第44話 いじめてなんていませんわ。(震え声)
前回までのあらすじ
若手営業、地雷を踏むの巻。
「では、当家は何を得ますの?」
レティシアの穏やかな声が応接室に響いた。
その問いに、スヴェンはすぐに答えられなかった。
仕入れたい。売りたい。これは商機だ。そればかりを考えていた。しかし自分は、代わりに何を差し出せるのか。
資金力では大商会に及ばない。信用ではグランシエール家の御用商会に遠く及ばない。人手も、人脈も、太い販路もない。
独立したばかりの若い行商人が、領主家に対して差し出せるもの。それを、スヴェンはまだ示せていなかった。
〈まさかの手ぶらw〉
〈綺麗な顔してるだろ? 詰めてるんだぜ、それ〉
〈当社があなたを採用するメリットは?〉
〈体力には自信があります!╰⋃╯ボロン!〉
〈不採用〉
〈ガ━━(゜Д゜;)━━ン!〉
綺麗な顔をしていながら、その中身はまるで別物。
あまりに深すぎて掴み切れない。いったいこの少女は何者なのか——
その時、スヴェンは唐突に思い出した。目の前にいるこの令嬢が、ただの若い領主ではないことを。
レティシア・グランシエール。
本来であれば王太子妃となり、いずれは王妃として、この国を治める片割れになるはずだった女性。
そのために幼少時から王妃教育を受け、貴族たちの腹の探り合いの中で育ち、国の利と損を量ることを叩き込まれてきた人物だ。
今はヴァレーヌという小さな領を治めているが、この人物が本来見ていたものは、国というもっと大きなものだった。
その相手に、独立したばかりの行商人が熱意だけを手土産に商談を持ちかけている。
冷や汗が背中を伝った。
そしてもう一つ。
スヴェンは自分を恥じた。噂とは、本当に当てにならないものだと。
自分は商人である。商人は噂を拾う。街道で、宿で、市場で、酒場で、人々が何を話しているかを聞き、その中から金になる情報を探すものだ。
しかし、噂をそのまま信じてはならないと、育ててくれた商会長にどれほど言われてきたことか。
どこに嘘があり、どこに誇張があり、どこに真実の欠片があるのか。それを見極めるのが商人だ。
それなのに、自分はどうだ。
王太子に婚約を破棄された令嬢。性悪な悪女。厄介な領を押し付けられた哀れな女。そんな市井の噂に、知らず知らずのうちに引きずられていた。
目の前にいる女性は噂通りの人物ではない。若く、美しく、穏やかに微笑みながら、こちらの言葉の足りなさを真っ直ぐに突いてくる。
甘く見ていた。その事実が、スヴェンには何より恥ずかしかった。
「……申し訳ございません」
スヴェンは、ゆっくりと頭を下げた。
「私は、私が何を得られるかばかり考えておりました」
正直に認めるしかない。取り繕っても見抜かれる。そう思った。
レティシアの微笑みが、ほんの少し深くなる。
「正直で結構ですわ」
その言葉に、スヴェンはようやく息をついた。しかし、ほっとするのは早かった。
「大きな販路なら、当家にはグランシエール家の商会がございます。運ぶ力も、信用も、そちらが上です」
「……はい」
「ですから、スヴェン様に同じものを求めているわけではありません」
レティシアは、茶器を静かに置いた。
「けれど、大きな商会では拾いにくい声もございます」
「声、でございますか」
「ええ。小さな宿場。街道沿いの村。旅の商人。寂れた市場。そうした場所で、どのような物が求められ、どの程度の値なら受け入れられ、どのように噂が広まっていくのか」
スヴェンは黙って聞いた。
「大きな商会は、多くの荷を運べます。ですが、必ずしも小さな声を拾うことに長けているとは限りません」
レティシアの視線が、まっすぐスヴェンへ向けられる。
「あなた様の価値は、荷を多く運ぶことではありませんわ。誰よりも早く、道の声を拾うことです」
道の声。
その言葉が、スヴェンの胸にストンと落ちた。
自分には大きな店はない。しかし、道を歩く足はある。大商会のような大口取引はできないが、宿場の主人や旅人、村の小さな店の声を直接聞くことはできる。
それは、確かに自分の武器かもしれなかった。
〈新人研修キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!〉
〈商談相手に自己分析される男〉
〈圧迫面接からのキャリア面談〉
〈これもう上司じゃん〉
〈レティシア様、優しいのぉ〉
優しくなんてない。優しくしようとも思っていない。ただ私は、この若者の未熟さを諭しているだけだ。
……それを世間では優しさと言うのだろうか。
「今すぐ正式な取引をお約束することはできません」
