第39話 領都を視察します。
前回までのあらすじ。
なんだかんだ言って、リオネルとクララは似た者同士。
領主館の体制は、少しずつ整いつつあった。
まだ潤沢とは言えないが、それでも以前よりは人の手が足りている。おかげで十日に一日の交代休日も試験的に始められた。
統計が取れていないので、どれほどの効果があるかは分からない。けれど、休暇の使用人たちが町へ出るようになったことで、少額ではあるが市中へ金が流れ始めた。
女中が布や糸を買う。厩舎係が靴底の修理を頼む。下働きの若者が屋台で食事をする。
こうして、領主館で払った賃金が、ほんの少しずつ町の中へ落ちていった。
金が動けば人も動く。レティシアは、以前に自分が考えたことを改めて思い出す。
紙片に書き、壁に張った言葉が、ほんの少しだけ現実になり始めていた。
ちなみに、休暇第一号となったリオネルとクララは、二人で町へ出たらしい。
とはいえ、普通の恋人同士のような甘い逢瀬ではなく、市場で食材の値段を確かめ、鍛冶屋で厨房道具の修理について聞き、屋台で売られている料理を確認した。それは、デートというより市場調査に近いものだった。
それでも二人は一緒に屋台で食事をし、クララは小さな飾りピンをひとつ買ったという。
翌日のクララは、いつも通り無口で、いつも通り無表情だった。ただ、何気に肌艶が良い気がした。
〈無口カップルの無表情デート〉
〈楽しいんか、それ〉
〈クララ機嫌良さそう〉
〈分かるのか?〉
〈わからん〉
〈_( ┐ノε:)ノズコー〉
しかし何度も言うが、この二人の愛の語らいがどうしても想像できない。おそらく屋台でも、
「この干し肉は保存状態がよろしいですね」
「同感です」
くらいの温度だったに違いない。
それでも二人は、丸一日仕事を忘れてリフレッシュできたのだろう。もしそうなら、少なくとも制度を作った意味はあったのだと、レティシアには思えるのだった。
◇
領主館の運営が少しずつ軌道に乗り始めたところで、レティシアは領都エーベルの視察に出ることにした。
執務室にこもっていては伝わってこない、リアルな市場の匂いと空気感。空き店舗の様子と井戸端に集まる人々の会話。そういうものは、やはり実際に見て触れて聞いてみなければ分からない。
案内役として呼ばれたのは、領都エーベルの町長、ハンス・テールマンだった。
町長といっても、現代日本のそれとは違い、町民や商人、職人たちの声をまとめ、領主館からの触れを町へ伝える、町側の代表のような存在だ。
ハンスの本業は、老舗商家の四代目である。ヴァレーヌが鉄鉱で栄えていた頃から続く商家で、今も細々と交易品や日用品を扱っているという。
そのハンスは、領主館の玄関前でひどく緊張していた。
年は五十に届くかどうか。痩せた体に、きちんと手入れされた上着。商人らしく腰は低いが、視線だけは隙がない。それは、町を長く見てきた者の目だった。
「ハンス町長。あなたもこちらへ」
レティシアが馬車の前でそう告げると、ハンスは目に見えて固まった。
「わ、私が領主様の馬車に、でございますか」
「ええ。道中で町の話を聞きたいのです。別の馬車では、それも叶わないでしょう?」
「それは、確かにそうでございますが……」
ハンスはちらりとオスカーを見た。オスカーは涼しい顔で頷く。
「本日は公的な視察です。町長には案内役として同乗していただきます」
「……承知いたしました」
ハンスは恐縮しきった様子で頭を下げつつも、馬車へ乗り込んだ。もちろん車内にはオスカーも同席する。アリスもレティシアの横に控えていた。
これは密室ではなく公的な場である。若い未婚の令嬢として、そこははっきりさせておかなければならないルールだった。
〈町長、緊張してる〉
〈そりゃするだろ。美少女と密着だからな〉
〈密着してねぇしw〉
〈俺も密着したい、ハンスに〉
〈ホモは帰ってくれないか〉
馬車がゆっくりと動き出す。レティシアは窓の外へ目を向けた。
領都エーベル。ヴァレーヌ領の中心地。けれど、その名が持つイメージほど町は華やかではなかった。
最初に向かったのは市場だった。
市場の入口で馬車が止まる。先に降りたオスカーが周囲を確認し、続いてアリスが扉の脇に控えた。
レティシアが馬車から降りると、市場のざわめきが薄くなる。
野菜を並べていた女が手を止め、豆の袋を担いでいた男がぽかんと口を開け、値段の交渉をしていた商人が途中で言葉を失った。
新しい領主が若い女性だという話は、すでに町中へ広まっていた。けれど、実際に目にしたレティシアは、彼らの想像よりもずっとお嬢様だった。
未だ少女と言ってもいい年頃。細い肩。まだあどけなさの残る横顔。それなのに、背筋はまっすぐ伸び、所作に迷いがない。
身にまとうドレスは、王都の夜会で着るような華やかなものではなく、装飾を抑えた動きやすい昼の装いだ。
それでも、生地の質、仕立て、胸元の小さな飾り、裾の揺れ方。そのどれもが、彼女が紛れもなく公爵家の令嬢であることを示していた。
町の者たちの目に浮かんだのは、期待ではなく不安だった。
こんな若いお嬢様に、何が分かるのか。王都の上流貴族として育った少女に、この町の苦しさが分かるのか。
そう思われているのが、レティシアにも分かった。
