第64話 自分の居場所を見つけました。
前回までのあらすじ
洗いたて猫ちゃん!
ふわふわ二割増し(当社比)
クララは、夕食時のミケの振る舞いについて何も言わなかった。
どうやら今日のところは客人として扱うつもりらしい。
ただし、食堂を出る際に一言だけ残した。
「明朝から食事作法を教えます」
それだけ告げると、クララは返事を待たずに去っていった。
〈殺害予告で草〉
〈震えて眠れ〉
〈勝てる気がしない〉
〈逃げ場なさすぎて草生えるw〉
〈始まる前から負けイベント確定〉
かわいそうに。
レティシアは心の底からそう思った。
とはいえ、レティシアにも止めるつもりはない。
最低限の食事作法を覚えてもらわなければ、領主館での生活に支障が出る。手づかみで食べるのも問題だが、皿を舐めるのはさすがに見過ごせなかった。
その日の夜。
ミケのために客室を用意していたが、本人は部屋の前まで来ると、レティシアのスカートの端をつかんだまま動かなくなった。
「ミケ。こちらが今夜のお部屋ですよ」
「……」
「一人では眠れませんか?」
「眠れる」
「では、中へどうぞ」
「ここで寝る」
「廊下で?」
「違う。レティシアの部屋で」
ずいぶん素直に名を呼んでくれた。
人前ではまだ「お前」が抜けないが、二人きりならレティシアと呼ぶように教えたばかりだ。早くもそう呼んでくれたことが、少しだけ嬉しい。
もちろん、同じ部屋で眠ることに異論はない。
いや、むしろ大歓迎だ、バッチコイ!
入浴後のふわふわなミケが同じベッドで眠るのだ。あわよくば猫吸いを――
貞淑な公爵令嬢らしからぬ欲望が、レティシアの脳裏を支配する。背後に隠した指が、再びわきわきと動き始めた。
〈指www〉
〈何か良からぬこと考えてるだろw〉
〈欲望が顔に出てて草〉
〈腹芸どこいったw〉
結局、ミケはレティシアの寝室へ連れていくことになった。しかし、一緒のベッドへ入ることは拒否されてしまう。
まさに悲報。
「柔らかすぎる。落ち着かない」
そう言って、ミケはベッド脇の絨毯の上へ丸くなる。敷物もいらないと言い張ったため、せめて毛布だけは掛けることで妥協してもらった。
これまで地面に草や古布を敷いて眠っていたミケにとっては、絨毯だけでも十分に寝心地はいいらしい。
長い尻尾を身体へ巻きつけ、毛布から耳だけを出して眠る姿を未練がましく眺めながら、レティシアもベッドへ入った。
慣れない土地。見知らぬ人間たち。環境の変化に疲れていたのだろう。ミケはしばらく耳を動かしていたが、やがて静かな寝息を立て始めた。
そして翌朝。
「ナイフは右手です」
「こっちの方が早い」
「そうではありません」
「ちゃんと食べられる」
「フォークを使ってください」
小食堂では、予告どおりクララによる食事作法の指導が始まった。
ミケはソーセージへ手を伸ばすたびに止められ、パンを口いっぱいに頬張れば注意され、皿へ顔を近づければ姿勢を直される。
しかし、開始から五分も経たないうちに限界を迎えた。
「もういい!」
ミケはパンへソーセージを挟んで椅子から飛び降りた。
「やってられるか!」
「まだ終わっていません」
「終わりだ!」
そのまま小食堂から逃げ出していく。
慌てて追いかけようとするアリスを、レティシアが手で制した。
「少し自由にさせてあげましょう。まだ館へ来たばかりですし」
クララは無表情のまま、ミケが飛び出していった扉を見つめた。
「かしこまりました。では、昼食時に再開します」
さすがはクララ。まったくブレていない。たとえ相手が逃亡しても、一度決めたことは貫徹しようとする。
〈追わないのがかえって怖い〉
〈これは泳がされてる〉
〈殺害予告第二弾w〉
〈追試確定〉
〈なお本人は知らないもよう〉
パンとソーセージを食べながら、ミケは館の裏手へ出た。
人間ばかりで見慣れない景色の場所だが、外へ出て緑を見れば少しだけ気分が落ち着く。
