第38話 領主館の働き方改革です。
前回までのあらすじ
エルマ、いい娘やね。幸せになってほしい。
領主館で下働きの者たちを雇ってから数日が過ぎた。
さすがはオスカーとクララが選んだ者たちである。全員が即戦力と言っても過言ではなかった。
もちろん、初めから全員が完璧に動けたわけではない。領主館の仕事には、普通の家事とは違う決まり事が多いからだ。
掃除ひとつ取っても、触れてよいものと触れてはならないものがある。厨房でも食材の扱い方が違うし、廊下を歩く時でさえ、場所によって気をつけるべきことがあった。
覚えることは山ほどある。それでも、人手が増えたことで、領主館の空気は少しずつ変わり始めていた。
調理補助として採用されたエルマは、初日からよく働いた。
実家の宿屋で料理をしていただけあり、食材の下ごしらえから火の扱いまで、厨房作業全般に慣れている。リオネルの指示を理解するのも早く、手を止めずに動くことができた。
初めのうち、エルマは顔の傷を隠すように俯いていた。しかし、リオネルは何も言わず、クララも触れず、他の使用人たちも話題にしなかった。
哀れむ者もいなければ、避ける者もいない。必要なのは鍋を焦がさないこと、包丁を正しく扱うこと、リオネルの指示を聞くこと。ただ、それだけだった。
レティシアは使用人たちに対して、エルマの傷に触れないよう特に指示はしていなかった。しかし彼らは、主が見た目で人を差別するのをとても嫌う人物であることを、言われずとも知っていた。
〈エルマめっちゃ働き者〉
〈普通にかわいいじゃん〉
〈料理経験者は強い〉
〈有能。リオネルの負担が減るな〉
〈領主館、少しずつ回り始めた〉
そう、少しずつ。本当に少しずつではあるけれど、ゆっくりでも進んでいるならそれでいい。
そう、レティシアは思っていた。
◇
そんなある日の朝のこと。
いつもの時間にアリスがレティシアを起こしに来た。
寝室の中は相変わらず配信対象外だ。さすがは全年齢対象CERO A。乙女の寝起きは完全に守られている。ありがたい。
身支度を整え、廊下へ出る。すると、今や見慣れた文字列が視界の端を流れ始めた。
【寝室から退出しました。プライバシーフィルターを解除します】
【映像および音声の配信を再開します】
ピロン♪
〈おはようレティシア様〉
〈今日も朝から優雅じゃのぉ〉
〈だから寝室も配信しろ定期〉
〈ただしイケメンに限る〉
〈( ゜д゜) ガタッ! 俺の出番か〉
〈お前じゃねーよ〉
嫌です。寝室はだめ、絶対。
それにしても、今日も朝からやかましい。まぁ、今となっては慣れたものだが。
廊下に出ると、いつも通りクララが控えていた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、クララ」
無口で無表情。姿勢は真っ直ぐで、礼の角度も完璧。どこからどう見ても、いつも通りのクララである。
ふと、レティシアは足を止めた。
……いや、何かが違う。何が違うのかと問われると困ってしまうが、間違いなくどこかが違う。
いつもと表情は同じだし、声の調子も変わらない。仕事に乱れがあるわけでもない。
むしろ完璧だった。完璧すぎた。
一度そう思ったら確かめずにはいられない。レティシアは疑問を口にした。
「クララ。何かあった?」
「特に変わりはございません」
即答だった。
早い。早すぎる。まるで、そう聞かれるであろうことが、あらかじめ分かっていたかのような素早さだ。
思わずレティシアが聞き返す。
「本当に?」
「はい」
「……そう」
レティシアは頷いた。
納得はしていない。していないが、本人がそう言っている以上、敢えて突っ込むのもどうかと思う。
横目で見る。そこには相変わらずクララが平然と立っていた。
〈通常運転〉
〈いや、でもなんか怖い〉