無理もない。ヴァレーヌは疲弊している。期待して、裏切られて、諦めることにも慣れていた。
新しい領主が来たからといって、明日から急に暮らしが良くなるなんて、本気で信じている者はほとんどいなかった。
〈急に静かになったな〉
〈みんな驚いてる〉
〈なら、ここで一発かませ〉
〈何をw〉
〈全員ひざまずけ。わたくしがレティシアですわぁ〜!〉
ふざけるな。
そんなこと出来るわけないだろう。
レティシアはコメントを無視し、市場の人々へ静かに視線を向けた。
ここは笑顔を振りまくところではない。ましてや、約束を並べる場面でもなかった。
まずは現実を見て話を聞く。この町がどうなっているのかを、知らなければならないのだ。
市場そのものは、完全に死んでいるわけではなかった。根菜、豆、干した薬草、塩、修理された鍋、木の匙。生活に必要なものは並んでいる。
しかし品数は少なく、種類も選べない。新しいものもあるにはあるが、領外から入ってきた品はどれも高かった。
「この塩は、王都近郊のものよりずいぶん高いのですね」
レティシアの言葉にハンスが頷いた。
「はい。持ち込む商人が減りましたので、どうしても」
「商人が減ると品は減る。品が減ると価格は上がる。ですわね」
「その通りでございます」
ハンスの声は重い。
「買い手が少なければ、商人も多くは持ち込みません。数が少なければ、町の者は高い品を買うしかない。あるいは、買わずに済ませる。そうなると、ますます商人は来なくなります」
悪循環。文字で書けば簡単な言葉だ。でも目の前の市場には、その悪循環がそのまま並んでいた。
品物の少なさに価格の高さ。店主の疲れた顔と客の財布を気にする視線。レティシアはひとつひとつを見て歩いた。
〈市場のくせに品数少なすぎね?〉
〈店の棚スカスカじゃん〉
〈これで商売になるのか?〉
〈そもそも購買力が低いんじゃね〉
〈そりゃ商人も来なくなるわ〉
いや、もうそれ以上言わなくていい。
私も同じことを思っていたところだ。
馬車に戻る頃には、市場の人々の視線が少し変わっていた。
まだ期待ではなく警戒に近い。けれど少なくとも、レティシアがただ窓から眺めて帰るだけの領主でないことは伝わったらしい。
次に向かったのは宿場通りだった。
通りの両側には、宿屋や食堂だったであろう建物が並んでいる。今も営業している店はあるが、閉められたところも多かった。
外された看板。色あせた戸板。人が住んでいるのかさえ分からない廃墟。馬をつなぐための杭だけが残っている店先。
「昔は、この通りが一番賑やかでございました」
ハンスが言う。
「鉱山が栄えていた頃は、鉱夫も商人も職人もおりました。荷馬車も、日に何台も通ったとか。宿はどこも人で埋まり、食堂の火は夜遅くまで落ちなかったと聞いております」
「でも今は」
「ご覧の通りです」
ハンスは、閉じられた宿の一軒へ視線を向けた。
「街道が荒れ、商人は減り、関所の通行料を払ってまで通る意味も薄くなりました。ここで仕入れられる物が少なすぎるのです。ですから商人は、別の街道を選ぶようになりました」
街道。商人。関所収入。宿屋。頭の中で断片がつながっていく。それらはひとつの問題ではなく、すべてが絡まっていた。そして、絡まった糸は、無理に引けばさらに固くなる。
〈宿場通りがこれか〉
〈廃墟じゃん〉
〈ここ、昔は賑やかだったんだろうな〉
鍛冶屋の前を通る。そこには、折れた鍬や曲がった金具の修理品が並んでいた。新しい道具を買う者は少なく、修理して使い続ける者ばかりだという。
井戸のそばでは、水桶を抱えた女たちが集まっていた。レティシアの姿を見て、慌てて頭を下げる。
水場は生活の中心だ。そして、噂の集まる場所でもある。領主館で触れを出すだけでは届かない声が、きっとここにはある。
レティシアは、それも覚えておくことにした。
町の端には、古い神殿があった。
いや、神殿だった場所、と言った方が正しいかもしれない。門は傾き、石畳の隙間から草が伸びている。扉は閉ざされ、壁には蔦が絡んでいた。
かつて祈りの場だったはずの庭には、落ち葉が積もっている。
レティシアは馬車を降り、門の前に立った。
「ここは、もう使われていないのですね」
「はい。十年以上前に、神官が引き上げました」
ハンスが静かに答える。
「昔は祝祭や祈りの場として、町の者が集まったと聞いております。ですが、町が貧しくなり、寄付も減りました。建物の修繕もできず、神官の生活さえも支えることが難しくなりまして」
貧しい土地ほど、精神的な救いを求めて人が集まりそうな気もするが、救いの場所を維持するにも金と人がいる。
決して信仰心が消えたわけではない。信仰を支える余力が消えたのだ。ここでもまた、金と人である。
レティシアは閉ざされた扉を見つめた。いずれここにも手を入れる必要があるだろう。しかし、それは今ではなかった。
〈宗教施設まで寂れるとか、もう末期じゃん〉
〈ここも金と人の問題〉
〈救いの場さえ維持できんのか〉
〈神官も裸足で逃げだす貧しさよ。みつお〉
〈みつお、じゃねーよw〉
レティシアは頭の中のやることリストに、ひとつ項目を増やした。
神殿の再建。
ただし、その横には大きく注釈を書いた。
しばらく後回し、と。