その時、風に混じって動物の匂いが流れてきた。人間では気がつかないほどの僅かなそれに、ミケの耳がぴくりと反応する。
匂いを追うように歩いていくと、やがて大きな木造の建物が見えてきた。中から馬のいななきと、蹄が床を打つ音が聞こえる。
馬房だった。
入口から中を覗くと、一頭の馬が落ち着きなく何度も脚を踏み替えている。その傍らで、少年が困った顔で宥めていた。
「どうしたんだよ。さっきから変だぞ」
見たところ十四歳くらいだろうか。短い茶色の髪に、日に焼けた肌。華奢ではあるが、毎日働いているためか、腕や肩には年齢相応以上の筋肉がついている。
ミケは食べかけのソーセージを口へ放り込み、馬をじっと観察した。
耳が後ろへ向いている。
時折鼻を鳴らし、片方の前脚を庇っているように見えた。
「右だ」
「え?」
少年が振り返る。
突然現れたミケを見て目を丸くした。
「そっちの前脚。かばってる」
「お前、誰だ?」
「いいから蹄を見ろ。痛がってる」
ミケが馬の前へゆっくりと近づく。
大きな動物を怖がる様子はなく、馬の肩へそっと手を置いて低い声で話しかけた。
「暴れるなよ。いま見てもらうからな」
その言葉に、馬が小さく鼻を鳴らした。
半信半疑ながら、少年が馬の右前脚を持ち上げる。蹄の裏を確かめると、尖った小石が深く挟まっていた。
「本当だ」
「早く取ってやれ」
「ああ」
少年は置いてあった道具を手に取り、慎重に小石を取り除いた。
「取れたぞ」
怪我はないようだ。馬は脚を下ろすと、何度か地面を踏み、痛みが消えたことを確かめるように体重をかけた。
「大丈夫そうだ」
「だから言っただろ」
ミケが得意そうに胸を張る。すると馬が首を伸ばし、大きな鼻先をミケの頬へ押しつけた。
「うわっ」
「ブルル……」
「くすぐったい。やめろ」
ミケは顔を背けようとするが、馬は逃がすまいとさらに鼻を寄せてくる。
口では嫌がりながらも、ミケの手は馬の鼻先を優しく撫でていた。
少年はその様子を驚いた顔で見つめる。
「お前、馬の言葉が分かるのか?」
「分かるわけないだろ」
「でも、痛い場所が分かったじゃないか」
「耳とか目とか立ち方を見れば、なんとなく分かる」
「すげえな」
素直な称賛に、ミケがわずかに目を瞬いた。
人間の大人たちは、何かを言うたびに驚いたり、注意したり、考え込んだりする。けれど、この少年はただ感心しただけだった。
そして言う。
「俺はニコラ。ここの馬房で見習いをしてる」
「ミケだ」
「お前が昨日来た猫人族か」
「知ってるのか?」
「館に客が来たって聞いたからな。猫人族を見るのは初めてだ」
ニコラが珍しそうにミケの耳と尻尾を見る。
「じろじろ見るな。どうして人間は耳としっぽばかり気にする」
「悪い。珍しかったから」
ニコラは素直に謝り、視線を馬へ戻した。
ミケは少しだけ毒気を抜かれたように鼻を鳴らす。
「お前、ずっとここで馬の世話をしてるのか?」
「ずっとじゃないよ。少し前に見習いとして雇ってもらったばかりだ」
「誰に?」
「領主様に決まってるだろ」
ニコラは当然のように答えた。
「父ちゃんが死んでからは、町の人たちの世話になってたんだ。でも、いつまでも食わせてもらうわけにはいかないだろ? だから、ここで住み込みで働かせてもらってる」
「父さんが死んだのか?」
「ああ。三年前に事故でな」
ニコラは馬の脚へ傷がないことを確かめながら続ける。
「母ちゃんは、俺を産んだ時に死んだらしい。顔は知らない」
「……そうか」
ミケの耳がわずかに伏せられた。その変化に気づいたのか、ニコラが顔を上げた。
「もしかして……お前も親がいないのか?」
ミケはすぐには答えずに、馬の鼻先を撫でながら小さく口を開いた。
「父さんは、ずっと前に死んだ。母さんも、一年前に死んだ」
「そっか」
ニコラはそれ以上何も言わずに、ただ一言だけで受け止めた。
ミケには、その距離が心地よかったのかもしれない。しばらく黙り込み、馬が藁を食む音だけが聞こえていた。
「寂しくないのか?」
