたびに、自分は今、何かを作っているのだと実感します」
「そうだろうな」
それだけだった。けれど、オスカーにはそれで十分だった。
再び二人の間に沈黙が訪れる。しかし今度のそれは、先ほどまでとは少し違って感じられた。
その後、二人は無言のまま食事を続け、ほとんど同時に食べ終えた。
オスカーは立ち上がり、自分の皿と一緒に父の皿も片づける。そのまま湯を沸かして二人分の茶を淹れた。
「どうぞ」
「うむ」
湯気の立つカップを父へ渡し、自分も席へ戻る。しばらく茶を飲んでから、オスカーは再び口を開いた。
「先ほどの話ですが」
「ああ」
「領主様は、大変に優秀なお方です」
ロランが黙ったまま聞く。
「私ごときが申し上げるのもおこがましいですが、この領地を立て直すだけで終わる方ではないように思います」
「……」
「この先、領主様が何をなされるのか。どこまで行かれるのか。今の私にはわかりません」
オスカーは一度、言葉を切った。
「だからこそ、その一番近くで見届けたいと思っています」
ロランは息子をじっと見た。
長い沈黙が訪れる。
そして。
「そうか」
いつも通りの、短い返事だった。
「オスカー」
「はい」
「お嬢様を頼む」
ロランの声はいつもと変わらない。
「口には出されんが、公爵閣下はお嬢様のことを随分気にかけておられる」
「存じております」
「その一番近くにいるのは、お前だ」
「はい」
「支えて差し上げろ」
強くもなく、弱くもない平坦な口調。しかし、その言葉に込められた思いがオスカーには手に取るようにわかった。
思わず背筋が伸びる。
「承知しております」
ロランは一度だけ頷いた。そして茶を飲み干して席を立つ。
「私も休む」
「はい。おやすみなさい、父上」
「ああ」
言いながらロランが歩き始める。しかし、数歩進んだところで足を止めた。そして、振り返ることなく言う。
「……いい面構えになったな」
「……」
それだけだった。
ロランは今度こそ厨房を出ていった。その背中を、オスカーは何も言えないまま見送る。
父に褒められたのは、いつ以来だろう。
子供の頃。家令としての父の背中を追いかけていた自分にとって、ロランという男はどこまでも大きかった。
いつか自分もああなれるのだろうか。ずっと、そう思っていた。
けれど。
廊下の向こうへ遠ざかっていく背中は、不思議と昔ほど大きくは見えなかった。
父が小さくなったわけではない。ならば――おそらく、自分が少しだけ近づけたのだ。
オスカーはしばらく誰もいなくなった扉を見つめたあと、残っていた茶を静かに飲み干した。




