第55話 これが若さか。なのですわ。
前回までのあらすじ
だめだ……完全に腐ってやがる……
卓上に広げられた地図へ、ベルンハルトが指先を置いた。
示されたのは、オーデル川の中でも流れが緩やかな一帯。少し下流には両国を結ぶ橋と関所があり、さらに先には川岸へ近づきやすい浅瀬がある。
「まず、現在の巡回状況を確認したい。ヴァレーヌ側では、どの範囲を何人で見ている?」
穏やかな口調ではあるものの、問いは具体的だった。
それは単なる質問ではなく、ベルンハルトはレティシアが領内の状況をどこまで把握し、どの程度自分で判断しているのかを確かめようとするものだ。
背後にはオスカーが控えている。レティシアが答えに窮すれば、振り返って助けを求めると思っているのだろう。
けれど、彼女は地図から視線を上げなかった。
「橋を中心に、上流と下流へ分けて巡回しております。昼間は川岸と街道を中心に、夜間は関所周辺と、船を出しやすい場所を重点的に。人数と時刻を固定すると動きを読まれますので、あえて一定にはしておりません」
「夜間に不審者を発見した場合は?」
「まず人数と武装の有無を確認し、こちらの存在を気づかせないまま応援を呼びます。少人数で接触し、無用な戦闘を起こすのは避ける方針です」
「相手が川へ逃げたら?」
「追跡はヴァレーヌ側の岸まで。川へ入った時点で、そちらの管理所へ合図を送ります」
ベルンハルトの眉が、わずかに動いた。
「そのまま逃がすのか」
「無理に追って、巡回兵を危険な目に合わせるよりはよろしいかと存じます」
レティシアは微笑みを崩さない。
「まして、川の中央を越えれば無断越境と受け取られかねません。密輸人を一人捕らえるために、両国の兵を向かい合わせるわけにはまいりませんもの」
「では、こちらが見落とせば逃げ切られる」
「そのための連絡手段を、これから決めるのではございませんこと?」
答えると同時に問い返され、思わずベルンハルトが口を閉じる。
見れば、背後のオスカーは身じろぎひとつせず、レティシアが助けを求める様子もなかった。
〈これはテストしてる〉
〈オスカーに助けを求めるか見てるのか〉
〈これが見ないんだよなぁ〉
〈圧迫面接のはずが逆面接だったでござる〉
〈逆質問で刺す女〉
〈ぬるぽ〉
〈ガッ〉
視界の端を流れていくコメントを無視し、レティシアは地図へ白い指を伸ばした。
「リューベル辺境伯閣下。そちらでは、この浅瀬をどのように扱っておられますの?」
「日中は二人一組で巡回させている。夜間に人影があれば、現場で危険度を判断し、人数、武装、進行方向を確認したうえで管理所へ報告させる」
「すべての巡回兵に、同じ判断を求めておられるのですか?」
「当然だ。現場にいる者が最も多くの情報を持っている」
理屈そのものは間違っていない。しかしレティシアには、少し引っかかるものがあった。
「経験の浅い兵でも、同じように?」
ベルンハルトが答えるより先に、斜め後ろに控えていたマティアスが口を開いた。
「実際には、経験に応じて報告内容を分けております」
爽やかな印象を崩さないまま、淡々と説明を続ける。
「新任の者には、場所、人数、危険の有無を先に知らせるよう指示しております。武装や進行方向などの詳細は、同行する古参兵か、後から到着した班長がまとめる形です」
「ああ、そうだったな」
ベルンハルトはごく自然に頷いた。
マティアスの補足を、特別なものとは考えていないらしい。
しかし、それは最初から決められていた運用というより、ベルンハルトの指示をマティアスが現場向けに整え、落とし込んだ結果ではないだろうか。
会ってすぐにわかった。ベルンハルトは頭の回転が速い。よって判断も素早い。
即断即決。おそらく本人にとっては、人数と武装と進行方向を瞬時に確認し、危険度を判断する程度は難しくないのだろう。
だから、訓練を受けた兵なら同じことができると考えている。そしてマティアスは、その要求を現場の者が実行できる形へと、さりげなくかみ砕いていた。
〈主の高速思考を現場にデプロイ〉
〈日本語でおK〉
〈即断即決の上司+調整型副官〉
〈解像度高い副官〉
なるほど、それだ。
先ほどから感じていた違和感の正体が、少し見えてきた。確かめようと思えば、確かめる方法はある。
けれど、レティシアはためらった。
ステータス閲覧。
意識を向けるだけで、対象の能力や技能を確認できる管理者権限のひとつである。便利なのは間違いない。だからこそ、彼女はこの力があまり好きではなかった。
人がアイデンティティとしているものを、本人の許しもなく一覧にして眺める。それは相手を知るというより、秘密を盗み見る行為に近い。
とはいえ、今は個人的な好奇心で二人を調べようとしているわけではなかった。
国境をともに守れる相手なのか。
領民の命に関わる判断を任せられる人物なのか。
