第59話 まずは食事にしましょう。
前回までのあらすじ
猫少女は「ダンジョン飯」のイヅツミをもう少し毛深くしたイメージです。
「ヤニねこ」ではありません。
少女の顔は、人間のそれとよく似ていた。しかし、顔全体が細く短い毛に覆われているところが大きく違う。
頭の上には三角形の二つの耳。それだけではなく、よく見れば、人間に近い形をした鼻の脇から細く長いひげまで伸びていた。
〈ひげ生えとるし〉
〈猫かな〉
〈しっぽは?〉
〈しっぽ見せて〉
〈し、しっぽ……はぁはぁ〉
〈お前ら落ち着けw〉
白、黒、茶。顔から髪にかけての三色のグラデーションは、前世の猫にたとえるなら三毛猫そのものである。
とはいえ、見惚れている場合ではない。
レティシアがどう話しかけるべきか考えていると、一行の後ろに控えていた下働きの一人が、おずおずと声を上げた。
「領主様」
振り返れば、三十代半ばほどの男が少女を見つめていた。
「あの子は、おそらく獣人族の子供です」
「獣人族?」
「はい。私の生まれた村では、時折、山から下りてきた獣人族と取引をしておりまして」
初めて聞く話だった。レティシアは驚きつつも、少女を刺激しないよう声を抑えて尋ねる。
「取引とは、どのようなものですか?」
「山から薪や木の実、キノコなどを持って来るのです。それを村の者が買い取り、獣人たちはその金で小麦粉や塩、布などを買って帰ります」
「そのような話は承知しておりません」
「申し訳ございません」
男が慌てて頭を下げる。
「その……村では昔から続いていることでございまして……わざわざ領主様へお知らせするようなことだとは、誰も考えておりませんでした」
〈出た、昔からそういうもの〉
〈昔からそういうものおじさん再び〉
獣人族が山の産物を持ってきた時だけ、村外れで取引をする。
それは本当に些細な金額でしかなかったため、村の徴税対象として認識していなかったのだろう。
山沿いの領民にとっては、昔から続く日常の一部。だからこそ、領主館まで情報が上がってこなかった。
レティシアは、これまで領内の様々なことを見聞きしてきたつもりだった。しかし、それでも自分が知らない事柄は、まだいくつも残っているらしい。
「この子をご存じなのですか?」
「いえ。私も獣人族の子供を見るのは初めてです。村へ来るのは、いつも大人ばかりでしたので」
レティシアは再び目の前の少女へ顔を向けた。会話を聞いているのかいないのか、彼女はその場にしゃがみ込んだまま、耳だけを小さく動かしていた。
「わたくしは、レティシアと申します」
レティシアは、少女と同じ目線のまま名乗った。
「このヴァレーヌを預かっている者です」
領主という言葉が理解できるかは分からない。たとえ通じたとしても、今の彼女にとっては武装した人間たちを連れてきた相手でしかなかった。だからレティシアは、できるだけ柔らかな声を心がけた。
「あなたのお名前を教えていただけますか?」
少女は答えなかった。金色がかった瞳がレティシアを見たあと、その後ろにいる者たちへ順に向けられる。そして最後にクルトを見た途端、伏せられていた耳がさらに平たくなった。
クルトが何とも言えない表情を浮かべる。
彼は護衛として必要な行動を取っただけだ。けれど、少女にしてみれば、自分を捕まえた恐ろしい人間でしかないのだろう。
しばらく沈黙が続く。しかし返事を急かすのは悪手だ。レティシアが黙って待っていると、やがて少女の口元がわずかに動いた。
「……ミケ」
かすれた、小さな声だった。
「ミケ、ですのね」
レティシアが微笑む。けれど、少女――ミケは笑い返さなかった。素早く立ち上がり、レティシアから距離を取る。
突然の出来事に護衛たちが反応する。クルトも一歩踏み出そうとしたが、レティシアは片手を上げて制した。
「追わなくて結構です」
ミケはそのまま森の中へ逃げていくかと思われた。しかし、数本先の木まで下がったところで足を止める。
太い幹の後ろへ身体を隠し、顔と耳だけをのぞかせてこちらの様子を窺い始めた。
〈ミケってw〉
〈そのまんまwww〉
〈担当者ァ!〉
〈名前雑すぎ問題〉
〈本人に罪はない〉
〈警戒心MAX〉
〈顔半分だけ出してる〉
〈はい、ひょっこりはん〉
〈なっつw〉
