第40話 小麦麺の使い道が見つかりました。
前回までのあらすじ
ホモは帰ってくれないか。
最後に向かったのは、宿場通りの外れにある古びた宿屋だった。
ハンスの話によれば、鉱山が栄えていた頃は、この宿も商人や荷馬車の御者たちで賑わっていたそうだ。早朝から湯気の立つスープが大鍋で煮込まれ、夜になれば酒を求める客の声が絶えなかったらしい。
しかし、今の宿に人影はなかった。看板は色褪せ、扉も古ぼけている。それでも、店先はきれいに掃かれ、窓も磨かれ、壁にも汚れはない。
寂れてはいる。けれど、諦めて投げ出しているわけでもなかった。レティシアはそのことに、少しだけ胸を打たれた。
「こちらは、エルマの実家の宿です」
オスカーが控えめに告げる。それにハンスが続けた。
「昔は、この通りでもよく知られた宿でございました。料理の評判も悪くなかったと聞いております」
「今も営業は続けているのですね」
「はい。ただ、客はかなり減ったそうです」
レティシアは宿を見上げた。
ここでエルマは育った。顔の傷を気にしながら厨房に立ち、客に出す料理を手伝ってきたのだ。その経験があったからこそ、彼女は領主館の厨房で即戦力になれた。
そう考えると、ここはただの古びた宿屋ではなく、人を育てた場所だった。
レティシアが馬車を降りると、宿の中から一組の男女が慌てて飛び出してきた。
エルマの父と母である。二人はレティシアの姿を見るなり、膝をつきそうな勢いで頭を下げた。
「りょ、領主様! このようなところへ、ようこそお越しくださいました!」
「そ、その、何もお構いできるものがございませんで……!」
「どうか顔を上げてください。今日は視察です。宿の様子を見せていただきたくて参りました」
レティシアがそう言っても、しばらく二人はそのまま動かなかった。
それも無理はない。多くの中から自分たちの娘を選び出し、雇ってくれた若き領主が、突然店先へ現れたのだから。
オスカーが静かに補足した。
「本日は公的な視察だ。普段通りにしてもらいたい」
「は、はい!」
そう言われても、この状況で普段通りにできる人間などそうはいない。エルマの父は背筋を伸ばしすぎて、むしろ不自然になっていた。
その姿に、レティシアは表情を和らげる。
「エルマは領主館でよく働いてくれています。感謝しておりますわ」
その一言で、二人の顔色が変わった。
「もったいないお言葉でございます」
母が震える声で答える。
「料理長も助かっていると言っていました。火の扱いにも慣れていますし、よく励んでくれると」
「そんな……あの子が……」
母は両手で口元を押さえ、父は何度も頭を下げる。
「ありがとうございます。ありがとうございます。あの子を雇っていただけただけでもありがたいのに、そのようにおっしゃっていただけるとは……」
「礼を言われることではありませんわ。エルマに働いてもらって、こちらも助かっているのです」
それは本当だった。リオネルが一人で抱えていた厨房は、エルマが入ったことで分担できるようになった。
まだ教えることは多いが、彼女は覚えが早い。
レティシアは食堂へ案内された。広くはない室内に、木のテーブルが数卓と壁際の長椅子。奥には厨房へ続く扉がある。
床板は古いが、きちんと磨かれていた。窓から入る光の中に、細かな埃が舞っている。
客の姿はない。それでも、いつ客が来てもよいように、鍋には火が入れられていた。薄い豆のスープだろうか。ほのかに香ばしい匂いがする。
「宿では、客が来るか分からない日も、食事の用意をしておくのですか?」
レティシアが尋ねると、父母は顔を見合わせた。
父が答える。
「はい。簡単な煮込みとパン粥くらいはいつも用意しております。何も出せませんと、客を逃してしまいますので」
「けれど、誰も来ない日もありますわよね」
「……ございます」
母が小さく頷いた。
「その時は家族で食べます。ですが、肉や野菜を多く使うものは、そう何度も用意できません」
父が引き継ぐ。
「パンもそうです。野菜などよりは日持ちしますが、日が経つと硬くなりすぎてお客様へ出せなくなります。余れば損になりますし、かといって用意がなければ、お客様に出すものがなくなってしまいます」
言葉は控えめだった。しかしそこには、宿屋の苦しさが詰まっていた。
客が来るかもしれないから食事を用意する。
客が来なければ仕込んだものが余る。
その損を繰り返す余裕はない。
けれど用意していなければ、せっかく来た客に食事が出せない。
レティシアは食堂を見渡した。
古びてはいるが手入れされた店内。火の入った鍋。客を待つ空の椅子。この宿は、まさに今のエーベルそのもののように見えた。
商人を待ち、旅人を待っている。けれど、待つだけでは消耗していく。
〈客が来るかも分からないのに仕込みが必要なのか〉
〈宿屋も大変だな〉
〈仕方ないじゃん。客にめし出さないわけにいかないんだし〉
〈でも余って捨てるのもなぁ〉
〈もったいないお化け出そう〉
〈ふるっ!〉
レティシアは、流れるコメントを眺めながらしばらく黙って考えた。
もちろん「もったいないお化け」が、あまりに古すぎる昭和ネタだとか、そんなことではない。
ただでさえ苦しい経営の中で、余った食材を廃棄しなければならないのだ。決して食材が潤沢とは言えないこの町で、それはあまりにやるせなかった。
それなら、何かないだろうか。保存ができて、日持ちして、必要な時にすぐ提供できる食材が――。
ん? ……あった! あるではないか!
