第41話 確かな手ごたえ
前回までのあらすじ
「もったいないお化け」
エルマが領主館の厨房で教わったのは、三種類のヴァレーヌ・パスタだった。
ちなみに「パスタ」という名称は、「ヴァレーヌ硬質小麦から作る平たい麺」では長すぎる、言いづらいとして、自らレティシアが名付けたものだ。
もちろん、「パスタ」という名の物はこの国には存在しない。
しかしこの品の発案者であり、領主でもあるレティシアに、「遠い異国では、小麦を練って薄く延ばしたものを『パスタ』と呼びます。王妃教育で学びました」と断言されてしまえば、屋敷の者たちは皆うなずくしかなかった。
どうやら王妃教育とは、遠い異国の料理名まで学ぶものらしい。なかなかに大変である。
今回使うのは、料理長リオネルが何度も試作を重ねて作り上げた、平たい乾燥パスタだ。
細すぎれば切れやすく、厚すぎれば戻りにくい。今では包丁で切りそろえやすい帯のような形に落ち着いていた。
味は三種類。
油と塩、香草、それに少量のニンニクを使った香草油仕立て。
ヴァレーヌで昔から食べられている豆の煮付けを、パスタ用に整えた豆のソース。
そして、市場で安く手に入るキノコを、油と塩でまとめたキノコ仕立て。
このどれもが宿で旅人に安く、早く、温かいまま出せるように考えられたものだった。
リオネルから作り方を教え込まれること数日。ついにエルマはお墨付きをもらった。
「これなら金を取れる」
その一言をもらった時、エルマは胸の奥が熱くなるのを感じた。
その日の夕方、エルマは領主館から乾燥パスタと食材を預かり、実家の宿へ戻った。
もちろんただ持ち帰ったわけではなく、使ったパスタの量と出たソース、調理にかかった時間、食べた者の感想、残った量を記録して、後日に領主館へ報告することになっていた。
これはレティシアの気まぐれでも、エルマの実家を助けるための施しでもない。ヴァレーヌ・パスタを宿で出せるかどうか確かめるための正式な調査だった。
「ただいま」
宿の裏口から声をかけると、母が厨房から顔を出した。
「お帰り、エルマ。今日はずいぶん荷物が多いね」
「領主館から預かってきたの。父さんは?」
「奥にいるよ。町長さんも、もうすぐ来るって」
母の声には、少し緊張が混じっていた。
無理もない。これから、この宿で新しい料理を試すのだ。しかも町長まで立ち会うという。
エルマ自身も、緊張していないと言えば嘘になる。それでも、手は震えていなかった。
布に包んでいた乾燥パスタを、厨房の机の上に並べる。
淡い黄色をした平たい帯が、いくつも束ねられていた。乾燥しているためとても硬く、持つと軽い。パンとも粥とも違う、不思議な食べ物に見えた。
奥から出てきた父が、それを一本つまみ上げた。
「石のように硬いな。本当に食べられるのか、これは」
「お湯で戻せば柔らかくなるのよ」
エルマは笑った。
「かけるソースによって、ぜんぜん別の味になるわ」
「ずいぶん軽いものだねぇ」
母も、乾いたパスタを指先でつまみながら目を丸くする。
「これで腹にたまるのかい?」
「ええ。パンより食べやすいくらいよ」
「パンより?」
父が眉を上げた。
ヴァレーヌ小麦で作るパンは、どっしりと重くて腹にたまる。だが硬い。とにかく硬い。スープに浸しても、しばらくは強情に形を保つくらいだ。
言うなら、食べ物というより忍耐を試す何かである。
その同じ小麦から、パンより食べやすい料理ができる。そう言われても、にわかには信じられないのだろう。
父も母もしばらくの間、不思議そうに乾燥パスタを眺めていた。
ほどなくして、町長のハンスが妻と孫娘を連れてやって来た。
孫娘の名はリーナという。八歳になったばかりの、よく動く目をした快活そうな女の子だ。
「こんばんは、エルマお姉ちゃん」
「こんばんは、リーナちゃん」
