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第36話 宿屋の娘 エルマ

前回までのあらすじ


清々しいまでのラルフの去り際。

 ヴァレーヌの市街地の外れには、一軒の古びた宿屋がある。


 一階に食堂と厨房、二階に客室がいくつか。表の看板は色あせ、扉の蝶番は開け閉めのたびに小さく軋む。何度も磨かれた床板には古い傷が走り、テーブルの角は削れて丸くなっていた。


 その食堂で、エルマは布巾を手にテーブルを拭いていた。


 朝から何度目か分からない。

 客がいるわけでもないのに、同じ場所を何度も拭いている。何かしていないと落ち着かないからだ。


 人が少なくなったとはいえ、街道をまったく人が通らないわけではない。

 ここは隣国との国境に接した領地だ。行商人や荷馬車が、細々とではあるが今も通る。

 天候が悪ければ宿を取る者もいるし、国境を越える前に一晩休もうとする商人もいる。


 でも、それだけだ。


 かつてはもっと人が通ったと、父はよく言う。

 食堂がいっぱいになり、厨房の火が夜遅くまで落とせなかった頃もあったそうだ。

 酒を頼む声、馬を預ける声、客同士の笑い声が店の中に満ちていた。


 エルマには、その頃の記憶はほとんどない。あるのは客を待つ時間ばかりだ。


 宿泊客が来る以上、食事の用意はしておかなければならない。けれど、終日誰も来ない日もある。


 そんな日は、煮込んだ豆は家族の夕食になる。けれど、多めに焼いた固いパンは、翌日さらに固くなり、少しだけ仕入れた肉は、傷まないよう塩を強くして保存するしかなかった。


 貴重な食材を無駄にしたくはないが、用意しておかなければ客を逃す。宿屋とは、そういう商売だった。

 父と母とエルマ。三人で店を回しているが、家計はいつも苦しい。


 エルマはテーブルを拭く手を止めて、窓の外を見た。


 通りに人影は少ない。朝の支度を終えた近所の女たちが、水桶を抱えて歩いていく。その向こうを、荷を背負った男が一人、足早に通り過ぎていった。


 自分は、もう二十四歳になる。この町では、すでに結婚していてもおかしくない年齢だ。幼い頃に一緒に遊んでいた娘たちの中には、子どもを連れて歩いている者もいる。


 エルマに縁談の話はない。

 宿を継ぐなら、婿を取る必要があるけれど、この寂れた宿に婿入りしたいという男などいるはずがなかった。


 いや。理由は、それだけではない。

 

 エルマは無意識に右頬へ手をやった。そこには、幼い頃に負った火傷の痕がある。

 幼い頃、宿屋の手伝いの最中に、厨房で鍋の湯を浴びたのだ。命は助かった。目も見える。声も出る。手足も動く。けれど右頬には、一生消えない引き攣れた痕が残った。


 鏡を見るたびに、そこだけが自分ではないもののように思える。人と話す時、相手の視線が一瞬だけそこへ向かうのが分かった。


 すぐ目を逸らす者。

 哀れむ者。

 眉をひそめる者。


 子どもの頃は、泣けば母が抱きしめてくれた。だけど、大人になるにつれて、泣くことさえ恥ずかしくなった。


「エルマ」


 厨房から父の声がして、エルマは慌てて手を下ろす。


「なに、父さん」


「新しい領主様の屋敷で、下働きを募集しているらしいぞ」


 父が厨房から顔を出した。手には、朝の仕込みに使っていた木べらを持っている。


「下働き?」


「ああ。給金も出るそうだ」


 エルマは一瞬、胸が跳ねるのを感じた。


「本当? それなら、少しは生活費の足しになるわね」


 言ってから、すぐに声が小さくなる。


「でも、こんな顔じゃ……」


 また右頬に触れてしまう。

 

