第45話 物とお金を回します。
前回までのあらすじ
新人営業を指導する先輩OLで草
レティシアがヴァレーヌ領へ来てから、およそ二か月が過ぎた。
季節は初夏。山の緑は濃くなり、昼間の日差しには少しずつ力が増している。
朝晩はまだ涼しいが、日中に外を歩くと、うっすら汗ばむようにもなってきた。
領主館の窓を開ければ、乾いた土と若葉の匂いが入ってくる。その風に混じって、最近では小麦粉を練る匂いもするようになった。
ヴァレーヌ・パスタの試験販売を始めてから、ひと月近く。
最初はエルマの実家の宿屋で、様子を見るために出していた料理だった。それが少しずつ、街道を行き来する旅人や商人の口にのぼるようになっていた。
変わった料理を出す宿がある。細長く切った小麦の生地を茹で、油や豆、キノコで食べるらしい。見たことはないが、妙にうまいという話だ。
そんな噂が、宿場から宿場へ、旅人から商人へ、商人から別の商人へと伝わっていった。
〈まさに口コミ〉
〈食べ〇グかな〉
〈☆4.2 辺境の謎パスタがうまい〉
〈ヴァレーヌ名物第一号キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!〉
〈宿屋グルメで町おこし〉
執務室で報告を受けながら、レティシアは書類から顔を上げた。
「エルマの実家の宿屋は、ずいぶん忙しくなっているようですわね」
「はい。昼に立ち寄る客が増えております。宿泊客についても、やや戻りつつあるとのことです」
オスカーが、手元の帳面を見ながら答える。
「ただ、これらの情報は、自然に広がったものではございません」
「と、言うと?」
「スヴェン・ショッペル殿が、行商人仲間に話しているようです。ヴァレーヌの宿で、珍しい料理が食べられると」
レティシアは少しだけ目を細めた。
「あら。隠しませんでしたのね」
本来なら、そうした情報は商人にとって武器である。
まだ誰も押さえておらず、広く知られておらず、しかも売れそうなもの。独占できるなら独占したいと考えるのが商人というものだ。
しかしスヴェンはそうしなかった。自分一人で抱え込むのではなく、行商人たちをヴァレーヌへ向けた。
「目先の利益より、信用を選んだのでしょう」
オスカーが言う。
「お嬢様に、役に立つ男だと思わせたいのかと」
「なるほど」
レティシアは小さくうなずく。
先日の面会で彼には言った。大きな販路ならグランシエール公爵家の商会がある。多く運ぶ力も、信用も、そちらが上だと。
それでもスヴェンに価値があるとすれば、それは足で拾う情報だ。
大きな商会が見落とす、小さな宿場や村、旅人、御者、行商人たちの声。その意味を彼は理解したらしい。
〈スヴェンくん真面目にレポート提出〉
〈第一回課題:A評価〉
〈できる子やないか〉
〈おまいら、スヴェンに謝れ〉
〈正直すまんかった〉
〈損して得取れ、か〉
「悪くありませんわね」
「はい。少なくとも、言われたことを自分なりに考える程度には、見込みがあるかと」
「まあ、オスカーがそう言うなら、しばらく様子を見ましょう」
レティシアは、次の報告書へ目を落とした。
ヴァレーヌへ入る行商人は、確かに少しずつ増えている。
針、糸、布切れ、塩漬け魚、干し果物、薬草、鍋や刃物の修理道具、小さな飾り紐。持ち込まれる品の種類も以前より増えた。けれど、そこにはすぐ別の問題が出てきた。
「……売れ行きは、そこまで伸びておりませんのね」
「はい。宿屋に立ち寄る行商人は増えていますが、町の者が買う品は限られております」
「当然ですわ」
レティシアは、ため息交じりに言った。
「物を入れれば豊かになる、というものではありませんもの。買う方にお金がなければ」
行商人が品を持ってきても、領民に買う銅貨がなければ市場は動かない。
欲しいものがないわけではない。針も糸も布も、鍋だってあれば助かる。子供に小さな飴の一つでも買ってやりたい者もいるだろう。
しかし買えない。生活に必要な最低限のものを優先すれば、余分な品に回す金など残らなかった。
「外から物を運び込むだけでは駄目ですわね」
レティシアは机の上に指を置いた。
「まず、領民の手元に使えるお金を増やさなければなりません」
「賃金収入でございますか」
「ええ」
なにも、金貨の山が必要だと言っているのではない。最初は銅貨でいい。
糸を買う。鍋を直す。布を一枚買う。屋台で温かいものを食べる。そういう小さな支払いが積み重なって行商人の荷が動く。
