第37話 ぼんやりとした希望
前回までのあらすじ
レティシア陣営の能力第一主義が胸アツ。
第一次確認が終わるまで、エルマは門の内側に設けられた待機場所で待つことになった。
周囲には、同じように残された者たちがいる。
力のありそうな若者。手際の良さそうな中年の女。厩舎仕事を希望しているらしい少年。
皆、不安そうに互いの様子をうかがっていた。
エルマは人目を避けるように、少し離れた場所へ移動する。
その時だった。
「エルマ?」
聞き覚えのある声に、エルマの肩が思わず跳ねた。振り向きたくなかった。けれど、それを無視して相手は近づいてくる。
「やっぱりエルマじゃない」
「あなたも来ていたの?」
見れば、二人の女が立っていた。幼い頃、同じ通りで育った娘たち。
幼馴染と言えばそうなのかもしれないが、仲が良かった記憶は遠い昔に消えている。
エルマの顔に傷ができてから、彼女たちは少しずつ変わっていった。
最初は遠巻きに見ていただけだったが、次第に笑うようになり、やがて言葉で傷つけるようになった。
エルマは反射的に右頬を隠した。
「隠さなくても見えているわよ」
一人が笑った。
「無理をして恥をかく前に、帰った方がいいんじゃない?」
「領主様のお屋敷よ。あんたみたいなのがいたら、皆が困るわ」
もう一人が、親切そうな声を作る。
「ねえ、辞退したら? 誰にだって向き不向きはあるでしょう?」
「わたしは……」
声が震えた。
反論したい。けれど、言葉が出てこない。
昔からそうだった。
言い返せば、さらに笑われる。怒れば、傷のある顔で怒ると怖いと言われる。泣けば、面倒な女だと囁かれる。
「聞いてるの?」
「こっちに来なさいよ。人前で恥をかかせたくないの」
腕を引かれる。エルマは抵抗できず、植え込みの陰へ連れていかれた。
門前のざわめきが少し遠くなる。
「いい? あんたが辞退すれば、他の人が一人助かるの」
「そうよ。領主様に迷惑をかける前に、自分から下がるべきだわ」
「その顔で厨房に立つの? 食べ物を扱う場所なのに?」
最後の言葉が、エルマの胸に強い痛みを走らせた。
厨房なら働けるかもしれない。そう思ったばかりだった。
物心がついたときから、実家の宿屋をずっと手伝ってきた。火は見られるし、煮込みも作れる。包丁だって使える。
それでも、この顔では駄目なのだろうか。
「……分かった」
エルマは小さく答えた。
「わたし、辞退するって言って――」
「その必要はありませんわ」
背後から静かな声がした。
突然の出来事に、三人が同時に振り向く。するとそこには、一人の少女が立っていた。
装飾こそ控えめだが、纏う深い紺色のドレスはひと目で上質なものと分かる。すらりと背が高く、背筋はまっすぐに伸び、淡い銀色の髪が朝の光を受けてきらめいていた。
少女というには落ち着きすぎている。貴婦人というにはまだ若い。けれど、その場の空気が一瞬で変わった。
エルマは息を飲んだ。
「わたくしには、その傷が醜いものには見えませんわ」
少女はエルマを見てそう言った。それから、二人の女へ視線を移す。
「ですが、人を傷つけて笑う心は、ずいぶん醜く見えます」
「な、何よ、あなた――」
一人が言いかけたが、その声は途中で小さくなる。
少女の前へ二人の騎士が歩み出て、主を守ろうとその身を晒した。それだけでも十分すぎるほどの威圧だが、加えて女は少女の胸元にある紋章に気づいた。
女の顔から血の気が引いていく。
「名乗らず、失礼いたしました」
少女は手で騎士たちを下がらせながら、静かに言った。
「わたくしはレティシア・グランシエール。このヴァレーヌを預かる者です」
瞬間、エルマの頭の中が真っ白になった。
領主様。
新しくヴァレーヌへ来た、公爵家の令嬢。
王太子殿下の元婚約者だという雲の上の貴人。
その人が、目の前に立っている。
少女の正体を理解した二人の女が、慌てて膝を折ろうとした。
「も、申し訳ありません、領主様!」
「わ、私たちは、その、彼女のためを思って……」
「謝罪は、わたくしではなく彼女にするものです」
レティシアの声は凪いでいる。けれど、逃げ場はどこにもなかった。
「ですが、今は結構。あなた方に用はありません」
