第52話 変わり始めたヴァレーヌ
前回までのあらすじ
有能すぎる上司のせいで、オスカーは胃薬が手放せない。
飼料用根菜から甘い汁が取れる。
その事実は、領主館のごく一部だけが知る秘密となった。
もちろん、それはまだ砂糖と呼べるようなものではない。少なくともレティシアが知る、白くてさらさらした甘い粉ではなかった。
籠いっぱいの根菜を洗い、刻み、煮出し、濾し、さらに煮詰める。そこまでして取れたのは、小皿に少しばかりの黒い煮汁だった。
土臭く、青臭く、えぐみが強い。口に含むと確かに甘いが、そこへたどり着く前に雑味が全力で自己主張してくる。
「これを砂糖の代わりにするには、まだ無理がありますわね」
作業場の小皿に残った煮汁を見下ろし、レティシアは小さく息を吐いた。
「はい」
隣に立つリオネルが、真剣な顔でうなずく。
「確かに甘みはございます。しかし、雑味が多すぎてこのままでは難しいですね」
「でしょうね」
レティシアは煮汁をじっと見つめた。
前世の記憶が、頭の片隅で主張している。
これは始まりにすぎない。ここから不純物を取り除き、煮詰め方を変え、濾し方を工夫していけば、いずれ使えるものになるのは分かっている。
問題はその道のりが長いことだ。
リオネルは小皿の煮汁をもう一度だけ匙に取った。香りを確かめ、舌に乗せ、眉間にしわを寄せる。
「処理の仕方を変えれば、多少は変わるかもしれません。皮の削り方、刻み方、煮出す時間、灰汁の取り方。試す余地はございます」
「頼もしいですわ」
レティシアはうなずいた。
今や料理長の目に戸惑いはない。そこにあるのは、未知の食材を前にした職人の好奇心だった。
どうやら今回の件は、彼の料理人魂に火をつけてしまったらしい。
とはいえ、これは厨房だけで解決できる問題ではないだろう。
土臭さやえぐみをどう減らすか。濁りをどう取るか。そして、大量に煮出し、煮詰めるための燃料をどう確保するか。
甘味への道は、思ったより険しい。
ただ甘いものが食べたかっただけなのに、なぜそこから資材調達と燃料問題が噴出してくるのか。
人生とは、本当にままならないものである。
〈甘い物が食べたい一心で領地改革をする女〉
〈動機が不純すぎて草〉
〈でも発明なんてそんなもんじゃね〉
〈料理長の目が職人の目になってる〉
〈また残業が増えた〉
〈クララとの時間は大丈夫?〉
それな。
せっかく恋人たちの語らいの時間(定期休暇)を作り出したというのに、肝心のリオネルが忙しすぎる。
これ以上の無茶振りはクララとの関係が悪化しかねない。それが原因で別れたりすれば、一生悔やんでも悔やみきれないだろう。
レティシアは心の中でコメントに返しつつ、リオネルを見た。
「リオネル。ひとまず、この研究はあなたに任せます。ただし、秘密は守ること。記録は残すこと。勝手に人を増やさないことを約束してください」
「承知いたしました」
リオネルは深く頭を下げた。
「その代わり、乾燥パスタの改良はあなたの手から離します」
「よろしいのですか?」
「もちろんです」
オスカーが横から静かに口を挟んだ。
「では、パスタの生地と乾燥方法の改良はパスタ工房に任せましょう。リオネルには、料理としての仕上げとソースの開発を見てもらいます」
乾燥パスタの商品化の道筋はすでに見えている。だから、そちらをリオネルに任せきりにしておく必要はもうない。
前世でも、何でもかんでも一人の有能な人間に積むと崩壊した。そして上司が「なぜ事前に言わなかった」と責めるのだが、たいていそれらはそのずっと前に報告してある。要は、揃いも揃って見ていないふりをしていただけだ。
思い出しただけで、胃がきりきりと痛くなる。
分業は大切だ。何でもできるからといって、リオネルに何でもやらせていいわけではない。
料理長には料理長の仕事がある。工房には工房の仕事がある。そしてレティシアには、甘味を得るという重大な使命があった。
……いや、違った。領地経営だ。領地を経営して、領民を食べさせるのが仕事だった。決して、甘い物が食べたいだけではない。
こうして、甘い煮汁の研究はリオネルに任され、乾燥パスタの改良はパスタ工房へと移されたのだった。
最近の領主館では、パスタがちょっとした流行になっていた。
いつもの野菜スープに、小さく折った乾燥パスタをひとつかみ入れる。豆や干し肉が少しあればなおよい。
鍋の中でやわらかくなり、全体にとろみと重さが出ると、ただの汁物が腹にたまる一皿に変わる。
あの硬いパンを別に食べなくても、それなりに満足できるのだ。
〈スープパスタかな〉
〈これは旨い〉
〈鈍器パンより数倍いい〉
〈スープに麺は正義〉
〈炭水化物は人を救う〉
