第47話 閑話 真夏の小さな事件。
前回までのあらすじ
クララ、容赦ない。
レティシアがヴァレーヌへ来てから、三か月ほどが過ぎた。
季節は七月。
王国の北西に位置するヴァレーヌ領は、王都に比べればずいぶん涼しい。山が近く、朝夕には風も通る。夏そのものも短い土地である。
領主邸に隣接する乾燥パスタ工房では、今日も朝から作業が始まっていた。
小麦粉をこねる音。木の台に生地を打ちつける音。乾燥棚を運ぶ足音。作業前に手を洗う水音。最初はぎこちなかった工房の者たちも、少しずつ作業に慣れてきている。
とはいえ、まだ胸を張れるほど安定しているわけではなかった。
現在の乾燥パスタの歩留まりは、およそ六割。生地の厚さが揃わなかったり、乾燥しすぎて割れたり、逆に乾燥が甘くて出荷不可になったりするものが、まだそれなりに出る。
当面の目標は七割。品質を保ったまま、少しでも無駄を減らすことだった。
ヴァレーヌ小麦の領主家による買い上げも、今のところ大きな問題なく進んでいる。農家へ斡旋した白小麦の評判も悪くない。
硬く食べづらい小麦が現金になり、その代わりに食べやすい小麦が手に入る。農家の者たちが、外から来た行商人から生活用品などを買う姿も、ちらほら見られるようになってきた。
領地が豊かになった、と言うにはまだ早い。けれど、止まっていたものが少しずつ動き始めている。
そう。領地経営は、少しずつ。何事も、少しずつだ。
そう自分に言い聞かせていたレティシアだったが、その日の早朝ばかりは、領地経営よりも差し迫った問題があった。
「……暑いですわ」
寝台の上で、レティシアは小さく呻いた。
朝日はまだ高くなく、起きるには少し早い時間だ。しかし、窓から差し込む光はすでに明るく、薄い寝具の中にはじっとりと熱がこもっていた。
夜着の内側が汗でべたついている。首筋に髪が貼りつき、背中も気持ち悪い。
ヴァレーヌは冷涼な土地のはずである。
けれど、暑いものは暑い。
レティシアは、のろのろと身を起こした。
前世であれば、夏の自室などタンクトップと短パンで十分だった。もちろん、誰もいない自室内に限るが。
エアコンの効いた室内で、髪を雑に結び、冷たいビールを片手にだらけていたあの頃を思うと、今の状況はなかなかにつらい。
今のレティシアは、公爵令嬢であり、ヴァレーヌ女伯爵でもある。たとえ自室内であっても侍女が出入りする以上は、あまりにだらしない格好は許されない。
極端な話、誰も見ていない寝室内なら全裸でもよいのではないか。そう考えたことがないわけではないが、そのたびにクララの顔が脳裏に浮かぶ。
歩く能面……じゃなく、たいへん有能な侍女頭であるクララは、レティシアの夜着の裾が少し乱れているだけで、無言で直してくる女だった。
あの目で見られると、人は自然と背筋を伸ばす。たとえ前世で二十八年生き、今世で十八年生きていようとも、クララの無言の圧には勝てなかった。
「水……」
レティシアが寝台脇の水差しへ手を伸ばす。しかし空だった。
昨晩も寝苦しさのあまり何度か目を覚ました。そのたびに喉が渇いて水を飲んだのを覚えている。
半分だけ、と思いながら飲み、もう少しだけ、と思いながら飲み、最終的に全部飲んだ。完全に自業自得である。
