第70話 雑談力は王妃教育の賜物です。
前回までのあらすじ
相変わらずの絵面に腐った欲求が満たされるレティシア。なおアリス。
「アリス」
「……は、はいっ、お嬢様」
一拍。
ほんの一拍ではあるが、アリスの返事が遅れた。
レティシアが振り返る。するとアリスは、すでに侍女としての体面を整えていた。背筋を伸ばし、両手を身体の前で重ね、いかにも「最初から意識を集中しておりました」と言わんばかりの顔をしている。
ただし、頬は赤い。そして、直前まで視線が向いていた先にはマティアスがいた。
見ていたな。
完全に見惚れていただろう。
〈返事おっそw〉
〈見てたな〉
〈間違いない〉
〈アリス、仕事仕事〉
〈仕事も恋も頑張ってる〉
〈両立できてえらいおじさん「両立できてえらい」〉
そこは褒めるところなのだろうか。よく分からない。
「アリス。昼食の用意をお願いします」
「かしこまりました!」
いつもより幾分勢いよく返事をすると、アリスは一礼して部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送り、レティシアはそっと息を吐く。ふと視線を戻せば、マティアスと目が合った。彼は相変わらず爽やかな微笑みを浮かべていた。
何も言わないが、彼は絶対に気づいているはずだ。お願いだから、そのまま知らないふりを続けてほしい。世界の平和のために。
ほどなくして、アリスがリオネルを伴って戻ってきた。
運ばれてきた皿から、ほのかな湯気が立ち上る。細く切ったパスタには、ベーコンとキノコを炒め、香草を加えたソースが絡められていた。
ほかには、平たい板状のパスタを入れた野菜のスープ。朝採れた野菜を使った簡単なサラダと、酸味の利いたピクルスも並べられる。
伯爵位を持つ者をもてなす料理としては、いささか質素かもしれないが、ここは領主館でも宮殿でもない国境警備の屯所である。昼食としては、これで十分だろう。
「以前貰ったものとは、ずいぶん印象が違うな」
ベルンハルトが皿を見ながら言う。
「乾燥している状態では、あまり美味しそうには見えませんもの」
「確かにな」
それだけ言うと、ベルンハルトはフォークを手に取った。難しい説明は不要だ。今日は食べてもらえればそれでいい。
ベルンハルトが一口運ぶ。しばらく咀嚼したあと、小さく頷いた。
「……旨い」
「それは何よりですわ」
聞いたリオネルの表情がわずかに緩む。マティアスも一口食べ、
「これは美味しいですね」
と、素直に感想を口にした。
一方のベルンハルトは、それ以上何も言わずに食事を続けている。相変わらず表情が乏しい様子に、気に入らなかったのだろうかと思いかけたが、見れば皿の中身はみるみる減っていた。
「おかわりもございますが」
リオネルが気を利かせて声をかける。ベルンハルトは一瞬だけ皿を見て、
「では、もらおう」
と答えた。
〈無表情おかわりw〉
〈気に入ってんじゃねーかwww〉
〈言葉より行動で示すタイプ〉
〈なお語彙力〉
〈ベルンハルト、クララ、リオネル。無表情キャラ多くね?〉
〈確かにw〉
いや、リオネルは決して無表情なわけではない。真面目過ぎるがゆえに、くだけた感情を表に出せないだけだ。クララは……もはや何も言うまい。
ともあれ、どうやらベルンハルトはパスタを気に入ってくれたらしい。それなら僥倖だ。
やがて食事も一段落し、室内に静寂が落ちた。しかしベルンハルトは特に気にした様子もなく、食後の茶へ手を伸ばしていた。
おそらくこの人にとって、沈黙はそれほど気まずいものではないのだろう。だけど、招いた側としてはそうもいかない。
レティシアは、ベルンハルトの様子をさりげなく窺いながら口を開いた。
「こちらへ来られる途中、道はいかがでした?」
「道?」
「ええ。最近は雨の日が増えておりますから」