〈いつもより無表情じゃね?〉
〈いつも無表情だろ〉
〈いや、違くて〉
〈背景に『ゴゴゴ……』って出てる気がする〉
どうやら彼らにも分かるらしい。
やはり何かある。だけどクララは、それ以上何も言わなかった。
クララは食堂でレティシアと別れて別の仕事へ向かった。代わって給仕に入ったのはアレットだった。
朝食の皿が並べられる。
今朝のスープは豆と根菜。焼いた薄切り肉が少々。パンは相変わらず硬めだが、以前の鈍器に比べればだいぶましだった。
これはリオネルの努力である。どうすればパンを柔らかくできるか、日夜研究しているらしい。領主館の食事の平穏はリオネルによって保たれていた。
「ねぇアレット」
「はい、お嬢様」
「クララに何かあった?」
唐突な問い。
アレットの手が止まる。やはり何かあるらしい。
「……お嬢様から見ても、そう思われますか?」
「ええ。今朝のクララは、無表情だったから」
「いつも無表情でございますが」
「そうね。でも、今朝はさらに無表情だったわ」
言っていることが、かなりおかしい。しかしアレットは納得したように頷いた。
「実は、料理長のことで」
「リオネル?」
「はい。料理長は最近、厨房にこもりきりでして」
アレットによれば、リオネルはこのところ非常に忙しいらしい。
日中は領主館の日々の食事作りに加え、食材の仕入れと在庫の確認、新しく入ったエルマへの指導も行う。
それだけでも十分忙しいところへ、黄色い小麦の麺の試作が加わった。乾燥のさせ方、茹で戻した時の食感、合うソース。レティシアが任せた件を、リオネルはかなり真面目に進めているらしい。
「夜にも、試作をなさっているようです」
「夜に?」
「はい。通常の厨房業務が終わった後で」
ふむ。それはよろしくない。加えて、もう一つ気になることがある。
「じゃあ、クララとは?」
「ほとんど、お話しできていないのではないかと」
なるほど、深刻である。無口なあの二人にとって、会話……というより、目線を交わす時間は非常に重要だ。主にコミュニケーションという意味において。
〈おっと、会話不足か〉
〈料理長、黄色い麺に夢中〉
〈原因それ?〉
〈破局危機〉
〈仕事と私、どっちが大切なの?〉
〈出たよ、決めゼリフw〉
出た、とか言うな。他人事だと思って無責任が過ぎる。こちらにすれば、わりと……いや、かなり切実な問題だ。
リオネルとクララは、将来を誓い合った仲である。ただし、その婚約報告ですら業務連絡のような温度で行った二人だ。
普通の恋人同士のように「会えなくて寂しい」とか「もっと一緒にいたい」とか、そういう甘い言葉を交わす姿がどうしても想像できない。
想像しようとしても、脳が拒否する。おそらく求婚も業務連絡のようだったに違いない。
だからこそ、周囲が察するしかなかった。
常に同じ厨房にいるとはいえ、リオネルは決してエルマに思うところがあるわけではない。エルマも仕事を覚えるのに必死だ。
クララもそれは理解している。それでもやはり、面白くないものは面白くないのだろう。
ただし、本人は絶対にそう言わない。何を聞いても「特に変わりはございません」と答えるだけだ。
いや待て。
それはつまり、かなり問題があるということの裏返しなのではないだろうか。
〈いやこれ切実だろ〉
〈クララの感情読むの難易度高い〉
〈リオネル、恋人かまってやれよ〉
〈仕事人間あるある〉
〈女は仕事より自分を上に置いてほしい。男は仕事と恋人を同列に置きたがる〉
〈深いな〉
なるほど。わかりみしかない。
これはもしかして……いや、もしかしなくても婚約者たちの危機なのではないか。決して放っておいてよい問題ではないだろう。
ならば、どうすればいいか。
……ピコン!
ひらめいた!
リオネルとクララを、同じ日に休ませればいいのでは?