逃げるつもりなら、とっくに逃げていた。けれど、こちらへ近づくつもりもない。今のミケにとって、木一本分の距離が自分を守るために必要なのだろう。
レティシアは立ち上がり、土のついた乗馬服の膝を軽く払った。
獣人族だという説明を聞き、本人から名前も教えてもらった。
それが真実かどうかを確認する方法はある。人のプライバシーを無断で覗くことには抵抗があるが、今回は身元不明の子供を保護すべきかを判断するためだ。
必要な部分だけと自分に言い聞かせつつ、レティシアがステータスウィンドウを開く。すると、その視界の隅に半透明の画面が浮かび上がった。
【名前:ミケ】
【年齢:十三歳】
【種族:猫人族】
十三歳。
やはり、まだ子供だった。
レティシアは能力値や人物関係の項目には触れず、すぐに画面を閉じようとした。しかしその前に、表示された名前を見て指が止まる。
ミケ。
ふと、その名を思い出す。
前世で開発中だったゲームの大型アップデートでは、新たな地域と複数の種族、そしてシナリオ分岐に関わるキャラクターを追加した。
獣人族を追加するために、どの動物をモチーフにするかを開発チーム内で話し合った。幾つもの案が出され、ボツにされ、最終的に猫に決まったのだが、その理由は至極単純だった。ゲームディレクターが猫派だったからである。
そして、分岐シナリオの鍵を握る獣人キャラとして作られたのが、白、黒、茶色の毛並みを持つ猫人族の少女だった。
『三毛猫っぽいから、名前はミケでいいんじゃない?』
開発会議の席で、キャラクター担当者がそんなことを言った。
そのまんまじゃないの。少しはひねるとか、何かないの?
当時はそんなことを思ったものだが、仮称だったはずの名前はその後も修正されず、気がつけば、企画書にもシナリオ資料にも当たり前のように「ミケ」と記載されていた。
木陰から警戒する少女を眺めながら、レティシアは心の中で謝った。
……雑な名付けでごめんなさい。もしも前世に戻れたなら、もっと真剣に名前を考えてあげる。
その時、ふと思った。
ベルンハルト。
マティアス。
ミケ。
三人とも、大型アップデートで追加される予定だったキャラクターたちだ。ベルンハルトとマティアスは主従なのだから、二人が同じ場所にいても不思議ではないが、三人目のミケまでヴァレーヌ領内にいた。
これを偶然と片づけるには少し出来すぎている。やはり、大型アップデートの中心となる地域は、ヴァレーヌとその周辺だったのではないだろうか。
知っている名前の、知らない人物。
それがまた一人、目の前に現れた。
レティシアは石灰岩を探すために、自分の意思でここへ来た。誰かに命じられたわけではなく、自分で考えてここへ来ると決めたのだ。
けれど、その選択すら最初から誰かが用意したものだったとしたら。自由に歩いているつもりでも、決められた筋書きをなぞっているだけなのではないか。
そして、それを仕込んだのが前世の同僚。どこかに隠しボーナスを仕込んだと言っていた彼なのかもしれない。
レティシアの背筋に冷たいものが走った。
その時、静かな森の中に間の抜けた音が響いた。
きゅるるるる。
音がした方向へ一斉に視線が向けられる。そこでは、木陰に隠れるミケが両手で腹を押さえていた。
〈腹の音www〉
〈ギャグ漫画かよw〉
〈お腹空いてたんだな〉
〈何か食わせてやれ〉
ミケは何も言わずに、ただ、木の陰へ顔を引っ込めた。木立の陰から、耳の先だけが恥ずかしそうにのぞかせる。
薄ら寒い思考は、いったん脇へ置くことにする。
空を見上げれば、太陽はすでに高い。突然の出来事に気を取られ、気づけば昼時を少し過ぎていた。
「少し遅くなりましたが、ここで昼食にしましょう」
レティシアが告げ、オスカーが静かに頷いた。
「承知いたしました」
ミケの様子を見るために、あえてレティシアがこの場に留まろうとしている。気づいたオスカーは、下働きたちへ淡々と準備を命じた。
坑道から少し離れた平らな場所。そこに簡易かまどを組み、薪へ火をつける。持参した水を鍋へ入れ、火にかけた。
昼食として持参してきたのは、乾燥パスタだった。領主館で調理してきた肉と野菜のソースが別の器に入っている。こちらは小さな鍋へ移して弱火で温め直す。
やがて鍋の湯が沸き、乾燥パスタが投入される。ソースを温める鍋からは、肉と香草の匂いが立ち上り、風に乗って周囲へ広がった。
