第53話 知っているようで知らない二人です。
前回までのあらすじ
ヴァレーヌは着々と変わりつつある。さすレティ。
ベルンハルト・リューベル辺境伯からの返書が届いたのは、書簡を送ってから十日ほど経った朝のことだった。
封蝋を確かめたオスカーが、銀のペーパーナイフで封を切る。中から取り出された便箋は、無駄のない整った筆跡で書かれていた。
「リューベル辺境伯は、面会に応じるとのことです」
オスカーが要点を読み上げる。
内容を聞いて、レティシアは小さくうなずいた。
正式な約定ではなく、あくまで着任の挨拶を兼ねた国境実務の意見交換。
場所はオルトラント王国側の国境管理所。同席者は少数。
「こちらの意図を、汲んでくださいましたのね」
「そのようです」
こちらが用意した建前に、相手も乗ってくれた。つまり、少なくとも言葉の通じる相手である可能性は高い。
「お嬢様」
オスカーが、便箋を丁寧に畳みながら言った。
「くれぐれも、これは意見交換でございます。それ以上でも以下でもございません。よろしいですね」
「分かっていますわ」
「あなた様を信じてはおりますが、一応申し上げておきます」
「ご忠告、痛み入ります」
アリスが横で笑いをこらえている。
レティシアは咳払いをした。
〈意見交換(意味深)〉
〈これはただの意見交換なんだから!(震え声)〉
〈信じてない言い方で草〉
〈またぎりぎりを攻める気か〉
〈オスカーの胃がアップを始めました〉
話したいことは多い。
国境警備の巡回情報。
不審者や密輸の情報共有。
増水や事故が起きた際の連絡方法。
橋と渡し場の通行記録。
けれど、いきなり約束を取り付けるつもりはなかった。まずは、お互いの現場が何に困っているかを知るだけだ。
本当にそれだけ……たぶん。
会談当日。
レティシアは華美すぎず、軽すぎない外出用のドレスを選んだ。
落ち着いた深い青色に、動きやすさを優先した仕立て。装飾は控えめだが、ヴァレーヌ女伯爵としての紋章はきちんと身につけている。
クララは最後まで襟元と袖を確認し、満足したのかようやく一歩下がった。
〈クララチェック入ります〉
〈襟元ヨシ!〉
〈袖ヨシ!〉
〈何を見てヨシ!って言ったんですか?〉
「お嬢様。今回は隣国の辺境伯との会談です」
「ええ」
「甘味不足で、机に溶けていた時とは違います」
「分かっていますわ」
「リューベル辺境伯は、猛禽とあだ名される油断ならないお方です。くれぐれも足元をすくわれないようご注意ください」
「問題ありませんわ。どんな殿方も、この美貌でイチコロですもの」
レティシアが冗談めかした笑みを浮かべる。そこには一切の緊張も気負いも見られなかった。
〈よく言うw〉
〈イチコロ=一撃で殺す〉
〈いや殺すなよw〉
〈猛禽類VS糖分不足令嬢〉
〈勝負になるのか?〉
クララは無表情のまま、ほんのわずかにまばたきをした。
それは――たぶん、笑っていた。
同行するのは、オスカー、アリス、護衛騎士のクルト・レッシュ、そしてベテランの騎士が一人。他の護衛は国境管理所の外で待機する予定だ。
クルトは二十六歳。浅黒い肌に黒髪、茶色の瞳。目立つ装飾は身につけていないが、立ち方だけで鍛えられていることがよく分かる。
レティシアの護衛騎士の中でも特に腕が立ち、寡黙ではないが余計なことも言わず、場の空気を読むことに長けていた。
国境を越える会談に連れていくなら、ちょうどよい人選である。
馬車は領主館を出て、北のオーデル川へ向かう。
道中、レティシアは窓の外を眺めながら、以前にハースと訪れた国境沿いの屯所を思い出していた。
あの時は川のこちら側から眺めるだけだったが、今日はその向こうへ渡るのだ。
〈前衛クルト、支援オスカー、癒しアリス、主砲レティシア〉
〈主砲w〉
〈誤射が怖い〉
〈本当に意見交換?〉
〈それ絶対建前だろ〉