エルマが挨拶を返すと、リーナは机の上の乾燥パスタをじっと見つめた。
「これ、木の皮みたい」
「リーナ」
ハンスの妻がたしなめるように名を呼ぶ。エルマは思わず笑ってしまった。
「大丈夫です。誰だって、初めて見たらそう思いますよね」
「本当に食べるものなの?」
「ええ。これから作るから、食べてみて」
エルマは髪をまとめ直し、手を洗う。鍋に水を張り、火にかけ、湯が沸くまでの間に三つの小鍋を用意した。
一つには油と香草、少量のニンニク。
一つには、朝のうちに柔らかく煮ておいた豆。
もう一つには、刻んだキノコ。
どの材料も特別に高価ではなく、宿で毎日扱えるものばかりだ。
湯が沸いた。エルマは乾燥パスタを鍋へ入れる。硬かった帯が、湯の中で少しずつしなやかになっていった。
最初は棒のようだったものが、やがて湯の流れに合わせてゆるく揺れ始めた。
その横で、キノコを油で炒める香りが立ち、豆のソースを温めると、とろりとした湯気が上がった。
香草油の小鍋には、ニンニクの強い香りが混じった。
リーナが鼻をひくつかせる。
「変なにおい。でも、お腹すいてきた」
子供らしい素直な言葉に、ハンスが小さく笑った。
エルマの父と母は、娘の手元を黙って見ていた。
もとよりエルマは、宿の手伝いをずっとしている。料理も洗い物も掃除もできるが、今の手つきは以前とはまるで違った。
鍋を見る眼差し。火を弱めるタイミング。湯からパスタを引き上げる手際の良さ。
領主館の厨房で働くようになってから、娘は明らかに変わった。顔の傷を気にして俯きがちだった娘が、今は人前で料理を作っている。
それだけで、母の胸にはこみ上げるものがあった。
エルマは茹で上がったパスタをざるに上げ、しっかりと水気を切った。それを三つに分け、それぞれのソースと手早く合わせる。
香草油仕立て。
豆のソース。
キノコ仕立て。
厨房の机の上に、湯気の立つ三皿が並んだ。
「はい、できたわ。少しずつ食べてみて」
エルマは小皿に取り分け、全員の前へ置いた。
最初に手を伸ばしたのはハンスだった。
町長が香草油仕立てを一口食べる。ゆっくりと噛み、目を細めた。
続いてエルマの父が食べる。母とハンスの妻も、それぞれ別の皿を口に運んだ。
誰もすぐには言葉を発しなかった。硬いパンとはまるで違う。同じヴァレーヌの小麦で作ったものとは思えない。
噛むとほどよい弾力がある。でも、パンのように歯を押し返してくる硬さではなく、むしろ小麦の味がはっきりと分かるものだ。
今まで硬さの奥に隠れていた風味が、ようやく表に出てきたようだった。
なにより旨い。味がいい。
パスタ自体の風味も良いが、和えたソースがまた絶品だった。
最初に声を上げたのは、大人たちではなかった。
「リーナ、これが一番好き」
リーナが示したのは、キノコ仕立ての皿だった。
「いい匂いがするし、つるつるしてる。これ、おいしい」
エルマの胸が、ふっと軽くなる。
「豆のは?」
ハンスの妻が尋ねると、リーナは豆のソースをもう一口食べてから首をかしげた。
「おいしいけど、いつもの豆と同じ味がする」
「食べ慣れた味、ということかしら」
「うん。こっちもおいしいけど、リーナはキノコのほうが好き」
子どもらしい、遠慮のない答えだった。
次にリーナは、香草油仕立てを少しだけ口にした。そして、すぐに鼻のあたりに皺を寄せる。
「……においが変」
「嫌いかい?」
エルマの父が尋ねると、リーナは真剣な顔で考え込んだ。
「うーん……嫌いじゃないけど、これは大人の味?」
その答えに、ハンスの妻が思わず笑った。ハンスは香草油仕立てをもう一口食べ、ゆっくりとうなずく。
「ふむ、これはいい」
満足そうな声だった。
「塩気があって、香りも強い。麦酒が欲しくなる味だ」
「私もそう思いました」
エルマの父が、皿を見下ろす。