木陰から三角形の耳が現れる。続いて、ミケの顔が半分だけのぞいた。鼻先がひくひくと動き、長いひげが前を向き、伏せられていた耳も少しずつ持ち上がっていく。視線は鍋へ釘づけだった。
〈完全にロックオン〉
〈これは勝てる〉
〈餌付けって言うなよ〉
〈言うなよ?〉
〈餌付け開始〉
〈言ったw〉
茹で上がったパスタに温めたソースをかけて、それぞれの皿へ盛りつける。
一行が食事を始めても、ミケは木陰から動こうとしない。しかし、その視線はパスタから一度も離れようとしなかった。
アリスがフォークへパスタを巻きつけて口へ運ぶ。ミケの喉が、ごくりと動いた。オスカーが一口食べる。ミケの口元から透明な雫が垂れた。
〈涎出てるってw〉
〈なお、自覚はないもよう〉
〈もう限界だろ〉
〈はよ食わせてあげて〉
レティシアがミケの分を一皿取り分ける。
こちらへ来いと言っても警戒されるだけだろう。一行から少し離れた場所へ皿を置いた。
「ミケ」
耳がぴくりと動いた。
「お腹が空いているのでしょう?」
返事はないが、目は皿をガン見している。
「こちらへ来れば、食事を差し上げますわよ」
ミケは木の幹へ身体を隠したまま動こうとしない。レティシアは笑みを崩さず、言葉を続ける。
「誰もあなたを捕まえたりしませんよ」
ちらりとクルトを見る。クルトは複雑そうな顔をしながら視線を逸らした。
「無理にとは言いませんけれど、このままでは冷めてしまいますわよ。せっかくですから、温かいうちにどうぞ」
ミケの耳が動く。皿を見て、クルトを見て、また皿へ視線を戻した。しばらくの間、警戒心と食欲の激しい争いが続く。
やがて——ミケが木陰から飛び出した。低い姿勢のまま一気に皿まで駆け寄り、身構える護衛たちをレティシアが手で止めた。
その様子を横目に、ミケは皿を両手で持ち上げるとすぐに元の木陰へ戻った。
〈かしこまりました。お持ち帰りですね〉
〈猫まっしぐら〉
〈野良猫にご飯を取られた感〉
〈でも食べてくれるだけ進歩〉
木の幹の向こうで、ミケは皿へ鼻を近づけた。何度も匂いを嗅ぎ、人間たちの様子を窺う。フォークも一緒に置いてあったが、それには触れなかった。
ミケは指先でパスタを一本つまみ、おそるおそる口へ入れた。
直後に耳がぴんと立つ。
次の瞬間、ミケは両手でかき込むようにパスタを口へ運び始めた。飢えていたのだろうか、まるで空腹を埋めるように次から次へと手づかみで食べていく。
食事作法から言えば、完全なマナー違反である。けれど、今この場で注意する者はいなかった。
ミケは山中で暮らしている獣人族の子供である。人間の食事作法を知らなくても不思議ではない。
アリスは驚いたように目を見開き、オスカーは眉を寄せた。クルトは、何とも言えない顔でミケを見る。
そしてレティシアだけは、素知らぬふりで食事を続けた。
やがてパスタを食べ終えたミケは、おもむろに皿へ顔を近づける。長い舌を伸ばし、皿の表面を丁寧に舐め始めた。
〈フォーク「解せぬ」〉
〈皿を舐めるなw〉
〈いや舐めるよね猫だし〉
〈きれいに食べますねえ〉
〈食べ物を無駄にしない精神〉
〈クララが見たら倒れそう〉
確かに。
マナーにうるさいクララのことだ。間違いなく卒倒するだろう。
いや、卒倒する前に無言で皿を取り上げて、食事作法の指導を始めるかもしれない。
ミケとクララ。まだ出会ってもいないこの二人の未来を想像し、レティシアは少しだけ遠い目になった。
ミケは皿に残ったソースを一滴残らず舐め取ると、満足そうに息を吐いた。口元の白い毛がソースで赤茶色に汚れているが、本人はまったく気にする様子もない。
空になった皿を抱えたまま、木の幹のそばへ腰を下ろした。
先ほどまでのように、身体を完全には隠していない。耳はまだ警戒するように動いているが、それでも、最初に見せていた激しい恐怖は消えていた。
ほんの少しではあるけれど、食事一食分だけ距離は縮まったらしい。
レティシアは穏やかに声を投げかける。
「ミケ」
猫耳が、レティシアの方へ向く。
「もう少しだけ、お話を聞いてもよろしいですか?」
ミケは返事をしなかった。しかし、逃げようともしない。それを拒絶ではないと受け取ったレティシアは静かに尋ねた。
「あなたは、ここで一人で暮らしているのですか?」
その問いに、ミケの耳がぴくりと動いた。




