第50話 糖分が足りませんわ。
前回までのあらすじ
ぎりぎり女伯爵。
国境の川を挟んだ向こう側。隣国オルトラントの辺境伯、ベルンハルト・リューベルへ書簡を送ってから数日が経った。
返書が届くまで、十日ほどはかかるだろう。だからといって、日々の仕事が待ってくれるわけではなかった。
警備兵募集の準備。
街道と関所の報告書。
パスタ工房の稼働状況。
各村から上がってくる細々とした相談。
その他にも領主の仕事は山ほどある。
そんなわけでレティシアは、今日も今日とて執務室にいた。
相変わらず暑い日が続く。
窓を開ければ風は入るが、それも熱を含んで涼しいとは言い難い。王都より冷涼な土地とはいえ、真夏は真夏。やはり暑いものは暑い。
あの水場での事件から、クララも私室や寝室内でのレティシアの服装については、以前ほど厳しく言わなくなった。
ただしそれは私的な空間での話であり、執務室や応接室、視察先では領主としてきちんとした装いが求められるのは変わらない。
もっとも、今は真夏である。
ドレスの襟元は心持ちゆったりしているし、袖も手首が見える程度には短い。生地は薄く、裾もわずかに軽い、見た目にも涼しげなものだった。
そんな装いのレティシアが、執務机に上体を投げ出して両手だけを力なく動かしていた。
「甘味が足りませんわ……」
声だけ聞けば、戦場で最後の水を求める兵士のそれである。
思えば、前世には夏の味方がたくさんあった。
かき氷。
アイスクリーム。
チョコレートパフェ。
アイスカフェラテ。
コンビニのシュークリーム。
仕事帰りに買う、安くて甘くて、脳に直接効くあれこれ。
けれど、この世界にはカフェもコンビニもない。あるのは真っ赤に染まった出納帳だけだ。
人類はあまりに過酷な世界を生きている。
「かき氷……アイスクリーム……パフェ……」
レティシアは机に突っ伏したまま、知る限りの甘味の名を呪文のように唱え続けていた。
当然のように、それは公爵令嬢にあるまじき姿である。女伯爵としてもかなり危うい。
しかしオスカーは咎めようとせず、執務机の横に控えたまま生温かい目で見守るだけだった。
この三か月、レティシアがどれほど働いてきたかを、オスカーは誰より近くで見てきた。
朝から晩まで報告書を読み、現場へ足を運び、領民の声を聞く。パスタ工房を稼働させ、警備費を見直し、父である公爵に甘える前に領主としての責任を考えた。
未だ十八歳の令嬢としては、十分すぎるほど勤勉だった。加えて、領主としてもよくやっている。だから、たまに机の上で意味不明な呪文を並べるくらいは、見なかったことにしてもよい。
それでも一応は家令として、言うべきことは言わなければならなかった。
「お嬢様」
オスカーが静かに声をかけた。
「私からは申しませんが、せめて、クララのいない間だけになさってください」
「クララに見つかったら?」
「姿勢を正され、髪を整えられたうえで、こんこんと説教されるでしょう」
「鬼の侍女頭に、慈悲というものはありませんの……」
〈鬼w〉
〈ついに言ったw〉
〈本音が漏れてて草〉
〈(≖_≖)ピキッ〉
〈クララ見てるか?〉
〈やめろ消されるぞ〉
見れば、アリスが横で困ったように微笑んでいる。思い当たる節でもあるのか、それは何とも言いようのない表情だった。
「砂糖の在庫ですが」
オスカーが現実という名の刃を抜いた。
レティシアは机に突っ伏したまま、ぴくりと肩を震わせる。
「……聞きたくありませんわ」
「残りが心細くなってまいりました」
「聞きたくありませんわ」
「追加購入は可能ですが、いかがいたしましょうか?」
その言葉に、レティシアはゆっくりと顔を上げた。
「追加……」
「はい。ただし、価格は前回よりも上がっております。ここヴァレーヌまでは運送費も嵩みますので」