失礼な。決して建前ではなく、本当に意見を交換するつもりだ。
とはいえ、結果がどこへ向かうかは分からない。いざとなったら、その言葉を便利に使わせてもらうかもしれないが。
ただし、節度を持って。
橋の手前でフェルメリア側の関所を通過する。あらかじめ通達してあったので、手続きは滞りなく進んだ。
橋の上に入ると、車輪の音が少し変わった。窓の外には夏の日差しを反射するオーデル川が流れていた。
自分はヴァレーヌ女伯爵だ。フェルメリア王国の国境領主としてここに来ている。
それをいまさらながらに思い出し、レティシアは思わず背筋を伸ばした。
オルトラント側の関所は、フェルメリア側と同じく実用的な造りだった。ただし、石組みや屋根の形、兵の装備には少しずつ違いがある。
そんなところにも文化の違いが表れていて面白い。
馬車が止まると、関所の兵たちが姿勢を正した。
若い……いや、若すぎる女領主の来訪に、彼らが明らかに驚いているのが見て取れた。
視線には好奇心がある。警戒もある。けれど、非礼はなかった。
驚きはしても立ち方は崩れない。視線は動くが足は乱れない。命じられた役割を、それぞれがきちんと守っている。
レティシアは、それだけで少し感心した。
なるほど。
この関所を預かる者は、少なくとも兵を放置するような人物ではないらしい。
案内役の兵が進み出て、丁寧に頭を下げる。
「ヴァレーヌ女伯爵様でいらっしゃいますね。リューベル辺境伯閣下がお待ちです」
「ご案内をお願いいたします」
レティシアは穏やかに答え、馬車を降りた。
オスカーが一歩後ろへ控え、アリスはやや緊張した顔で続く。クルトは周囲に目を配りながら警戒した。
国境管理所は、関所に併設された石造りの建物だった。城でも館でもない、実用一点張りの造りである。
扉は厚く、窓は小さい。廊下には余計な装飾がないが、床はよく掃き清められ、壁に掛けられた地図は古びていなかった。
書棚には札が並び、書類はきちんと分類されている。兵の動線も整理されており、すれ違う者たちに無駄な動きはない。
レティシアは、それらを好ましく思った。
ここは国境の管理所である。必要なのは豪華な内装ではなく、見やすい書棚と正確な記録、そして動ける人間だ。
応接室も同様だった。質素な机と椅子。よく手入れされた書棚。
壁にはオーデル川周辺の地図が掛けられており、窓からは先ほど渡ってきた橋と川が見える。
案内役が退出すると、レティシアは席に着く前に一度、地図へ視線を向けた。
橋、渡し場、巡回路、川沿いの村、関所の位置。話したいことが、自然と頭の中に並んでいく。
〈ちゃんとした管理所だな〉
〈派手さはないが実用的〉
〈相手も実務派っぽい〉
〈レティシア様、仕事モード〉
〈さすレティ〉
〈糖分切れで溶けていたのと同じ人物とは思えない〉
同じ人物だ。たいへん遺憾だが。
少し待ったあと、扉の外で足音が止まった。
案内役の声が聞こえる。
「リューベル辺境伯閣下がお見えです」
レティシアは立ち上がり、オスカー、アリス、クルトもそれぞれの位置についた。
扉が開く。
最初に入ってきた男を見て、レティシアは一瞬、呼吸を忘れた。
ベルンハルト・リューベル辺境伯。
年齢は二十八歳と聞いていた。こげ茶色の長い髪を後ろでまとめ、薄茶色の瞳をしている。
百八十センチを超える長身に、細身ながら鍛えられた体躯。鋭い切れ長の目は、精悍な猛禽類を思わせた。
美しい。
男性に対して使う言葉としては少し違うのかもしれないが、その言葉が一番しっくりきた。
その美貌を引き立てるように、上着は過度に飾られておらず、腰の剣も華美な儀礼用ではなく実用的な重みがある。
歩き方には無駄がなく、視線は隙なく室内を捉えていた。
見せかけだけの貴公子ではない。国境を預かる領主の重みが、その身のこなしにはあった。
〈ベルンハルトキタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!〉