呼び鈴を鳴らせば、アリスが来てくれるだろう。だけど、まだ早朝だ。昨晩も遅かったことを考えると、この程度で起こすのはさすがに忍びない。
水を一杯飲むくらいなら自分で行けばいい。そう考えてしまうあたり、前世の庶民感覚はなかなかしぶとかった。
レティシアは寝台から下りて、まず夜着の裾を整えた。そして、しっかりとした室内用の外套を羽織る。
薄手ではあるが、前を合わせれば夜着の上からでも見苦しくない。廊下で誰かに会ったとしても、社会的に即死することはないはずだ。
鏡の前に立ち、髪を自分でまとめる。完璧とは程遠いが、寝起きそのままよりはずいぶんとましだった。
問題は化粧をしていないことである。いわゆる「すっぴん」。
鏡に映る自身の顔は、普段よりずいぶん幼く見える。目元は柔らかく、頬も少し赤い。
それは領主として人前に出る時の、整えられたレティシア・グランシエールではなかった。未だ若い十八歳の少女の顔が、思った以上にそのまま出ている。
「……これは少々、不本意ですわね」
たとえ不本意でも、どうしようもないものはどうしようもない。仕方なくレティシアは、そのまま寝室の扉を開けて隣接する居室へ出た。
〈おはようございます?〉
〈なぜにすっぴん?〉
〈いつもより幼く見える〉
〈髪だけ頑張ってて草〉
〈貴重な寝起きレティシア様〉
〈これはこれで〉
これはこれで、ではない。許可なく見るな。せめて眉くらいは整えたかったというのに。
レティシアは流れるコメントを見なかったことにして、そっと居室から廊下へ出た。向かう先は、厨房横の水場。そこなら冷たい水があるはずだ。
誰にも会わずに水を飲み、戻る。それだけの簡単な任務だった。
レティシアは外套の裾を押さえ、足音を殺して廊下を進んだ。
〈忍び足令嬢〉
〈何してんのw〉
〈スネークかよw〉
〈待たせたな〉
〈!〉
〈クララに見つかったら即死〉
やめてほしい。まったく、縁起でもない。
しかし、こういう時ほど望まぬ相手に遭遇するものだ。水場の近くまで来たところで、レティシアは人影を見つけた。
クララだった。クララが背中を向けて佇んでいる。思わず心臓が口から飛び出そうになった。
それにしても早い。早すぎる。
昨日も遅くまで工房の衛生記録を確認していたはずなのに、もうこんな時間には起きている。一体、いつ眠っているのだろうか。
いや、今はそれどころではない。この格好でクララに見つかったら、間違いなく説教である。
レティシアは反射的に後ずさった。
このまま戻ろう。喉は乾いているが、背に腹は代えられない。水は我慢する。あるいは寝室に戻って呼び鈴を鳴らそう。
そう考えた時、ふと違和感を覚えた。
クララが動かない。椅子に座ったまま、背筋を伸ばし、じっとしている。
いつものクララなら、こちらの気配に気づいた瞬間に無言で振り返るはずだ。あの無表情で、逃げ道を塞ぐように見てくるはずだった。なのに、動かない。おかしい。とてもおかしい。
説教への恐怖より、好奇心が勝った。
レティシアは外套の裾を押さえながら、さらに足音を殺して近づいていく。
今のわたくしは、敵地へ潜入する密偵。目的は水。そして、クララの謎。
気分はもうメタル◯アソリッド。ふるっ!
