第79話 夫婦の形
前回までのあらすじ
どうしてレティシアの関係者は、無口、無表情が多いのでしょうか。
……解せぬ。
翌朝。
朝食を終えたジョルジュは、早々にグランシエール領へ帰ることになった。
3日も馬車に揺られてヴァレーヌまでやって来たというのに、滞在したのは一泊だけ。昨日の昼過ぎに到着し、翌朝には出立するのだから、実質的には24時間にも満たなかった。
「お気をつけて、お父様」
「ああ」
領主館の玄関前。
レティシアが見送る中、ジョルジュはいつも通り短く答え、馬車へ乗り込んだ。分かっていたとはいえ、相変わらず忙しい人である。
そこまで仕事が立て込んでいるのなら、わざわざ本人が来なくてもよかったのではないかと思わなくもない。
鉱山調査について話を聞くだけなら、技師たちに任せて、後から報告書を読むだけでも済んだはずなのに。
それでも自らが来たということは――もしかすると、「ついでだ」と言いながら、娘の顔を見るのが目的だったのかもしれない。
……まあ、少なくとも本人は、絶対に認めないだろうけれど。
〈はえ~、忙しいパパじゃのぉ〉
〈やっぱり娘の顔見に来ただけなんじゃね?〉
〈素直じゃないな〉
〈素直じゃないおっさんとか誰得だよ〉
去っていく馬車を見送りながら、レティシアは小さく息を吐いた。
娘の目にはわかる。一見すればいつもと変わらなかったけれど、今朝の父は少し疲れていた。それは、長旅の疲れが抜けていないせいなのか、それとも、昨夜はよく眠れなかったからなのかは分からない。
いずれにせよ、彼は疲れた顔のまま再び旅立っていった。
〈お前のせいやろがい〉
〈娘に悪い虫がついたからな〉
〈なお誤解〉
〈本人だけ何も分かってない問題〉
悪い虫?
何の話だ。最近は、あまり虫も見なくなったと思っていたが。
レティシアは首を傾げたが、すぐに考えるのをやめた。今日は今日で予定が詰まっている。
「オスカー」
「はい」
「技師の方々の準備は?」
「すでに整っております」
「では、わたくしたちも参りましょう」
父との別れに感傷へ浸る暇もなく、レティシアは踵を返した。
グランシエール領より来てもらった鉱山技師たちによる本格的な現地調査。それが今日から始まる。
こうしてジョルジュが帰ったその日から、ヴァレーヌは再び動き始めたのだった。
◇
3日後。
グランシエール公爵領。
7日ぶりに領主館へ戻ったジョルジュを、妻のシモンヌはいつもと変わらぬ笑顔で迎えた。
「お帰りなさいませ、あなた」
「ああ」
「長旅、お疲れでしたでしょう。さあ、こちらへ」
旅装を解いたジョルジュが居間へ入ると、すでに茶の用意が済んでいた。
夫婦は向かい合って腰を下ろす。ジョルジュは使用人から受け取った茶を一口飲み息を吐いた。その彼へシモンヌが声をかける。
「道中はいかがでした?」
「問題ない」
「鉱山の方は?」
「技師を置いてきた。まずは地質を調べさせる」
「そうですか」
シモンヌがにこりと笑う。しかしよく見ると、その瞳は笑っていなかった。
「それで?」
「……何だ」
「レティシアは?」
やはりそこか。
ジョルジュはわずかに眉間へ皺を寄せた。
「元気だった」
「それだけですの?」
「ドレスの礼を言っていたな。年始の王宮挨拶に着て来るそうだ」
「それは楽しみですわ。あの子は素材がよろしいですから、飾りがいがありますもの。――それから?」
「領主として、思っていた以上によくやっている」
「あら」
その言葉に、シモンヌの顔が明るくなる。
笑っていなかった瞳は細められ、今では笑みが満ちていた。
「領都も以前より活気があった。領民にも受け入れられているようだ」
「まあまあ」
「使用人たちもうまくまとまっている。オスカーも、家令としてよくやっていた」
「そうですか」
シモンヌは嬉しそうに茶器を持ち上げた。
「安心いたしましたわ」
「まだ安心する段階ではない。領地が黒字になったわけではないからな」
「あなたは本当に、素直に褒めるということをご存じありませんのねぇ」
「……事実を言っているだけだ」
「はいはい」
シモンヌは慣れた様子で受け流した。
しかし、ほどなくして、その表情がわずかに変わった。
ジョルジュが何かを考え込むように黙ったからだ。
傍目には、いつもと何ら変わらないけれど、長年連れ添ったシモンヌにはそれで十分だった。
「あら、あなた」
「何だ」
「どうかなさいまして?」
「……何がだ」
「レティシアに何かありましたの?」
柔らかくも鋭い一言。
ジョルジュの動きが一瞬だけ止まった。
「何もない」
「そうですか」
「ああ」