ベルンハルトは少し考えて答えた。
「橋へ下りる手前が、ややぬかるんでいたな」
「ああ、やはりお気づきになりましたか」
「水の抜けが悪い。轍も深くなり始めている」
「雨が続くと、いつもあそこだけ酷くなるそうなのです」
「ならば、道より先に水の逃げ道を作った方がいい。今のまま土を足しても、泥になるだけだろう」
「なるほど。リューベル領でも、同じような場所がおありですの?」
「あちらは雪解けの時期が酷い」
そこでベルンハルトの言葉が少し弾んだことにレティシアは気づいた。どうやら、この話題ならば話しやすいらしい。
「雪解けですか」
「ああ。冬に積もった雪が一気に解ける。場所によっては街道そのものが泥沼になる所もあるな」
「それでは、春先の巡回も大変でしょう」
「馬を使えない区間も出る。無理に入れば脚を取られるからな」
「まあ。それでは徒歩で?」
「場合による。だから冬の間に排水路をさらっておくのだ。春になってからでは遅い」
「それはこちらでも参考になりそうですわ」
レティシアが頷くと、ベルンハルトはさらにリューベル領の道路事情について話し始めた。そうして話題は自然に馬へ移ろう。
〈若い男女の共通の話題:ぬかるみ〉
〈意味が分からないよ〉
〈初対面の相手にはぬかるみを振れ〉
〈ぬかるみから始まるロマンスもある〉
〈ねーよwww〉
「そういえば、先ほどお迎えに上がった時に乗っていらした馬。立派な馬でしたわね」
「あれか」
ベルンハルトの反応がわずかに変わった。
「五年前から乗っている」
「まあ。では、ずいぶん長い付き合いなのですね」
「ああ。ただ、最初はかなり気性が荒かった」
「閣下にも?」
「ああ。二度ほど蹴られかけたことがある」
レティシアは思わず目を瞬く。
「それでもお乗りになったのですか?」
「意地だな。乗りこなせないのが、どうにも腹立たしかった」
「……なるほど」
理由が実にベルンハルトらしい。
〈馬相手にも負けず嫌いw〉
〈辺境伯VS馬〉
〈馬「こいつ気に入らん」〉
〈ベル「なめんな」〉
〈仲良くなるまでが長そうwww〉
「マティアスなど、最初に近づいた時に肩を噛まれた」
突然名前を出されて、マティアスが眉を上げた。
「閣下。それは話す必要がございますか」
「事実だろう」
「事実ではございますが」
「それからしばらく、あの馬に近づくたび警戒していたな」
「噛まれたのですから、当然でしょう」
「そういえば、子供の頃には馬から落ちて泥だらけにもなったこともあるな」
「閣下」
マティアスの声音がわずかに低くなる。
「それも必要ですか?」
「女伯殿が興味深そうだからな」
「人のせいになさらないでください」
〈突然の被弾で草〉
〈流れ弾に当たる副官www〉
〈主従漫才始まる〉
〈実にけしからん〉
〈もっとやれw〉
突然始まった主従の掛け合いに、レティシアの口元から笑いが漏れた。
「ふふっ……申し訳ありません。お二人にもそのような頃がおありだったのですね」
「もちろんだ」
そう答えたベルンハルトの口元にも、わずかな笑みが浮かんだ。
それを見たマティアスの目が細くなる。
ベルンハルトが笑っている。
もっとも、それ自体は珍しいことではない。実際、幼い頃からの付き合いであるマティアスは、主が笑う姿など何度も見てきた。
だが、若い令嬢と昼食を共にし、その令嬢との他愛のない会話で笑っている姿となれば話は別である。
ベルンハルトは女性との会話が得意ではない。特に年若い貴族令嬢を相手にすると、より一層顕著になる。
相手が流行の衣装について語れば、
『そうか』と言い、
王都で評判の芝居について話せば、
『見たことはない』と返し、
新しく開いた菓子店の話をされれば、
『甘いものは苦手だ』
で終わる。
本人には悪気など欠片もないのだが、ただ、それ以上言うことが本当になかった。当然ながら相手は困り、ベルンハルトも困る。そして互いに沈黙してしまうのだ。