領主として確認しておく意味は多分にある。
――ステータスオープン。
レティシアが心の中で命じると、半透明の文字が二人の姿へ重なった。
ベルンハルト・リューベル。
28歳。男。
ふむ。
統率、戦術判断、危機察知、即時判断。
いずれの数値も極めて高い。
その一方で、人材育成と意思伝達は標準の範囲に収まっている。決して低くはないが、突出したほかの能力とは明らかに差があった。
続いて、マティアス・プラーム。
26歳。男。
副官技能、情報整理、部隊調整、兵站管理、対人観察。
どれも高水準。とりわけ部隊調整の適性は、ベルンハルトの統率に匹敵するほどである。
やはり。
ベルンハルトが素早く決断し、マティアスがそれを現場の人間にも扱えるように落とし込む。二人は間違いなく互いの能力を補完していた。
そこまで確認したところで、表示の下端にある項目が目に入る。
【人物関係・詳細】
レティシアの意識が、ぴたりと止まる。
これを開けば、二人が互いをどのように認識しているのかが、さらに詳しく分かるのではないだろうか。
幼馴染。
辺境伯と副官。
二歳差。
軍務上の主従。
ひょっとすると、その先にあるものまで――。
いやいやいやいや。
だめだ、いけない。それだけは覗いてはいけない。
レティシアは、頭の中で伸びかけた指を全力で引っ込めた。
私ったら、いったい何を確認しようとしているの。
能力を覗くだけでも忌避感が強いというのに、個人的な感情や恋愛事情にまで踏み込めば、もはや言い逃れはできない。
もはやそれは管理者行為ではなく、ただの野次馬根性だ。
気になる。たいへん気になる。
正直に言えば、この二人の関係を確かめてみたい。だけど、気になるから見てよいという理屈は、前世でも今世でも通用しない。
レティシアは人物関係の項目をそっと閉じ、続いてステータス表示そのものを消した。
危ういところだった。あと一歩で、領主としての情報収集が腐った好奇心に乗っ取られるところだった。
ふう……
レティシアが心の中の冷や汗を拭き、何事もなかった顔で視線を戻す。すると、ベルンハルトがこちらを見ていた。
「何か気になることでも?」
「いいえ」
レティシアは、いかにもな公爵令嬢然とした顔で、にこやかに答えた。
「リューベル辺境伯閣下のご判断は、たいへん素早いのだと思っておりました」
「それが何か?」
「その速さを、副官殿が現場の方々にも迷いなく実行できる形へ整えておられる。お二人の役割が明確だからこそ、こちらの管理所は効率よく動いているのでしょう」
ベルンハルトは、わずかにマティアスを振り返った。
「そう見えるか」
「ええ。とてもよいご関係ですわ」
最後の一言に別の意味が混ざりそうになり、レティシアは微笑みに力を込めた。
気を抜くな、危ない。
今は国境警備の話をしているのだ。間違っても、あんなことや、こんなことまで……混ぜるな危険。
はっ!
〈バレた?〉
〈なにが?〉
〈さあ?〉
〈絶対何かよからぬこと考えてたろ〉
〈しれっとしたw〉
ベルンハルトは単純に、主従の連携を褒められたと受け取ったらしい。軽く頷き、再び地図へ目を戻した。
けれど、マティアスの青い瞳だけが、静かにレティシアへ向けられていた。
彼には分かったのだろう。レティシアが見抜いたのは、表面的な連携だけではないことを。
ベルンハルトの判断が速すぎること。そして、その速度と現場との間にある隙間を、マティアスが人知れず埋めていることまで。
マティアスの表情は変わらない。ただし、レティシアを見る目から、先ほどまでの柔らかな光だけが消えていた。
代わりに浮かんだのは、観察する者の目だ。
どうやらこちらも、見定められる側になったらしい。
「報告方法について、ひとつ提案がございます」
レティシアは地図の端に置かれた紙を指した。
「緊急時の第一報では、場所、人数、危険の有無。この三点だけを伝える形に統一してはいかがでしょう」
「情報が少なすぎる」
ベルンハルトが即座に返す。
「ですが、詳しい情報を集めている間に、第一報そのものが遅れる方が問題ですわ。武装や進行方向、荷物の有無などは第二報に回せばよろしいかと」
「二度手間になる」
「一度の報告にすべてを求め、初動が遅れるよりはましです」
ベルンハルトの眉間に、ほんのわずかな皺が寄る。
領地持ちの女伯爵とはいえ、十歳も年下の少女に、自領の運用を修正されるのが面白くないのかもしれない。
しかし、その感情を理由に提案を退けるほど狭量ではなかった。
しばし考えた後、ベルンハルトはマティアスを見た。
「どう思う」
「第一報を早めるという点では、有効かと存じます。詳細を受ける者を管理所に常駐させれば、混乱も抑えられるでしょう」
「……分かった。試してみよう」
意外にも、ベルンハルトは素直に聞き入れた。
