第42話 新進気鋭の行商人
前回までのあらすじ
大人に人気の香草油仕立てパスタ。これはいわゆる「ペペロンチーノ」です。
ヴァレーヌ・パスタの提供は、初日から思いがけない手ごたえを見せた。
最初の客は、昼過ぎに宿の食堂へ入ってきた旅人だった。宿泊のつもりはなく、食事だけを済ませて次の村へ向かう予定だったらしい。
エルマの父が、いつもの煮込みと硬いパンを勧める代わりに、新しい料理を試していると告げた。
「新しい料理?」
「はい。値段は、いつもの煮込みとパンと同じです。気に入らなければ、次はいつものを出しますよ」
旅人は、さほど期待した様子もなく肩をすくめた。
「同じ値なら、試してみるか」
そうして出されたのは、香草油仕立てのヴァレーヌ・パスタだった。油と塩、香草、それに少量のニンニク。具は多くない。
けれど、湯気の中から立ち上る香りが食欲を誘い、旅人は一口食べたところで動きを止めた。
「……なんだ、これは」
硬いパンでもなければ、粥でもない。けれど、小麦の味がする。
ほどよく噛みごたえがあり、塩気と油の旨みがあって、香草とニンニクの香りが鼻に抜けた。
旅人は無言で数口食べ、それから顔を上げた。
「店主、麦酒を一杯くれ」
食事を済ますだけのはずなのに、昼間からその客は麦酒を頼んだ。そして一杯だけのつもりがもう一杯になり、次の村へ向かうはずの予定がすっかり遅れた。
「……今日は泊まる」
ぼそりと告げた旅人に、エルマの父と母は思わず顔を見合わせた。
その客に夜には豆のソースパスタを出し、翌朝にはキノコ仕立てを出した。三種類すべてを食べた旅人は、満足げに腹を撫で、出立の支度を整える。
「次に通る時も、あれを出してくれ」
そう言い残して、旅人は街道へ戻っていった。
その後も客の反応は上々だった。
食事だけの客、宿泊客。そのどちらもがパスタに舌鼓を打つ。特に宿泊客は、夜と朝にそれぞれ別の味を試し、皆が満足して帰っていった。
三日目の夕方、一人の若い行商人が宿へやって来た。
名をスヴェン・ショッペルという。
かつては王都に近い町の商会で丁稚として働き、荷運びから客への挨拶、品物の見分け方まで徹底的に叩き込まれた。
その後も各地を回る先輩商人について歩き、ようやく今年、二十五歳で独立したばかりの若き行商人だ。
大商会を背負っているわけでも、立派な店舗を構えているわけでもない。しかし足があり、目もある。何より、売れる物の匂いを嗅ぎつける嗅覚に自信があった。
もっとも、その日のスヴェンは、食事に期待などしていなかった。
ヴァレーヌの宿場には何度か立ち寄ったことがある。食事は腹を満たすもので、味を楽しむものではない。
硬いパンと煮込みが出てくれば十分。正直なところ、煮込みの味にも期待していなかった。
荷を下ろし、馬の様子を確認し、ようやく食堂の席に腰を下ろした時には足が鈍く痛んでいた。
「適当に何か腹に入るものと、麦酒を一杯頼む」
そう言ったスヴェンに、エルマの母は少しだけ考えた。
ここ数日の反応を見る限り、男の旅人には香草油仕立てパスタの受けがいい。麦酒を頼む客なら、なおさらだ。
「それなら、新しい料理をお出ししましょうか」
「新しい料理?」
「ええ。領主様の試験販売で出しているものです。お値段は、いつもの食事と同じですよ」
試験販売。妙な言葉だ。だが、同じ価格なら構わない。
「では、それを頼む」
しばらくして、目の前に皿が置かれた。細長く平たい何かが、油と香草に絡められている。
湯気が立ち、鼻をくすぐる香りの中に、ニンニクらしき強い匂いが混じっていた。
スヴェンは眉をひそめた。
見たことがない。パンではないし粥でもない。しかし、どうやら小麦の料理らしい。
用心しながら一口食べる。次の瞬間、スヴェンは動きを止めた。
うまい。
思ったよりも、ずっと。
硬くなく、重すぎない。けれど、頼りないわけでもない。噛むと小麦の風味が広がり、油と塩気が舌に残る。香草とニンニクの香りは強いが、それがかえって麦酒を捗らせた。