その光景をマティアスは何度見てきたか分からない。本人にまったく悪気がないのが余計にたちが悪かった。
ところが今日は勝手が違う。気付けば、先ほどから会話が途切れることはなかった。
――いや待て。違う、そうではない。
マティアスはふと考え直した。
これはふたりの話が合うのではなく、レティシアが意図して合わせているのではないだろうか。
レティシアはベルンハルトが軽く流した話題を追わず、言葉が弾んだ話題へ問いを重ねていた。自分の知識を披露するのではなく、あえて尋ねる側へ回っていたのだ。
そうすることで、ベルンハルト自らに話をさせている。しかも自然な形で。
実際、当のベルンハルトは、会話を誘導されていることにまるで気づいていないようだった。
いまさらながらに、マティアスは思い出す。
そうだった。目の前にいるこの女性は、本来なら王太子の隣に立ち、やがてこの国の王妃となるために育てられてきた人物なのだ。
国の内外を問わず、立場も性格も異なる者たちと同じ席を囲み、相手を不快にさせることなく会話を続ける。時には言葉を引き出し、こちらの意向を伝え、互いの落としどころを探ることもあるだろう。
彼女はそのための教育を何年も受けてきたはずだ。しかし、教えられたからといって、誰もが身に付けられるものではない。それは彼女が、血の滲むような努力によって磨き上げてきた技術と言ってもいいだろう。
レティシアを見る。変わらず彼女はベルンハルトの話へ耳を傾けていた。そしてベルンハルトが小さく笑い、レティシアも微笑みを返す。
やはり、閣下は何も気づいていないらしい。
そんなやり取りを続けているうちに、思った以上に時間が過ぎていた。
「そろそろ戻らなければならんな」
ベルンハルトが窓の外を見て言う。
「もうそのようなお時間ですか」
レティシアも外へ目を向けた。食事はとっくに終わっていたが、どうやら、その後の雑談の方が長かったらしい。
ベルンハルト一行が帰り支度を整える。レティシアたちは、屯所の外まで出て一行を見送った。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ。次回もまた連絡する」
ベルンハルトが軽く礼を返し、マティアスも続いて一礼した。
見送るレティシア。そのすぐ後ろでは――
「お気をつけてお帰りくださいませ」
アリスが名残惜しそうにマティアスを見つめていた。
「ありがとうございます」
マティアスが爽やかな笑みを見せると、アリスの頬がさらに赤くなる。それを見たレティシアは、人知れずそっとため息を吐いた。
気持ちはわかる。とてもわかる。もはや、わかりみしかない。
しかし……もう少し隠そうという努力をしてもいいのではないだろうか。
〈アリス見すぎw〉
〈アリスー、おーい〉
〈また来月会えるから〉
〈名残惜しさしかないw〉
〈月例会議がデートイベントと化すwww〉
デートなどと、軽々しく言わないでほしい。これは国境警備に関わる真面目な実務協議だ。そんなちゃらちゃらした気持ちで参加されても困る。
わかっているのか。なぁ、アリスよ。
「しかし」
その時、隣から声が聞こえた。見ればそれはテオパルドだった。
「リューベル辺境伯は、なかなかに有能な若者ですな」
「ええ」
レティシアは素直に頷く。
「判断も早く、必要とあれば人の意見も取り入れられる。国境を預かる領主として、とても頼りになる方だと思いますわ」
「いやいや」
テオパルドが、どこか楽しそうに目を細めた。
「そういう意味ではございませんよ」
「……はい?」
「お嬢様と、なかなかお似合いではないかと思いましてな」
まさに不意打ち。
思いもよらないその言葉に、思わずレティシアの表情が固まる。
――何を言っているのだ、この人は。正気か?