レティシアは再び机に沈んだ。
「やはり、世界にも慈悲はないのですわ……」
フェルメリア王国は砂糖を生産しておらず、そのすべてを南方の国からの輸入に頼っているため、どうしても価格は高くなる。さらにヴァレーヌは王国の端に位置するので、運送費も高額になりがちだ。
王都の大貴族や王家であれば茶菓子に使うことも珍しくはないが、ヴァレーヌのような国境の赤字領では、決して気軽に使える品ではなかった。
白く精製された砂糖ともなれば、上等な香辛料と並ぶほど高価である。質によっては、同じ重さの銀貨と比べられることさえあった。
庶民が日常的に口にできるものではなく、たとえ貴族であっても、好きなだけ使ってよい品とは言い難い。
「決して、買えないわけではありませんわ」
レティシアは顔を上げ、ため息をつく。
「けれど、今のヴァレーヌで、わたくしの嗜好品のために大金を使うのは心が痛みます」
「お嬢様個人の資産で購入することも可能でございますが」
「それでも同じですわ。領民がぎりぎりの暮らしをしている中で、領主が甘味のために砂糖を買い足すだなんて、さすがに気が引けます」
〈人のことなんざ、気にするこたぁねぇんだよ〉
〈でも気にするんだよなぁ〉
〈砂糖がないなら鈍器パンを食べればいいじゃない〉
〈なぜに鈍器パンw〉
〈噛めば噛むほど甘く感じる理論〉
〈それな〉
甘いものは食べたい。とても食べたい。
だけど、砂糖の追加購入を当然のように命じるほど、レティシアの神経は太くなかった。
いや、正直な話、私費で買うなら問題はないのだが、これは気分の問題である。
今のヴァレーヌでは、領主が何に金を使うかが、そのまま領民への姿勢として見られる。
甘味は欲しい。
でも、領主としての見栄もある。
人間とは複雑な生き物だった。
「本日の視察は、予定どおりになさいますか?」
「ええ。行きます」
レティシアは机から身を起こした。
甘味不足で溶けていても仕事は減らない。むしろ、動いていたほうが余計なことを考えずに済む。
「今日は牧畜農家でしたわね」
「はい。領都近郊で牛、豚、鶏を飼っている農家をいくつか回る予定でございます」
「乳製品と肉と卵の状況確認。あとは、餌と冬場の備えですわね」
レティシアは立ち上がり、軽く息を整えた。
甘味はないが仕事はある。
領主とは、まことに世知辛い職業だった。
馬車で向かった先は、領都エーベルから少し離れた牧畜農家だった。
低い柵で囲われた敷地に、家畜小屋が並んでいる。土の匂い、干し草の匂い、獣の匂い。王都の公爵邸ではまず味わえない空気だ。
周囲を見渡してみる。そこにいた家畜は、前世で見慣れたものとは少し違っていた。
角が妙に曲がった、牛らしき生き物。
背中に短い毛が立つ、豚らしき生き物。
羽の色が少し派手な、鶏らしき生き物。
とはいえ、乳を出し、肉になり、卵を産む。
つまり、早い話が牛と豚と鶏である。
たぶん、担当デザイナーのこだわりだ。何気に異世界感を出すために、ちょっとだけ盛ったやつである。
〈牛?〉
〈牛っぽい何か〉
〈豚に毛がある〉
〈鶏、ちょっと強そう〉
〈異世界の家畜、微妙にアレンジされてて草〉
〈なぜそこにこだわるw〉
〈誰得だよw〉
さすがにこれは同意せざるを得ない。
わかる。私も初見ではそう思った。はっきり言おう、リソースの無駄遣いだ。
農家の男が、緊張した様子で頭を下げる。
「領主様。このようなところまでお越しいただき、恐れ入ります」
「こちらこそ、お仕事の手を止めさせてしまってごめんなさい。今日は、家畜の飼育について少し教えていただきたいのです」
「はい。私どもで分かることでしたら」
レティシアは小屋を見ながら、いくつか質問を重ねた。
「乳は、そのまま飲むこともあるのですか?」