荷が動けば、また商人が来る。商人が来れば、町に物と情報が入ってくる。
止まっていた水を、少しずつ動かす。そのためには、まず流れを作らなければならない。
そして幸いなことに、今のヴァレーヌにはそのきっかけがあった。
それこそが、ヴァレーヌ・パスタである。
パスタそのものの評判は、確かに上がっていた。エルマの実家の宿屋だけでは、昼と夜の客をさばくのが難しい日も出てきたという。
近くの宿屋や食堂からも、少しでいいから分けてほしい、うちでも出してみたい、という声が上がっている。
もっとも、まだ広く卸せるほどの量はない。一軒、二軒が試しに扱い始めただけで、すぐに乾燥パスタの製造が追いつかなくなった。
領主館の厨房で、片手間に作る量では限界がある。リオネルは優秀だけれど、だからといって何でも背負わせていいわけではない。
「いけませんわ」
レティシアは、きっぱりと言った。
「売れ始めたからといって、現場に負担を押しつけるのは、崩壊する職場の第一歩です」
〈突然どうした?〉
〈急に労務管理に目覚める女〉
〈料理長過労死寸前で草〉
〈有能に全部背負わせる職場は滅ぶ〉
〈悪役令嬢、ホワイト職場を作る〉
〈何があったんだw〉
……ええ。いろいろとありましたのよ。
レティシアは、心の中だけで遠い目をした。そして、すぐに表情を戻す。
「乾燥パスタ専用の工房を作ります」
「工房、でございますか」
「はい。大きなものでなくて構いません。まずは小規模で、品質を揃えられる作業場が必要ですわ」
オスカーは少し考え、すぐに候補を挙げた。
「領主館の北側に、使われていない穀物倉庫がございます。古い建物ですが、屋根は生きております。床と壁を直し、作業台を入れれば使えるかと」
「乾燥には向きますの?」
「風通しは悪くありません。ただし、湿気がこもらないよう棚の位置を工夫する必要がございます」
「では、そこを使いましょう。リオネルにも確認を」
「すでに呼んでおります」
さすがは敏腕家令。相変わらず仕事が早い。
ほどなくして、リオネルとクララが執務室へ入ってきた。
リオネルは料理長らしく清潔な服装をしているが、ここ最近は試作と通常業務が重なり、さすがに少し疲れが見える。クララはいつも通り無表情だった。
「リオネル。乾燥パスタを厨房から切り離し、専用の工房で作ることを考えています。必要なものは?」
「作業台、乾燥棚、粉を保管する箱、清潔な布、それから麺を切る道具ですね。あとは、こねる作業を任せられる力のある者が必要です」
「力仕事ですものね」
「はい。普通のパン生地より扱いにくいです。力任せでは駄目ですが、力がなければそもそも伸ばせません」
リオネルが答えると、クララが一歩前へ出た。手には小さな板がある。そこには、短く三つの言葉が書かれていた。
手洗い。
髪。
爪。
「……クララ?」
「衛生管理です」
クララは、淡々と言った。
「髪を布で覆う。作業前に手を洗う。爪を短く切る。作業台を拭く。床に落ちたものは戻さない。咳をする者は休ませる。乾燥棚に触れる前にも手を洗う。以上です」
〈さすがはクララ女史〉
〈衛生管理の鬼〉
〈ヨシ!〉
〈ヨシじゃないが〉
〈床に落ちても三秒までセーフ〉
〈ダメだろw〉
〈食品工場っぽくなってきた〉
食品工場……確かにそうだ。
ヴァレーヌ・パスタにはこの領の名が付けられている。だから、間違っても腹を壊すようなものを出すわけにはいかない。
ブランドを作り上げるには時間がかかるが、棄損と崩壊は一瞬だ。そんな事例は、前世でいくつも見てきた。
「とても大事なことですわね」
レティシアは真面目にうなずいた。
「クララ。工房の衛生管理はあなたに任せます」
「承知いたしました」
クララは短く答える。リオネルが、少しだけ工房の人員に同情するような顔をした。
それでも必要なことだ。食べ物を売る以上、味だけでは駄目である。
外へ売るなど、まだまだ早い。まずは同じ品質のものを、同じように作れるようにする土台が必要だった。
「人を雇いましょう」
レティシアは言った。
「以前の下働き募集で、惜しくも採用できなかった者たちがいますわね」
「はい。名簿は残しております」
「その中から、適した者に声をかけてください。力仕事に向く者、手先の器用な者、根気強く確認作業ができる者。それぞれ役割を分けます」
決してパスタを作るためだけではない。
人を雇い、賃金を払い、領内に銅貨を流す。それは、ヴァレーヌで止まっていたものを、少しずつ動かすための工房だった。