スヴェンは黙って麦酒を飲み、もう一口食べる。それを何度か繰り返したところで、彼の中の商人が、眠気と疲労を押しのけて目を覚ました。
これは何だ。ただの宿飯ではない。
この宿だけの料理なのか。それとも、どこかから仕入れているのか。ほかの宿でも出しているのか。この細長いものは、どうやって作るのか。
スヴェンは思わず身を乗り出し、厨房の方へ視線を向けた。
さらに立ち上がろうとしたところで、エルマの父がすっと前へ出る。
「お客さん、そこから先は勘弁してください」
「あ、いや。失礼した」
スヴェンはすぐに椅子へ戻った。商人は信用が大事だ。厨房へ無理に踏み込む客など、信用されるはずがない。しかし、質問を止めることはできなかった。
「これは、何という料理なんだ?」
「ヴァレーヌ・パスタです」
「パスタ?」
「はい」
「この宿で考えたのか?」
「いいえ。領主様の試験販売として出しています」
領主様。またその言葉が出た。
スヴェンは皿の上の料理を見下ろす。領主が宿飯の試験販売をする。普通なら妙な話だ。
「材料は? 誰が作った? この平たいものは、どこで用意している?」
「悪いですが、詳しいことは話せません」
エルマの父は、きっぱりと言った。
「私たちは領主様から許された範囲でお出ししているだけです。詳しく知りたいなら、領主館を訪ねて下さい」
「領主館へ?」
「本当に商売の話をしたいなら、ですが」
スヴェンは口を閉じた。宿の主人は思ったよりも堅く、情報を勝手に漏らす気はないらしい。
逆に言えば、それはこの料理がただの思いつきではないことを語っていた。
「ほかの味もあるのか」
少し間を置いてスヴェンは尋ねた。エルマの父は、ようやく商売人の顔で笑った。
「ありますよ。豆のソースと、キノコ仕立てです」
「では、豆を頼む。それと麦酒をもう一杯」
「まいど」
出された豆のパスタは、最初に食べた香草油仕立てとはまるで違っていた。
濃いめに整えられた豆の味が、平たいパスタによく絡む。地元の煮込みに近い安心感があり、しっかりと腹にたまった。
香草油仕立てほど酒が進む味ではないが、旅の途中で食べるには十分すぎた。
同じものに、別の味を絡める。ただそれだけで、客の好みに合わせられるのか。
スヴェンは黙って食べ、麦酒を飲み干した。
その夜。
スヴェンは宿の寝台に横になってからも、なかなか寝付けなかった。
あれは料理なのか、商品なのか。あの平たいパスタなる物はどうやって作っているのか。誰が秘密を握っているのか。
考えれば考えるほど、答えは一つしかなかった。
翌朝。
スヴェンは朝食としてキノコのパスタを食べた。香草油仕立てほど癖はなく、豆ほど重くない。キノコの香りが爽やかで、朝でも食べやすい。
朝食を終えたスヴェンは、宿代を払い、荷を預けたまま領主館へ向かった。
先触れもない訪問である。本来なら門前払いを受けても文句は言えないが、門番に用件を告げると、意外にもしばらく待つように言われた。
ややあって、整った身なりの男が姿を現す。黒髪をきっちりと整えた、隙のない男だった。
「スヴェン・ショッペル様ですね」
「はい」
「私はヴァレーヌ領主家の家令兼執事、オスカー・ボレルと申します。宿のパスタについて話があると伺いました」
「ええ。どうしても確認したいことがありまして」
「では、まずあなたご自身のことを伺います」
通されたのは応接室ではなく、領主館の一室だった。そこでスヴェンは、オスカーから淡々と質問を受けた。
スヴェンは正直に答えた。ごまかしても無駄だとすぐに分かったからだ。
このオスカーという男は、愛想よく相づちを打つような相手ではなかった。用心深く返答の中身だけを拾い、余計な飾りは切り落としていく。
「なるほど」
一通り聞き終えると、オスカーは短く言った。
「独立したばかりの行商人で、特定の大商会を背負っているわけではない。けれど、街道筋の宿場や小村を回る足はある、と」
「はい」
「では、こちらから伺います。あなたは、あのパスタの何に興味を持たれましたか」
「味です」
スヴェンは即答した。