そう思った瞬間、レティシアはふと別のことに気がついた。
そもそも、この領主館の使用人たちはいつ休んでいるのだろうか。
アリスは毎朝レティシアより先に起き、レティシアよりも遅い時間に寝ている。クララも朝から晩まで屋敷の中を動いているし、リオネルは厨房で食事を作り続けている。
オスカーは書類と屋敷と人員と領主業務の調整で、いつ寝ているのかさえ分からない。
住み込みの使用人にとって、休みとは「必要がある時に許可を得て取るもの」だ。
地方出身者が年の変わり目や冬祭りに実家へ帰ることはある。病気や家の事情で休むこともあるが、十日に一日、七日に一日といった、最初から決まった休日はない。
主の生活がある限り、使用人の仕事も続くのだ。
朝も。昼も。夜も。
これはちょっとダメだろう。明確な労働基準法違反ではないか。
いや、そもそもこの世界に労働基準法はないが、ないからといって人を休ませなくてよい理由にはならない。
休みを軽んじる職場は、人を壊す。それをレティシアは身をもって知っていた。前世で過労死した女が、今世では使用人に年中無休を強いるなんて絶対に笑えない。
〈領主様、急に真顔〉
〈真顔もかわええ〉
〈何かに気づいた?〉
〈使用人たち働きすぎ疑惑〉
レティシアはスプーンを置いた。
「アレット」
「はい」
「オスカーを呼んでください」
オスカーはすぐに来た。
来るのが早い。本当に、いつ休んでいるのだろうか。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「オスカー。使用人たちに、定期的な休日を設けます」
オスカーは一瞬だけ瞬きをした。
「休日、でございますか」
「ええ。十日に一日。交代で完全に休ませます」
オスカーは黙った。反対しているというより、頭の中で計算しているようだった。
「全部署で同時に休ませることはできません」
「もちろんです。部署ごとにずらします」
「厨房、侍女、清掃、警備、厩舎。それぞれ最低人数を残す必要があります。お嬢様のご予定、買い出し、厨房の仕込み、警備の交代も考慮しなければなりません」
「お願いします」
「緊急時に呼び出した場合は、振替の休みを設けるべきでしょう」
「それも入れてください」
「可能です。ただし、最初は試験運用とした方がよろしいかと」
「構いません。まずは始めます」
オスカーは深く一礼した。
「承知いたしました。勤務表を作成いたします」
〈領主館ホワイト化計画〉
〈むしろオスカーの仕事増えてんじゃん〉
〈勤務表という新たな敵〉
〈でも大事〉
なお、オスカーの仕事は増えた。ごめんなさい。
理念を掲げるのは領主の仕事で、それを現実に落とし込むのは有能な家令の仕事である。
大事なことなので、心の中で二度謝った。
当然ながら、使用人たちは困惑した。休んでよい、と言われても、何をどう休めばよいのか分からなかったからだ。
侍女たちは「お嬢様のお世話は?」と顔を見合わせ、厨房の者たちは「仕込みはどうするのか」と不安そうにし、厩舎係は「馬の世話に休みはありません」と真顔で言う。
もっとも、そのあたりはオスカーの領分である。
彼はすぐに部署ごとの人数、主の予定、厨房の仕込み、警備の交代を書き出し、勤務表の作成に取りかかった。
さすがである。さすがすぎて、ちょっと申し訳ない。
そして、試験運用の第一弾として名前が挙がったのが、リオネルとクララだった。
「まずはリオネルとクララに、同じ日に休みを取ってもらいます」
レティシアがそう告げると、二人はほとんど同時に顔を上げた。
「私でございますか?」
「私も、でございますか?」
温度差のない声だった。
似ている。分かってはいたが、やはり似た者同士である。
「ええ。二人とも働きすぎです」
「しかし、厨房が」
「しかし、女中たちが」
「オスカー、調整は可能ですか?」
「可能です」
即答だった。
「前日までに仕込みと人員配置を整えれば、一日は回せます。クララの担当については、アリスとアレットを中心に補助を入れます。厨房については、献立を簡略化し、エルマたちにも任せられる範囲にすれば問題ございません」
「では決定です」
レティシアはにこりと笑った。
「二人とも、その日は休みなさい」
「……承知いたしました」
「……承知いたしました」
二人の表情は変わらない。クララは無表情。リオネルも真面目な顔。だけど次の瞬間、二人の視線がほんの少しだけ交わった。
本当に一瞬、まばたきより短いくらいの時間。しかし、レティシアは見逃さなかった。
〈無口カップルの同日休日〉
〈今の目線で会話したんじゃね〉
〈喜んでる?〉
〈よくわからん〉
〈レティシア様、ニヤついてね?〉
おっと、いけない。顔に出ていたらしい。
レティシアは慌てて表情を消した。
十日に一度の交代休日。
現代日本人の感覚からすれば、決して多いとは言えない。けれど、この世界の住み込み使用人たちにとっては、十分すぎるほどの大きな変化だった。
休みを作る。人を休ませる。休んでも屋敷が回る仕組みを整える。それは、領主館を一つの職場として考えることでもある。
そして、その第一号として、リオネルとクララは揃って同じ日に休みを取ることになった。
二人はまた、ほんの少しだけ顔を見合わせる。無表情のまま。無言のまま。
けれどレティシアには、なぜか分かった。
あれはたぶん、喜んでいる。
たぶん。おそらく。きっと。