自分の考えに凝り固まり、人の意見を聞こうとしない頭の固い中年の上司には、前世でかなり苦しめられたものだ。
逆に、人に意見を聞き、必要であれば自身の考えを修正できるならば、この若者にはまだまだ伸びしろがある。
レティシアは微笑みを浮かべたまま、心の中だけで呟いた。
ふっ……これが若さというものか。
〈イケメン皺いただきました〉
〈現場あるある〉
〈有能な人ほど全部まとめて欲しがる〉
〈ちゃんと部下の意見を聞ける上司は偉い〉
〈レティシア様、今ちょっと勝ち誇った?〉
勘違いしないでほしい。決して、勝ち誇ってなどいない。
ただ、前世と今世で合計46年生きてきたおばさん……お姉さんとして、28歳の若造……若者の成長が少し微笑ましかっただけだ。
例えるなら、自分の子供のような年齢の推しアイドルの活躍を、保護者視点で生温かく見守るようなものだろうか。
その後も協議は続いた。
増水時の巡回中止基準。
川で遭難者を発見した場合の保護。
漂流物が流れ着いた際の連絡。
対岸で火災や争いを発見した場合の合図。
どちらの領主にも、国家間の正式な約定を結ぶ権限はない。軍の越境や犯罪者の引き渡し、関税に関わる問題へ踏み込むことも避ける必要がある。
それでも、現場同士で決められることは少なくなかった。
「まずは三か月、試験的に運用してはいかがでしょう」
レティシアの提案に、ベルンハルトが頷く。
「月に一度、実務者同士の会合を開く。場所はこちらとヴァレーヌ側の管理所で交互にする」
「領主本人の都合が合わない場合は、代理人を立てることにいたしましょう」
「こちらはマティアスを出す」
「ヴァレーヌ側は国境警備団長のハースを中心に、記録と行政面についてはオスカーに補佐させますわ」
ここで初めて、レティシアは背後の家令へ視線を向けた。
それは助けを求めるためではなく、決定した内容を実行へ移すよう命じるものだった。
オスカーが静かに一礼する。
「承知いたしました」
マティアスも卓上の書面を手元へ寄せ、決定事項を書き留めていく。
〈三か月トライアル期間〉
〈その後は自動で本契約になります〉
〈何のサブスクだよw〉
〈オスカーは黒幕じゃなく実務執行役〉
〈支える家令〉
〈胃を痛めながら支えてる〉
〈またそれw〉
「緊急時は定例会を待たずに、相手側の管理所へ使者を送る。第一報は場所、人数、危険の有無を優先する」
「ええ。ただし、互いの兵が許可なく川を越えないことも明記してくださいませ」
「異存はない」
ベルンハルトが答え、マティアスがその一文を書き加える。すべての確認を終え、レティシアは椅子から立ち上がった。
「本日は、有意義なお話ができましたことを嬉しく思いますわ」
「こちらも同じだ」
ベルンハルトも立ち上がる。
その薄茶色の瞳には、会談を始めたときとは異なる光があった。
完全に信用したわけではないが、気の毒な若い公爵令嬢として扱うつもりはもうないのだろう。
「国は異なりますが、わたくしたちは同じ川を挟んで暮らす隣人です。今後も、互いの領民にとってよい関係を築いていければと存じます」
「同感だ。避けられる混乱を、国が違うという理由だけで放置する必要はない」
二人は互いに礼を交わした。
レティシアがオスカーたちを伴って部屋を出る。扉が閉じるまで、マティアスはその背中を見送っていた。
「どう見た?」
ベルンハルトの問いに、マティアスはすぐには答えなかった。
「ヴァレーヌ女伯爵様のことでございますか」
「ほかに誰がいる」
マティアスは、閉じられた扉へ視線を向けたまま言う。
「閣下がお考えになっているより、はるかによく人を見ておられる方かと」
「王太子妃となるための教育を受けていたのだ。それくらいは身につけていてもおかしくはない」
「そうかもしれません」
否定はしない。ただ、その返答には明らかな含みがあった。
ベルンハルトが眉を寄せる。
「何が言いたい」
「閣下と対等に話せる女性は、そう多くございません」
「今日一度の会談で判断することではない」
「おっしゃるとおりです」
マティアスは素直に頭を下げた。
「ですから、今後も見極める必要があるかと」
ベルンハルトは答えず、卓上に残された地図へ目を落とした。
ヴァレーヌ女伯爵。
家令の言葉を繰り返すだけの、お飾りの少女ではなかった。少なくとも、国境領主として自分の言葉で話せる相手ではあるようだ。
どこまでが教育によるものなのか。
どこからが彼女自身の資質なのか。
それは、まだ分からない。けれど、見た目と噂だけで判断してよい相手ではなさそうだった。
「次の会合でも、本人が来るのか?」
ベルンハルトが何気なく尋ねる。
「予定が合えば、と伺っておりましたが」
「そうか……そうだな」
短く答え、ベルンハルトは地図を畳み始めた。
その様子を見るマティアスは、何も言わなかった。