「まず、旅人に売れます。香草油仕立ては麦酒に合う。豆のものは腹にたまる。キノコは朝にも出せる。あの宿だけで終わらせるには惜しい料理です」
「料理として、ですか」
「今のところは」
オスカーの目が、わずかに細くなる。スヴェンは慎重に言葉を選んだ。
「まだ、分からないことが多すぎます。あの平たいものは、どこで、どれだけ作っているのか。ほかの宿でも扱えるのか。材料は何か。領主様の試験販売と聞きましたが、どこまでが領主様の事業なのか」
言い終えてから、スヴェンは少し身を乗り出した。
「そもそも、あのパスタというものは、どなたが考案されたのですか? 宿の主人は詳しいことを話せないと言っていました」
オスカーはすぐには答えなかった。その沈黙が、かえって答えの重さのように感じられた。
「発案は領主様です」
スヴェンは思わず瞬きをした。
「領主様が?」
「もっとも、料理として形にしたのは当家の料理長です。宿で提供できるよう整えたものも、彼の仕事です」
「領主様が、発案を……」
「はい」
瞬間、スヴェンは返す言葉を失った。
領主が税や警備や土地の話をするのは分かる。しかし、宿の料理にまで関わるという話は聞いたことがない。
しかも、ただ珍しい料理を食べさせるのではなく、宿で出せる形に整え、試験として提供している。これは、思っていたよりずっと領主家に管理された案件だ。
「ただし」
オスカーの声が、スヴェンの考えを遮った。
「詳しい製法や今後の扱いについては、私の一存でお答えすることはできません」
「では、領主様にお会いすることは」
「お約束がない以上、本来であればお断りするところです。――しかし、短時間であればお取り次ぎできるかと。これは、あくまで領主様のご厚意です」
スヴェンの背筋が伸びた。
「ありがとうございます」
「ただし、誤解なさらぬよう。商談が成立するとは限りません。領主様がお聞きになるのは、まずあなたの話からです」
「承知しています」
本当に承知しているかと問われれば怪しい。けれど、ここまで来て引く気はなかった。
スヴェンは応接室へ通された。
領主館の応接室は王都の貴族屋敷ほど華美ではないが、印象は悪くなかった。
古い家具は磨かれ、床は清潔で、窓辺には控えめな花が飾られている。
荒れた辺境領の館と聞いていたが、少なくとも今のこの部屋にその印象はない。
席に着いたスヴェンは、待つ間に、ヴァレーヌの新しい領主について思いを巡らせた。
レティシア・グランシエール。
隣の領地を治める、グランシエール公爵家の令嬢。王太子に婚約を破棄され、その賠償としてこのヴァレーヌを得た女。
噂ならいくつも聞いている。
王太子が別の娘に心を移したのだとか。レティシアがあまりに性悪で、王太子が嫌気を差したのだとか。
この機に乗じて、グランシエール公爵家が王家から領地をむしり取った。逆に王家が、これ幸いに厄介な赤字領を押し付けたとも聞く。
どれも市井の噂話に過ぎない。正しいことも混じっているのかもしれないが、尾ひれも背びれもついているのは間違いないだろう。
スヴェンは噂を鵜呑みにするほど稚拙ではないが、同時に、噂を聞き流すほど愚かでもなかった。
火のないところに煙は立たない。ただし、煙の下にあるのが火事なのか、かまどの火なのかは見てみなければ分からなかった。
さて、どんな悪女が出てくるのだろうか。
高慢で冷たい令嬢か。癇癪持ちの貴族娘か。それとも、名だけ領主の世間知らずなお嬢様か。
スヴェンは、半ば警戒し、半ば好奇心を抱きながら扉を見つめた。
やがて、応接室の扉が静かに開く。
スヴェンは反射的に顔を上げた。
入ってきたのは、想像していたような悪女ではなかった。
まだ少女と呼んでも差し支えないほど若い。けれど、その立ち居振る舞いには一切の隙がなかった。
上質だが控えめなドレス。穏やかな微笑み。まっすぐに向けられた迷いのない視線。そのすべてが丁寧に磨き上げられている。
スヴェンは、思わず息をのんだ。
レティシア・グランシエール。
それが、ヴァレーヌの新しい領主だった。