農家の男は少し困った顔をした。
「そのまま飲む者もおりますが、あまりお勧めできません。腹を壊すことがありますので」
「やはり、そうですか」
「うちでは、たいていチーズにします。日持ちしますし、売り物にもなりますから」
冷蔵設備のない世界で、生乳は危険な生鮮食品だ。
腹を壊すだけで済めばいいが、体力のない者なら命に関わることもある。そのため、乳はチーズに加工するのが主だった。
「豚は?」
「年に数頭を肉にします。干し肉にして保存する分が多いですね」
「鶏は卵が主ですか?」
「はい。毎朝取れたものを市場に卸しております。自分たちで食べることもありますが、売れば金になるので食べる頻度は多くありません。肉にするのは、祭りや祝い事の時くらいでございます」
レティシアは小さくうなずいた。
牛の乳。
豚肉。
鶏肉。
卵。
どれもこの領で食べられている。ただし飼育頭数が少ないため、全体的に高価だ。いわゆる贅沢品であり、日常的にたくさん食べられるものではない。
食生活の改善には畜産も重要である。しかし、家畜を増やすには餌がいるし、小屋もいるし、病気への備えもいる。加えて人手も必要だ。
単に「肉を増やしましょう」で済む話ではなかった。
領地経営は、どこを触っても別の問題につながる。毛糸玉をほどいているつもりが、いつの間にか別の毛糸玉を引っ張っているようなものだ。
「餌は、どのようにしていますか?」
レティシアが尋ねると、農家の男は小屋の脇に積まれた干し草を示した。
「夏は刈った草や、畑の余り物が中心でございます。冬場や草の少ない時期には、干した野菜を与えます」
「干した野菜?」
「はい。あちらの根菜です」
男が少し離れた畑を指さした。そこには、葉を広げた根菜が植えられていた。畑の端には、掘り上げられたものがいくつか置かれている。
レティシアは近づいて、その根菜を見下ろした。
はて。
見たことのない野菜だ。
大根のようにも見えるが、それにしては太い。形も少し違う。カブとも違うようだ。
白っぽい根には土がついており、葉はしっかりしている。食卓に上がる野菜というより、たしかに家畜の餌という印象が強い。
〈家畜の餌……だと……?〉
〈餌をガン見する公爵令嬢〉
〈また変なスイッチ入った〉
〈人間も食べられるんか?〉
「これは、人も食べるのですか?」
レティシアが聞くと、農家の男は首をかしげた。
「食べられなくはありませんが、土臭く、えぐみも強くて、人が好んで食べるものではございません」
「あまり美味しくないと」
「はい。煮ても焼いても、あまり旨いものではありません。家畜の餌としては助かりますが」
なるほど。人間用ではなく飼料用か。
レティシアはしゃがみ込み、根菜をじっと見つめた。
見た目は地味だ。味もよくないらしい。そして家畜の餌。しかし……何かが引っかかる。
レティシアは周囲に気づかれないよう、そっとアイテムウィンドウを開いた。目の前に半透明な四角と文字が浮かび上がる。
【飼料用根菜】
フェルメリア王国北部の冷涼な土地で栽培される根菜
用途:主に家畜の飼料
備考:根に微量の糖分を含む
レティシアは固まった。
糖分を含む。
根菜。
冷涼な土地。
家畜の飼料。
頭の中で遠い記憶が動き始める。
いや、動き始めたどころではない。前世の記憶が次第にその姿を現し始めていた。
〈どうした?〉
〈家畜の餌にロックオン〉
〈レティシア様フリーズ〉
〈再起動中〉
〈オスカー「またですか」〉
〈アリス「またですね」〉
違う。家畜の餌に興奮しているわけではない。
でも、これは――
そのとき、前世の知識が「かちり」と音を立ててつながった。
「マジか! これってアレじゃん!?」
気づけばレティシアの口から、令嬢らしからぬ言葉がぽろりとこぼれ落ちていた。