そう。炭水化物は人類を救うのだ。これは有史以前からの真理である。
「今日のまかない、パスタ入りだって」
「助かるわ。あれ、腹持ちがいいのよ」
「硬いパンを浸さなくても食べられるのがいいな」
「歯にもやさしいし」
厨房の隅から聞こえてくる使用人たちの声に、レティシアは満足げにうなずいた。
そのまかないを作っているのは主にエルマである。
最初は調理補助として雇われた彼女だが、今ではリオネルの監督のもとに、使用人たちのまかないの多くを任されるようになっていた。
「エルマ、今日のパスタは少し短めなのね」
レティシアが声をかけると、エルマは少し緊張した顔で頭を下げた。
「はい、領主様。長いままだと、忙しい者には少し食べにくいようでしたので。スープに入れるなら短い方がよいかと」
「なるほど」
「それから、細いものはすぐ柔らかくなりますが、煮すぎると崩れます。少し厚めのものは、時間はかかりますが腹持ちがよいです」
エルマは、少しずつ慣れてきた口調で説明した。
その右頬には幼い頃の火傷跡がある。恐らくは今後も消えることはない。けれど、厨房で鍋を前にしている時の彼女は、今ではまったく気にしていなかった。
自分の作ったものを、誰かが食べる。おいしいと言う。助かると言う。ただそれだけで、エルマは強くなった。
「とてもよい工夫ですわ」
レティシアが言うと、エルマの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
リオネルが横でうなずく。
「エルマは、まかないの組み立てが上手くなりました。高価な材料を使わずに工夫ができます」
「それは大事ですわね」
「はい。領主館だけでなく、市井の店でも使える考え方かと」
レティシアは、その言葉に目を細めた。
宿屋。
食堂。
旅人。
乾燥パスタの立ち位置はそこにある。
小麦を粉のまま売るよりも、乾燥麺にしたほうが付加価値が生まれて高く売れる。輸送もしやすく、日持ちもする。なによりパンよりかさばらない。
加えて、鍋に入れるだけですぐに使える。
地味だが便利。
こういうものこそが生活を変えるのだ。
パスタ工房の稼働が安定し始めた頃、まずエルマの実家の宿屋でパスタ入りスープが出されるようになった。
評判を聞いた別の宿や食堂も、少しずつ乾燥麺を仕入れるようになり、街道を通る商人や旅人の間で少しずつ噂が流れ始めた。
ヴァレーヌには変わったスープがあるらしい。パンを食べなくても腹持ちがよく、寒い日や長旅の途中にはありがたい。
誰が言い出したのか、それはいつの間にか「スープパスタ」と呼ばれるようになっていた。
その報告を聞いたレティシアは、しばらく黙った。
スープパスタ。
そのまんまやん。
まあ、べつに悪くはないが。
パスタという言葉をそのまま広げるより、この土地の名がついている方がいい。商品名は大事だ。名前がつくと人はそれを覚える。
前世でもネーミングは大事だった。中身が同じでも、名前ひとつで印象は変わる。そして、会議ではだいたい最後に揉めるのだ。
ろくな思い出がない。
「ヴァレーヌ・パスタ、ですか」
オスカーが確認するように言った。
「ええ。ひねりも何もありませんが、シンプルで覚えやすいと思いますの。なにより、この土地の名が付いているのがいいですわ」
「正式に、その名で扱いますか」
「そうですわね。勝手な通称が広まる前に、その名を浸透させましょう」
「承知いたしました」
〈インパクトが足りない、やり直し〉
〈ヴァレーヌ・パスタ♡〉
〈おいしくな~れ、おいしくな~れ♡〉
〈ヴァレーヌ・パスタ (ノ・∀・)ノ=●ウソコー!!〉
〈小学生かよw〉
〈ヴァレーヌパスタ!〉
〈強そうw〉
レティシアは窓の外へ目を向けた。
甘い煮汁の研究はまだ始まったばかりだ。
うまくいけばゲームチェンジャーになり得るが、技術的なハードルだけでなく、政治的な問題も解決しなければならない。
乾燥パスタは、徐々に領の名物になり始めている。宿屋から旅人へ。旅人から他領へ。今はまだ領主館周辺だけだが、いずれは市井の領民たちが市場で買う姿も見られるようになるだろう。
重い警備費がのしかかる、国境沿いの赤字領。山林ばかりで耕地は少なく、廃鉱山と寂れた街道を抱えた土地。
そんなふうに言われていた場所で、今、小さな変化が生まれている。
領地経営とは、たぶん、そういう小さな変化を積み重ねる仕事なのだ。
レティシアは、静かに息を吐いた。
「……さて」
机の上には次の文書が置かれている。
国境警備に関する現場確認と意見交換。
ヴァレーヌ領主、レティシア・グランシエール女伯爵の仕事は、まだまだ終わらない。