レティシアは言った。
「量産体制も、品質管理も、出荷体制もまだこれからです。大口の流通は、まずグランシエール家の商会を通すことになります」
「承知しております」
「ですが、それとは別に、小口の試験的な販路を探る余地はございますわ」
スヴェンは顔を上げた。
「試験的な販路、でございますか」
「ええ。あなた様はバイラー商会から独立したばかりと伺いました。ならば、そちらの大きな商流とは違う道を探ることもできるのではないかと思っております」
スヴェンの鼓動が速くなる。完全に閉ざされたわけではない。かと言って扉が開いたわけでもない。まだ細く隙間が見えただけだ。
「ただし、条件がございます」
レティシアの声は、相変わらず穏やかだった。
「時折、ヴァレーヌへ顔を出してください。その時に、あなた様が見聞きしたことを教えていただきたいのです」
「見聞きしたこと……」
「宿場や村の事情。旅人が何に困っているか。どの街道で商人が減っているか。他領で売れている商品や値。酒場や市場で聞いた話。ヴァレーヌ・パスタに似たものがあるかどうか」
レティシアは指を折るように、一つずつ挙げていく。
「嘘や誇張は不要です。分からないことは分からないと報告してください。それから、先ほど申し上げた通り、農家からの直接買い付けや、製法を探るような真似はくれぐれもお控えください」
「はい」
「では、まずは情報をお持ちください。あなた様の足でしか拾えないものを」
レティシアは、静かに微笑んだ。
スヴェンは、しばらく言葉を返せなかった。自分は、パスタを売らせてもらうために来たつもりだったが、実際には違った。
この若き領主は、最初から自分を見ていたのだ。商品を欲しがる商人としてではなく、取引相手に値する人間かどうかを。
そして、ただ切り捨てるのではなく、何を示せばよいのかまで教えてくれた。
完全に手玉に取られた。けれど、不思議と腹は立たなかった。むしろ、胸の奥に火が灯ったような気さえした。
認められたい。この令嬢に、商人として使えると思わせたいと心の底からそう思った。
「お約束いたします。次は手ぶらでは参りません」
スヴェンは深く礼をした。
「私の足で拾った情報を、必ずお持ちいたします」
「期待しておりますわ」
レティシアは涼しい顔でそう答えた。
〈完全に手玉で草〉
〈二十五歳が十八歳に転がされるってどうよw〉
〈ご褒美では?〉
〈上司OLの新人君教育〉
〈次回までに市場調査レポート要提出〉
やがてスヴェンは応接室を辞した。
領主館の外へ出た瞬間、彼は大きく息を吐く。
若く美しい令嬢だった。しかし、決して甘い相手ではない。噂など当てにならないものだと、改めて思い知らされた。
商売とは信頼だ。まずは、この若き領主に信用されなければならない……いや、信用されたいのだと心の底からそう思った。
次にヴァレーヌへ来る時は、必ず情報を持ってくる。それが、自分の最初の商品になるはずだ。
こうして、駆け出しの若き行商人スヴェン・ショッペルは、新たな決意とともに街道を歩き出した。
一方その頃、応接室に残ったレティシアは、静かに紅茶を口へ運んでいた。
商談そのものは悪くなかった。
スヴェン・ショッペルは若く実績もまだ少ない。けれど、観察眼と足はある。上手く育てれば、グランシエール家の商会とは別の細い販路になるかもしれない。
そこまではいい。そこまでは、領主としての判断だ。
「お嬢様」
斜め後ろに控えていたオスカーが、わずかに声音を和らげた。
「駆け出しの商人を、あまりいじめないであげてください」
「……いじめてなどおりませんわ」
「ええ。もちろんでございます」
その返事が、少しだけ冗談めいて聞こえた。
〈オスカー、全部見抜いてて草〉
〈いじめてないですわ(震え声)〉
〈なお本人に自覚はない模様〉
〈一番怖いやつやん〉
レティシアは、カップをソーサーに戻す。
ふと、前世の職場で、入社から一か月で辞めていった後輩社員の顔が脳裏をよぎった。
あの時も、本人のためだと思って少し厳しめに進行管理を教えたのだ。仕様書の読み方。議事録の残し方。報告の頻度。締切から逆算することの大切さ。
翌週、その後輩は職場から消えていた。
レティシアは、少しだけ遠い目をする。
「……次も来てくださるとよいのですけれど」
「スヴェン様でしたら大丈夫かと」
「そう思います?」
「はい。あの方は、叱られたのではなく、課題を与えられたと理解しておられましたよ。ご心配には及びません」
それならよいのだけれど。
レティシアは何事もなかったかのように、もう一口だけ紅茶を飲んだ。