レティシアが、わずかに視線を動かす。それだけで、控えていた騎士たちが再び前へ出た。
「門の外へ」
それは命令と言うには短すぎた。しかし二人の女は顔を青ざめ、何度も頭を下げながら後ずさる。そして、逃げるようにその場を去っていった。
エルマは動けなかった。
膝が震えている。怖かったのか、ほっとしたのか、自分でもよく分からない。
「あなた」
レティシアが声をかけ、エルマは慌てて頭を下げた。
「は、はい!」
「名前は?」
「エ、エルマにございます」
「そう。エルマ。今は何をしているのですか」
「実家の宿屋を手伝っております。料理を作ったり、掃除をしたり……」
「料理……」
レティシアが少し考えるように目を細めた。
「それなら、調理補助に向いているかもしれませんわね」
「え……」
エルマは思わず顔を上げた。その瞬間、右頬を隠すのを忘れていたことに気づく。
けれど、レティシアは傷を見ても表情を変えなかった。
「顔を隠す必要はありません。鍋を洗い、包丁を握り、火の番をする邪魔にならなければ、問題ないのですから」
レティシアは、まっすぐにエルマを見た。
「わたくしが見るべきは、そこではありません」
言葉が胸に落ちる。
エルマは何も言えなかった。思わず泣きそうになるけれど、ここで泣いてはいけないと思った。
レティシアは、同情しているのではない。憐れんでいるのでもない。ただ、働けるかどうかを見ていた。
「リオネル」
レティシアが呼ぶと、料理人らしい男がこちらへ歩いてきた。落ち着いた顔つきの、背の高い男だ。
「こちらのエルマは、実家の宿屋で料理をしているそうです。調理補助としてどうかしら」
リオネルがエルマへ視線を向ける。やはり、右頬の傷を見ても表情は変わらなかった。
「かまどは扱えるか」
「は、はい。宿の厨房で毎日」
「豆の下茹では」
「できます」
「根菜の皮むきと刻みは」
「できます」
「肉の下処理は」
「大きな肉は父がしますが、切り分けられたものなら」
「焦げそうな鍋の匂い、油の温度が音で分かるか」
「分かります」
エルマが即答すると、リオネルがわずかに頷いた。
「それなら、火は任せられる」
彼はレティシアへ向き直った。
「調理補助なら、十分に見込みがあります。最初は洗い物と下ごしらえから覚えてもらえばよろしいかと」
「分かりました」
レティシアは頷き、もう一度エルマを見た。
「そういうわけですから、エルマ。あなたを常雇いの調理補助として雇います」
エルマは言葉を理解するのに少し時間がかかった。
「え……」
「不服はあるかしら?」
「ふ、不服など、あるはずがございません!」
エルマは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ありがとうございます、領主様」
「礼は仕事で返してください」
レティシアの声は穏やかだった。
「リオネルの指示をよく聞くこと。厨房は領主館で働く皆を支える場所です。大切な仕事ですわ」
「はい!」
返事をした声が、自分でも驚くほど大きかった。その様子を見たリオネルが、少しだけ口元を緩める。
「明日から来られるか」
「はい。参ります」
「では、朝の鐘が二つ鳴る頃に厨房へ。動きやすい服で来るように」
「はい」
エルマは何度も頷いた。
夢ではない。自分は雇われたのだ。領主館で。常雇いとして。調理補助として。
その後のことは、あまりよく覚えていない。
必要な説明を受け、明日持ってくるものを聞き、帰り道を歩いた。足元がふわふわしている。
門の外へ出たところで、エルマはようやく右頬に手を当てた。
傷は消えていない。幼い頃からそこにあるのだから当然だ。
今日も皆に見られた。それでも、誰も眉をひそめなかった。誰も目を逸らさなかった。誰も、かわいそうにと言わなかった。ただ、何ができるのかを聞かれた。
それだけのことが、エルマには信じられないほど嬉しかった。
実家の宿屋へ戻れば、採用されたと父と母に伝えなければならない。明日から領主館の厨房で働くのだ、と。
だからといって、家計がすぐに楽になるわけではない。宿に客が増えるわけでもない。
それでもエルマは、久しぶりに明日のことが考えられた。