「食事としても食べられますが、酒の肴にもなる。これを頼んだ客は、麦酒も注文しそうです」
そう言うエルマの父は、宿屋の主人らしい目になっていた。
料理の味だけではなく、客が何を一緒に頼むか、どれだけ待たせずに出せるか、余った材料をどうするかまで考え始める。
ハンスの妻は、豆のソースを口にして穏やかに目を細めた。
「豆の方は安心する味ね。年寄りにも出しやすいと思う。硬いパンよりずっと食べやすいわ」
「キノコのは、子どもや女の客によさそうだ」
ハンスが言う。
「香草油のものは、酒を飲む旅人や商人向き。豆は地元の者や腹を満たしたい者向き。キノコは、初めて食べる客にも勧めやすい」
三つの皿は、どれも違う顔を持っていた。同じヴァレーヌ・パスタなのに、合わせるソースによってまったく別の料理になる。
エルマの父が、乾燥パスタの束を改めて見つめた。
「これは、保存しておけるんだな」
「ええ。湿気には気をつけないといけないけど、パンよりずっと長く、数か月は持つそうよ」
「数か月……それは便利だ。このまま保管しておいて、注文のたびに茹でれば温かいものを出せる。ソースは少しずつ用意しておけばいい」
父の言葉に、エルマはうなずく。
「領主館でも、そこを見てほしいと言われているの。実際にどうだったのか、全部を報告することになっているわ」
「市場調査というわけだな」
ハンスが言った。
「はい」
「なら、まずは数を絞った方がいい。最初から数を出すと、こちらも客も戸惑う。昼と夕方に、いくつ出せるか決めておこう」
「値段も考えないとな」
父が腕を組む。
「高すぎれば旅人は頼まない。安すぎれば利益が出ない」
「でも、具が多くなくても満足感があるね。腹持ちも良さそうだし」
母が静かに言った。
「これなら、余らせる食材も少なくて済みそうだよ」
乾燥パスタは長期間保存でき、ソースも少量でよい。注文が入ってから茹でれば、温かいまま提供できる。
早い。温かい。腹にたまる。そして、無駄が少ない。
宿屋にとって、それは大きな意味を持っていた。
「エルマ」
母が不意に娘の名を呼ぶ。
「なに、母さん」
「……上手になったねぇ」
母はそう言って、目元を指で押さえた。
「母さん?」
「なんでもないよ。パスタがおいしかっただけさ」
そう言って笑う母の声は、少しだけ震えていた。
エルマは返す言葉を探したが、うまく見つからない。父も何も言わなかった。
ただ、香草油仕立ての皿をもう一度見下ろし、ゆっくりとうなずいている。
娘が領主館で必要とされている。そこで覚えた料理を、今度は実家の宿へ持ち帰ってきた。
それは単に新しい料理が増えたというだけの話ではなく、宿にも、町にも、そしてエルマ自身にも、これまでとは違う何かが見え始めていた。
「エルマお姉ちゃん」
リーナが、空になった小皿を持ち上げた。
「これ、また作って」
「どれ?」
「キノコのやつ」
迷いのない答えだった。
大人たちは顔を見合わせた。子どもがもう一度食べたいと言っている。それだけで、この料理に十分な力がある証拠だった。
ハンスが静かに息を吐く。
「これは売れるかもしれん」
エルマの父が深くうなずいた。
「いや、売らなきゃならん」
あの硬いヴァレーヌ小麦が、温かな料理として皿にのっている。旅人が食べ、子どもが喜び、大人が麦酒を欲しがる。
そんな光景を、ここにいる全員が思い浮かべていた。
エルマは机の上の三つの皿を見つめる。
まだ試験にすぎない。明日から本当に客へ出せるのか、どれだけ売れるのか、どんな感想が返ってくるのか。分からないことは本当に多い。
それでも、確かな感触があった。
これはただの思いつきではない。この宿で出して、この町で売れて、そしてきっと評判になる。
エルマも、両親も、ハンスも、その場にいた誰もが同じ手ごたえを感じていた。