「では、何かあったのですね」
「……」
ジョルジュが妻を見ると、そこには笑顔があった。どうやら逃がすつもりはないらしい。
「何でもございませんのなら、そのようなお顔はなさらないでしょう?」
「いつもと同じ顔だ」
「他の方にはそう見えるのでしょうね」
「……」
こういう時の妻ほど厄介な相手はいない。
ジョルジュは小さく息を吐き、覚悟を決めて口を開いた。
「レティシアは、隣国の領主と定期的に会っているそうだ」
「あら」
「国境警備についての実務協議だと言っていた」
「それはよろしいことではなくて?」
「協議自体を問題にしているのではない」
シモンヌの目が細くなる。
ほんの少しだけ楽しそうに。
「では、お相手に何か?」
「……リューベル辺境伯だ」
「ああ。オルトラントとの国境を預かっていらっしゃる」
「そうだ」
「どのようなお方ですの?」
ジョルジュは少し間を置いた。
「男。二十八歳。独身。婚約者なし」
「……」
シモンヌが瞬きをした。次いで、口元へ笑みを浮かべる。
「まあ」
「何だ」
「いえ。ずいぶん詳しくご存じなのだと思いまして」
「隣国の有力貴族だ。当然だろう」
「そういうことにしておきますわね」
「……」
そういうこととは、どういうことだ。
ジョルジュの眉間の皺が一段深くなる。
「それで、お人柄は?」
「有能らしい」
「らしい?」
「レティシアがそう言っていた」
「まあまあ」
「判断が早く、国境を預かる領主として信頼できる男だと。本人が優秀すぎて周囲がついていけないことがある、とも言っていたな」
シモンヌの笑みがさらに深くなった。
「随分よく見ていますわね、あの子も」
「……そうだな」
「それで、容姿はいかがなのです?」
「なぜそこを聞く」
「大事なことでしょう?」
「何がだ」
「まあまあ、いいではありませんか。――それで?」
逃げ場のない、真正面からの視線。
ジョルジュは露骨に嫌そうな顔をしたものの、結局答えた。
「……相当に見目がいいらしい」
「あら」
「これもレティシアの受け売りだがな」
「まあまあ」
「その『まあまあ』は何だ」
「何も?」
何もではない。明らかに何かを楽しんでいる。
シモンヌは茶を口へ運びながら、頭の中では別のことを考えていた。
リューベル辺境伯。28歳。独身。婚約者なし。有能。そして娘曰く、かなりの美丈夫。
王都へ戻った際、少し調べてみる必要がありそうだ。
オルトラントの貴族とはいえ、社交界に繋がりがないわけではない。リューベル家の評判や過去の縁談程度なら、幾人か顔を思い浮かべるだけで十分だろう。
もちろん、それを今ここで夫に告げるつもりはなかったが。
「それにしても」
シモンヌはふっと表情を和らげた。
「あんなことがあったばかりですもの。私は少し心配していたのですよ」
「何をだ」
「レティシアが、殿方そのものを嫌いになってしまうのではないかと」
「……」
「幼い頃から将来を決められ、あれほど努力して。それが最後には、あのような形で終わってしまいましたでしょう?」
シモンヌの声から、先ほどまでのからかうような響きが消えた。
「それでも、若い殿方と楽しくお話ができて。ましてや容姿まで褒められるなんてね」
そして、また微笑む。
「元気そうで何よりではありませんか」
「……また、お前は気楽なことを」
ジョルジュの声が低くなる。
普通の使用人なら、それだけで背筋を伸ばすところだが、シモンヌはまったく意に介さない。
「わたくしが? どこが気楽なのです?」
「相手は隣国の人間だぞ」
「ええ」
「しかも国境を預かる辺境伯でもある」
「存じておりますわ」
「政治的に面倒な立場になる可能性があるだろう」
「そうでしょうねぇ」
「……」
ジョルジュが黙る。
何を言っても否定しない。そのくせ、まったく同意しているようにも見えなかった。
「まったく。お前は分かっているのか」
「分かっておりますわ」
「ならば――」
「でも」
シモンヌが遮り、言葉を重ねた。
「まだ結婚すると決まったわけでもございませんでしょう?」
「当たり前だ」
「でしたら、今からそこまで心配してどうしますの?」
「必要以上に親しくなれば、それだけで余計な勘繰りをする者は出る」
ジョルジュの口調が次第に強くなった。
「相手にそのつもりがなくとも、隣国の領主と懇意にしているとなれば、王都でくだらん噂を立てる者もいるだろう。あの子が相手の意向に引きずられているだの、隣国へ情報を流しているだのとな。くだらんことだが」
「そうですわね」
「場合によっては王家から警戒される可能性もある」