〈キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!〉
〈言ったwww〉
〈テオパルド砲炸裂w〉
〈さあ仲人がアップを始めました〉
〈本人フリーズ〉
「ご冗談を」
レティシアがようやく再起動を果たしたかと思えば、口から出た言葉はそれだった。
「冗談とは限りませんぞ」
「何をおっしゃいます。リューベル辺境伯閣下は28歳ですのよ」
「存じておりますが。この昨今、10歳差など珍しいことでもございませんでしょう。――もしや、年上はお嫌いか?」
いやいやいや。28歳だぞ、28歳。大事なことなのでもう一度言う。彼は28歳だ。
前世なら、大学を卒業し、社会人になって数年といったところだろう。
まだまだ若造ではないか。男は30を過ぎてから味が出る。20代などまだまだ青い。
……いや、別に男性一般について一家言あるわけではないが、前世と今世で合計46年生きてきたおば……お姉さんが言うのだから間違いない。
「それに、国も違いますでしょう」
レティシアは気を取り直して続けた。
「そもそも、そういうお話ではございませんわ。冗談はおやめください」
「左様ですか」
たった一言。
テオパルドは、それ以上追及しなかった。ただ、口元には妙な笑みが残ったままだ。
その様子がなんとなく気になって、レティシアは周囲を見回した。
「オスカー?」
「……何でございましょう」
「いいえ」
なんか言え。
次にクルトを見るが、目を逸らされた。
なぜ逸らす。
最後にアリスを見る。
彼女は少し考えてから、無言でこくりと頷いた。
……なぜ頷く? それはどういう意味だ?
ちょっと、何言ってるのか分からない。
〈完全包囲でワロタ〉
〈孤立無援すぎるwww〉
〈味方がいないw〉
〈アリス、お前は自分のことをどうにかしろw〉
〈ほんそれ〉
まさにそれ。人のことを気にする前に、その恋に恋する乙女の顔をなんとかしろ。
しかしそれにしても、周囲の反応がまったく理解できない。これはいったいどういうことか。
解せぬ。
◇
一方その頃。オーデル川に架かる橋を渡る、リューベル領へ戻る馬車の中。
ベルンハルトは座席に身を委ねながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。川面には午後の日差しが反射して、穏やかな光が揺れている。
今日の協議はつつがなく終わった。以前に決めた運用も、おおむね問題なく機能している。
細かな修正は幾つかあったものの、双方の現場同士で話ができるようになったことは大きい。そして、あの乾いた麺も、料理にすると随分印象が変わるものだ。
そんなことを取り留めもなく考えているうちに、ベルンハルトは食後の会話を思い出していた。
「珍しいことでございましたね」
まるで内心を見透かしたかのようにマティアスから声をかけられる。思考を遮られたベルンハルトは、視線だけを正面へ向けた。
「何がだ」
「ご令嬢との会話を、あれほど長く続けておられたことです」
ベルンハルトは眉を寄せる。
「……そうか?」
「はい」
即答された。
改めて考えてみると、これまで若い令嬢との会話は長続きしなかった。そもそも、何を話せばいいのか分からない。相手が話しかけてくれば答えるが、答えたところで会話が止まる。
正直に言えば、早く終わらないものかと思ったことも一度や二度ではない。しかし今日は違った。
「確かに……よく話したな」
「楽しそうで、なによりでございました」
ベルンハルトが胡乱な視線を向ける。
「楽しそう? 俺がか?」
「はい」
また即答。
その答えに、ベルンハルトは押し黙る。
〈副官、煽り開始w〉
〈マティアス煽る煽る〉
〈容赦なくて草生えるwww〉
〈不器用なやつばっかw〉
楽しそうだった。
そう言われても、すぐにはぴんと来なかった。ただ、何を話そうかと考える必要がなかったのだけは確かだ。
沈黙を気まずいとも思わなかったし、気づけば話が進んでいて、自分から昔の話までしていた。レティシアが笑うと、つられて自分も笑った。
俺は……楽しかったのか?
「……そうか」
まるで何かが胸の中にすとんと落ちたかのように、ベルンハルトが小さく呟いた。それを聞いたマティアスは、幼馴染でもある主を無言のまま生温かい目で見つめた。
「……なんだ、その顔は」
「いえ、何も」
「なら、なぜ笑っている」
「気のせいでございましょう」
「お前は昔から、そういう顔をする時は裏で何か考えている」
「さて。何のことでございましょう。さっぱり分かりませんが」
ベルンハルトは訝しげに眉を寄せたものの、自分がなぜあれほど自然に話せたのかまでは、結局まだ分かっていなかった。