〈こちらレティシア、クララを発見した〉
〈大佐、クララが動かない〉
〈それは罠だ〉
〈ダンボールをかぶれ〉
〈水を飲みに来ただけなのに、なにこの緊張感〉
〈完全に不審者w〉
失礼な。不審者ではない……たぶん。
石敷きの水場が見える位置まで近づいたレティシアは、そこで息を止めた。
クララは椅子に座っていた。その足元には水を張ったタライがあり、クララは裸足の両足をその中へ静かに入れていた。
完全に涼んでいる。
それだけではなく、向かいにはリオネルがいた。
早朝の仕込みを始める前なのか、すでに火を使う準備をしていたのか、白い仕事着の袖をまくっている。
彼の前には水差しがあり、クララの方へほんの少し寄せられていた。
二人は特に会話をしていない。けれど、リオネルが水差しを動かし、クララがわずかにうなずく。それだけで、何かが通じ合っているように見えた。
これは、恋人同士の朝の語らい。逢瀬。
ただし音声はミュート。
〈きたこれ〉
〈クララ女史なにしてんの〉
〈リオネルもいるじゃん〉
〈水冷式侍女頭〉
〈生活指導の先生が校則破ってた件〉
〈これは事件〉
〈領主様は見た〉
レティシアは思わずクララの足元を見た。素足である。白い足先が、水の中に沈んでいた。
もちろん暑いのは分かる。水に足を入れたくなる気持ちもたいへんよく分かる。
でも、クララである。レティシアの服装に非常に厳しいクララである。
その侍女頭が今、男性であるリオネルの前で素足を晒していた。たとえ足先でも、未婚女性が男性に素足を見せるのは、はしたないことである。
まして、二人はまだ正式に婚姻していない。
これは一言、物申してやろう。そう思ったレティシアが一歩踏み出しかけたその時。
先に気づいたのは、リオネルだった。彼は一瞬だけ目を見開き、すぐに姿勢を正した。
「おはようございます、お嬢様」
低く落ち着いた声が水場に響く。その瞬間、クララの肩がぴたりと止まった。タライに両足を入れたまま動かない。
一拍。二拍。
それから、まるで前世でいうロボットのように、ゆっくり、そしてぎこちなくクララは後ろを振り返った。
「……おはようございます、お嬢様」
相変わらず無表情だし、声も平坦だ。加えて背筋も伸びている。でも、その両目がほんのわずかに見開かれていることをレティシアは見逃さなかった。
あのクララが驚いている。
勝った。
何に勝ったのかはよく分からないが、確かに勝った気がした。
〈クララ女史フリーズw〉
〈今の間w〉
〈ロボットみたいに振り返るの草〉
〈ギギギ……〉
〈レティシア様、勝利を確信〉
〈何の勝負だよ〉
リオネルは礼をしたまま、視線をわずかに横へ逸らした。
見なかったことにしたい。けれど、主を見なかったことにはできない。その板挟みがたいへん分かりやすい。
一方のクララは、何事もなかったかのように座っている。ただし、足はまだ水の中だ。
レティシアは優雅に微笑んだ。
「リオネル」
「はい、お嬢様」
「お水を一杯いただけるかしら」
「ただいま」
リオネルはすぐに水差しを手に取り、清潔な杯へ水を注いだ。レティシアはそれを受け取り、静かに口へ運ぶ。乾いた喉に水が染み渡る。
ああ、生き返りますわ。
杯を空にしてから、レティシアは改めてクララを見た。彼女はまだ、タライに足を入れたままだ。どうやら引っ込める機会を失ったらしい。
レティシアは外套の前を整えてにっこりと微笑み、いつもの令嬢らしい所作で軽く会釈した。
「では、ごきげんよう」
それは早朝の水場で使うには、いささか優雅すぎる挨拶だった。
レティシアは満足して、自室へ戻っていった。
〈ごきげんよう砲w〉
〈勝ち逃げwww〉
〈優雅すぎる死体蹴り〉
〈真夏の事件、解決〉
〈なにこれ。水飲みに来ただけなのに〉
自室へ戻ったレティシアは、寝台の端に腰を下ろした。
相変わらず暑い。まもなくアリスが起こしに来て、身支度が始まるだろう。それでも気分は少し良かった。
レティシアは学んだ。どれほど完璧に見える侍女頭にも、真夏には水へ足を突っ込みたくなる瞬間がある。
そしてクララの目は、本当に驚いた時だけ、ほんの少し大きくなることも。
夏の朝としては、なかなか悪くない収穫だった。
なお、この日を境に、クララは寝室内でのレティシアの服装についてうるさく言わなくなった。
それは彼女なりの反省なのか、後ろめたさの表れなのかは本人以外は知る由もない。