乾燥させた麺。保存できる麺。
必要な分だけ湯で戻し、簡単な味を絡めれば出せる料理。ヴァレーヌ産の黄色い硬質小麦で作った、あの平麺が!
厨房で試作した時は、まだ料理としての可能性を見出しただけだった。物珍しいだけで、特に使い道や販路を考えていたわけではない。
それを宿屋で使うとしたらどうだろう。
乾麺なら日持ちする。客が来なければそのまま保存できる。客が来た時だけ、必要な分を茹でればよい。
具沢山である必要はない。少量の油脂と塩、香草に削った硬いチーズ、干し肉の欠片。あるいは、豆を潰した簡単なソースでもいい。具入りの煮込みを作るより、かなりの食材を節約できるはずだ。
旅人が求めるのは、必ずしも豪華な料理ではない。温かく、腹にたまり、早く出せるもの。それでいて、この土地でしか食べられない珍しさがあれば、商人の記憶にも残るだろう。
「オスカー」
「はい」
「領主館で試作している黄色い小麦の乾燥麺を、この宿で試験的に出してみるのはどうかしら」
エルマの両親が目を丸くした。
「こ、この宿で、でございますか?」
「ええ。もちろん、あなたがたを優遇しようとしているわけではありません。あくまで、これは市場調査です」
レティシアは、そこをはっきりさせた。
エルマの実家だから使う、では駄目だ。それでは他者の反発を招く。必要なのは、誰もが納得する理由である。
「この宿は宿場通りにあり、旅人や商人が立ち寄ります。客が来るか分からない日にも食事を用意しなければならない。ならば、保存できる料理の試験には向いています」
オスカーが頷いた。
「なるほど。販売した数、残った量、客の反応を記録していただく形になりますね」
「ええ。味の好み、茹でる時間、値段。どのような客が注文したのかも、分かる範囲で残していただきたいですわ」
父は戸惑った顔をしていたが、やがて真剣に頷いた。
「客が来ない日でも無駄になりにくい、ということでございますね」
「そうです。乾燥させて保存できます。必要な分だけ湯で戻せばよく、あとはソースを絡めれば食事として出せるはずです」
「それなら……確かに、宿では助かります」
母がぽつりと呟いた。
「煮込みを多く作らずに済むなら、ありがたいです。肉を使わずとも、塩と油、少しの香草で食べられるなら……」
「最初は、そういう簡単な味付けでよいと思います」
レティシアは頷いた。
「領主館の料理として完成させるのではなく、宿屋で実際に出せる形にする必要があります。そこは、あなた方の知恵も借りることになるでしょう」
「私どもの、でございますか?」
「ええ。客がどれくらい待てるのか。どの程度の量なら満足するのか。いくらなら注文してもらえるのか。それは領主館の厨房では分かりません」
父母は、驚いたように顔を見合わせた。領主に教えを求められるなど、思ってもいなかったのだろう。
もちろん、忙しいリオネルに丸投げするつもりはない。
彼には基本の作り方と乾麺の品質を見てもらうが、宿で出す料理にするには、現場の人間の感覚が必要だった。
エルマにも実家での経験がある。彼女を通じて、領主館の厨房と宿屋をつなぐこともできる。これは単なる試作ではなく、町で売れるかどうかを見る最初の試験だった。
〈宿屋で試験販売?〉
〈乾燥麺がここにつながった〉
〈商人が気に入れば宣伝になるかも〉
〈食材ロス削減〉
〈やるじゃん、鈍器パン〉
いや、もう鈍器ではない。たぶん。
レティシアは古びた食堂を見渡した。
客のいない椅子。火の入った鍋。磨かれた床。外れかけた看板。ここには、まだ客を待つ火が残っている。
ならば、その火を少しだけ大きくする方法を探せばいい。
「まずは、この宿で試してみましょう」
それは、まだ産業と呼べるほどのものではなかったが、ヴァレーヌの黄色い小麦が、領主館の厨房を出ていく最初の一歩になるかもしれなかった。