「ええ」
「それに――」
「ねぇ、あなた」
シモンヌが、再び静かに遮った。
「何だ」
「レティシアが、その程度のことも考えずに隣国の領主と付き合う娘だと思っていらっしゃるの?」
「そんなことは言っていない」
即答だった。
シモンヌはにっこりと笑って首を傾げる。その仕草は、若い頃からまったく変わっていなかった。
「でしょう?」
「……」
「あなたが思っていた以上に、あの子はきちんと領主をしていたのでしょう?」
「そうだが」
「相手の辺境伯も優秀な方なのでしょう?」
「レティシアの話を聞く限りではな」
「では、今のところ何も問題はないではありませんか」
「しかし――」
「相手は隣国の男?」
「……そうだ」
「政治的に面倒?」
「ああ」
「レティシアより10も年上?」
「それもある」
「そんなもの、貴族の縁談では珍しくもありませんわね」
「……」
「加えて、独身で婚約者もいない」
「だから何だ」
「むしろよろしいのではなくて?」
「シモンヌ」
これ以上ないほどの低い声で、ジョルジュが名を呼ぶ。
しかし当のシモンヌは、扇子も持っていないのに口元を隠したくなるほど楽しそうな顔をしていた。
「あなた」
「何だ」
「なんだかんだと言いますけれど、本当はレティシアに殿方が近づいているのが気に入らないだけではありませんの?」
「違う」
返答は早かった。
「あら」
「私は政治的な問題を話している」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
「……」
ジョルジュは茶へ手を伸ばし、先ほどより少し乱暴にカップを置いた。シモンヌはそれを見て、ますます笑みを深めた。
「それに」
シモンヌが続ける。
「仮に何か問題が起きたとしても、あなたがいるではありませんか」
「私が?」
「ええ」
「どういう意味だ」
「娘を守るのは、父親の役目でしょう?」
あまりにも当然のように言われ、ジョルジュが言葉に詰まった。
「……それはそうだが」
「でしたら、それでよろしいではありませんか」
「よくはない」
「まあ」
ああ言えばこう言う。
まったく、面倒な父親である。
「いいですこと? あなたは、起きてもいない問題を先回りして心配しすぎですわ」
「問題は起きてからでは遅い」
「それは、あなたのお仕事ではそうでしょうね」
「……」
「でも、これはレティシアの人生ですもの」
シモンヌは穏やかに言った。
「もし本当にあの子が誰かを好きになったのなら、まずは喜んであげてもよろしいのではなくて?」
「まだ、好きだとは言っていない」
「でも、あなたはそう思ったのでしょう?」
「……」
「だから、こんなに機嫌が悪いのではありませんこと?」
返事はなかった。
しかしシモンヌには、それだけで十分だった。
「まあまあ」
「だから、その『まあまあ』をやめろ」
「はいはい」
口ではそう言うが、シモンヌは全く反省していないようだ。
ジョルジュが深く息を吐く。どうやら、この話を続ければ続けるほど、自分が不利になるらしい。
「もういい」
「あら、まだ終わっておりませんわよ」
「何がだ」
「レティシアの領地のことです」
言いながら、シモンヌは、ぱん、と軽く両手を合わせた。
「あなたは今から、あの子のために地ならしをしてくださいまし」
「地ならし?」
「ええ。あの子が余計な横槍を受けずに、自分のやりたいことに集中できるように」
シモンヌの声から、再びからかいの色が消える。
「あの子はいま、自分の領地を豊かにしようと必死なのでしょう?」
「ああ」
「燃える石も、砂糖も、パスタも、他にも色々と」
「……そうだな」
「なら、娘が前を向いて走れるよう、後ろを守って差し上げるのがあなたのお役目ではなくって?」
ジョルジュはしばらく黙っていた。
反論はできない。もとより、そのつもりだったからだ。
「……分かっている」
「なら結構です」
シモンヌは満足そうに頷いた。
「それから」
「まだ何かあるのか」
「リューベル辺境伯について、私も少し調べてみましょうかしら」
「余計なことをするな」
「まあ。どうして?」
「するなと言っている」
「はいはい」
「……本当に分かっているのか?」
「もちろんですわ」
満面の笑み。
ジョルジュは、その返事をまったく信用できなかった。
フェルメリア王国でも指折りの大貴族。その名を聞くだけで身構える者も少なくない、グランシエール公爵ジョルジュ。
彼の一言で黙る貴族などいくらでもいるというのに、どうやら彼は、今も昔も妻一人を黙らせることだけはできないらしかった。