やがて、ミケが尋ねる。
「寂しいよ」
ニコラはあっさりと答えた。
「父ちゃんには、まだ聞きたいことがいっぱいあったからな。母ちゃんのことも、人から聞いた話しか知らないし」
「じゃあ、なんで笑ってる?」
「なんでって……」
ニコラが少し考える。
「寂しくたって腹は減るし、馬の世話もしないといけないからな」
「そういうことじゃない」
「分かってるよ」
ニコラは苦笑した。
「もちろん、父ちゃんのことを忘れたわけじゃない。だけど、忘れてなくたって笑うことはできるだろ」
「そうなのか?」
「ああ。俺はできた」
あまりにあっさりとした返事だった。
ニコラは特別に強いわけでも、悲しみを乗り越えたわけでもない。時には父親を思い出して涙を流すことだってある。
それでも腹が減れば飯を食うし、夜は眠るし、馬も世話を待っている。
そうやって暮らしているうちに、楽しい時には笑えるようになったのだろう。
「でもさ、悲しい時は悲しいままでいいんじゃないかと思う。俺は」
ニコラが言う。
「でも、楽しい時まで我慢する必要はないだろ」
「……そういうものか?」
「たぶんな」
「たぶんか」
「俺にだってよくわかんねえよ」
ニコラが笑う。つられてミケも、少しだけ口元を緩めた。
母親が死んだあと、ミケは村の者たちが普通に食事をしたり、笑ったりしていることが許せなかった。
自分だけが取り残され、誰も母の死を悲しんでいないように感じたからだ。
けれど、ニコラは両親を忘れたから笑っているわけではなかった。
悲しみを抱えたまま、今を生きている。
それをミケは、初めて理解したのかもしれない。
そこへ馬が再び首を伸ばして、ミケの頬へ鼻先を押しつけた。
「またか。やめろ」
「ブルル」
「しつこいぞ」
今度は耳の近くへ鼻を寄せられ、ミケが身をよじる。
「くすぐったいって……あはは」
堪えきれずに笑い声を上げた。ニコラもつられて笑う。
「お前、すっかり気に入られたな。会ったばかりなのに」
「こいつが勝手に寄ってくるだけだ」
「それを気に入られたって言うんだよ」
その言葉には答えずに、ミケは楽しそうに尻尾を左右へ揺らした。
馬房から少し離れた場所で、レティシアとクララがその様子を眺めていた。
逃げ出したミケを捜していたところ、馬房から話し声が聞こえたからだ。
ミケは領主館へ来てからずっと気を張っていた。
無理もない。見るもの聞くもの、すべてが初めてであるうえに、これほど多くの人間に囲まれたこともなかったのだろう。
勇ましい言葉を吐きつつも、決してレティシアの側から離れず、耳も尻尾も落ち着きなく動いていた。
しかし、ニコラは違う。
言葉遣いを気にする必要はなく、振る舞いも考えなくていい。互いに「お前」と呼び合い、思ったことをそのまま口にする。
ミケに必要だったのは、守ってくれる大人ではなく、対等に話せる相手だったのかもしれない。
「本日の指導は、ここまでとします」
クララがぽつりと言う。
「よろしいのですか?」
「はい」
意外に思ったレティシアが隣を見る。しかし、クララの表情はいつもと変わらなかった。
〈鬼にも慈悲はあった〉
〈なお明日の朝に再開するもよう〉
〈ぜんぜん逃げられてなくて草〉
〈さすクララ〉
〈優しいけど甘くはない。だがそこがいい〉
「では、失礼いたします」
クララが踵を返し、館へ戻っていく。
相変わらず顔に笑みはなかったが、ミケを見る目が、ほんの少しだけ柔らかくなったようにレティシアには思えた。
「ほかの馬も見るか?」
ニコラが尋ねる。
「見る」
「じゃあ、そこの水桶を持ってくれ」
「なんであたしが」
「ついでだよ、ついで」
「都合よく手伝わせるな」
ミケは文句を言いながらも水桶へ手を伸ばし、ニコラのあとを追って馬房の奥へ入っていく。
その背では、細く長い尻尾が楽しそうに揺れていた。
どうやらミケは、やって来たばかりの領主館の片隅で、さっそく自分の居場所を見つけたようだった。