〈イケメンだああああ〉
〈逆にイチコロにされそう〉
〈イチコロ=一撃でコロンボカレー〉
〈それな〉
〈それなじゃないが〉
その斜め後ろに控える若い男も、また目を引いた。
輝くようなプラチナブロンド。青い瞳。ベルンハルトほどの長身ではないが、それでも平均的な男性よりは背が高い。細身だが鍛えられている。
ベルンハルトが鋭く静かな刃なら、彼は磨かれた銀のような華やかさを持っていた。
ベルンハルト・リューベル。
その名に覚えがないわけではない。
前世で携わっていた乙女ゲーム『セイント・オブ・フェルメリア』の仕様書で、レティシアはその名前を見たことがあった。
ただし彼は初期実装の主要人物ではなく、大型アップデートで追加される予定だった、隣国オルトラント関連の新規キャラクターである。
しかしレティシア自身はそのシナリオの主担当ではなかった。設定の整合性確認や既存イベントとの矛盾チェックで名前を追った程度だ。
だから、知っているようで知らない。
名前は覚えている。立ち位置も、なんとなく分かる。しかし、彼がどんなイベントで登場し、何を考え、どのように物語へ関わる人物だったのかまでは、はっきりしなかった。
そしてもう一人。
副官のマティアス・プラーム。
その名も資料の中にあった。
ベルンハルトの副官である、大型アップデート追加組。隣国ルートの周辺人物。
それくらいは覚えている。けれど、そこまでだ。細かい台詞も、イベント分岐も、レティシアの記憶には残っていない。
つまり、目の前にいる二人は、前世の知識がまったく通じない相手ではないが、安心して先読みできる相手でもなかった。
知っている名前の、知らない人物。
それが、今のベルンハルト・リューベルとマティアス・プラームだった。
隣で、アリスがほんのわずかに息を呑む。その視線は、ベルンハルトではなく、斜め後ろの若い男へ向いていた。
おや?
と、レティシアの中のどこかが反応した。しかし今はそれどころではない。
ベルンハルトが一歩進み、礼を取る。
「ようこそお越しくださった、ヴァレーヌ女伯爵殿。ベルンハルト・リューベルです」
低く、よく通る声だった。
硬すぎず、軽くもない。
レティシアは、王妃教育で叩き込まれた通りの角度で礼を返した。
「お招きいただき、感謝いたします。リューベル辺境伯閣下。フェルメリア王国、ヴァレーヌ女伯爵、レティシア・グランシエールでございます」
声は普段通りだった。微笑みも崩れていない。姿勢、視線、礼、そのどれにも一分の隙もない。
ベルンハルトから見れば、若いながらもよく躾けられた女領主であり、フェルメリア王国を代表する大貴族家の令嬢に見えただろう。
ただ、斜め後ろに控えるオスカーだけがほんのわずかに目を細めた。
付き合いの長い彼には分かる。お嬢様は今、何か余計なことを考えている、と。
〈なお中身は甘味不足で机に溶けるポンコツ令嬢〉
〈バレてるw〉
〈高性能家令センサー〉
〈余計なこと検知器〉
ベルンハルトが、斜め後ろの男を軽く示した。
「副官のマティアス・プラームです」
マティアスと呼ばれた若い男が、爽やかな所作で礼を取る。
「お初にお目にかかります、ヴァレーヌ女伯爵様」
「こちらこそ、お目にかかれて光栄ですわ」
〈こんにちは。マティアス・プラームです〉
〈キャー!すてきー!結婚してー!〉
〈アリス息してる?〉
レティシアは微笑んだ。完璧に。
少なくとも、外からはそう見えたはずだ。しかし胸の奥で、何か小さく鍵の鳴る音がした。
それが警戒なのか、動揺なのか、それとも美しすぎる男性たちへの感嘆なのか。レティシア自身にも、よく分からなかった。
ただひとつ確かなのは、ベルンハルト・リューベル辺境伯という人物は、想像していたよりもずっと厄介そうだということだった。