 父は何か言おうとして、言葉を詰まらせた。厨房の奥にいた母も、悲しそうにこちらを見る。


「無理にとは言わん」


 父はすぐに言った。


「ただ、屋敷の下働きなら、客の前に立つ仕事ばかりではないだろう。厨房や掃除なら、お前にもできるんじゃないかと思ってな」


 言いにくそうな声だった。

 父が自分を傷つけまいとしていることくらい、エルマにも分かる。むしろ、ずっと気を遣わせているのが申し訳なかった。


「……そうね」


 エルマは小さく頷いた。

 このまま宿にいても、収入が増えるわけではない。客が来る日を待ち、来なければ仕込んだものを家族で食べ、また翌日も客を待つ。その繰り返しだ。


 断られるかもしれない。

 笑われるかもしれない。


 それでも、申し込むだけならできるだろう。


「行ってみる」


 エルマが言うと、父と母が同時に顔を上げた。


「本当にいいのか」


「ええ。駄目でもともとだもの」


 そう言って笑おうとしたけれど、うまく笑えたかどうかは自分でも分からなかった。



 ◇



 三日後の早朝。

 エルマが領主館の門前へ着いた時、そこにはすでに大勢の人が集まっていた。


 思わず足が止まる。

 若い男たち。働き盛りの女たち。子を連れた母親。痩せた少年。腰の曲がった老人。


 明らかに力仕事は難しそうな者まで混じっている。それだけ、この町には仕事がないのだ。

 エルマは布で右頬を隠すようにしながら、列の端へ並んだ。


 周りの者たちの交わす言葉が、黙っていても耳に入ってくる。それには期待と不安が入り混じっていた。


「常に雇ってもらえるのは何人だ?」

「給金は本当に出るのか」

「領主様のお屋敷なら、食事も出るかもしれない」

「うちの息子を入れてもらえないだろうか」


 そんな声があちこちから聞こえる。


 エルマは俯いた。

 これだけ人がいるなら、自分など選ばれるはずがない。顔に傷があり、年も若いとは言えず、特別な技術があるわけでもない。


 宿屋の手伝いならしてきた。料理も掃除も洗濯もできる。

 けれど、それだけだ。


 やがて門が開き、領主館の者たちが姿を現した。

 

 先頭に立っていたのは、背筋の伸びた男だった。

 年齢は三十を少し越えたくらいだろうか。身なりは整っているが華美ではない。落ち着いた顔で、集まった者たちを見渡している。

 

 その隣には、無表情の女性が立っていた。

 濃い茶色の髪をきっちりまとめ、視線だけで列の乱れを正せそうな人。

 二人は領主館の偉い人たちなのだろう。


 男が一歩前へ出た。


「静かに」


 よく通る声だった。

 ざわめきが少しずつ収まる。


「本日採用する常雇いは八名だ」


 門前に、小さなどよめきが広がった。


 八名。


 多いと見るべきか、少ないと見るべきか。

 これだけの人数が集まっているのだから、ほとんどの者は選ばれない。


「ただし、それ以外の者についても名簿に名を残す。日雇いの仕事を必要に応じて頼むためだ。そちらは、その日の終わりに賃金を支払う」


 今度は、さっきより大きなどよめきが起きた。


 常雇いになれなくても、仕事をもらえる可能性がある。そのことに、多くの者が顔を上げた。


「働きぶりは記録する。真面目に務めた者には、今後、別の仕事が生じた際に声をかけさせてもらう。――では、ここへ順に並べ。呼ばれるまで列を乱すな」


 淡々と言う男の声は、冷たくはないが甘くもなかった。


 その後、応募者の確認が始まった。

 明らかに幼い子どもや、重い作業に耐えられそうにない老人が常雇いの列から外される。けれど、完全に追い返されるわけではなかった。


「名前だけ控える。今後、軽い作業があれば声をかける場合がある」


 そう告げられた者たちは、不安そうにしながらも、少しだけほっとした顔をした。


 やがて、エルマの番が来る。

 心臓が嫌な音を立てた。顔を上げたくないけれど、俯いたままでは失礼にあたる。

 エルマは恐る恐る顔を上げた。


 こちらを見る男の視線が、一瞬だけエルマの右頬に触れた。

 エルマの身体がこわばる。次に来る反応を知っていたからだ。


 驚き。哀れみ。気まずさ。

 あるいは、不快そうな沈黙。


 しかし、男の表情は何一つ変わらなかった。


「名は」


「エ、エルマにございます」


「今は何をしている」


「実家の宿屋で働いております。料理と掃除を、少し……」


「火の扱いには慣れているか」


「はい。かまどの火なら、毎日見ております」


「包丁は」


「使えます。豆や根菜の下ごしらえ、肉を刻むくらいなら」


「客に出す料理を作ったことは」


「あります。簡単な煮込みや、パン粥、焼いた肉くらいですが……」


「分かった。厨房補助の候補として残れ。後ほど料理長が確認する」


 それだけだった。


 傷については一切触れなかった。同情も、慰めも、嫌悪もない。ただ、何ができるのかを淡々と聞かれただけだ。

 予想外の出来事に、エルマの返事が一拍遅れた。


「は、はい」


 慌てて頭を下げる。

 その横で、女もこちらを見ていた。やはり表情は動かない。


「手を見せて」


「は、はい」


 エルマが両手を差し出すと、女は手のひらと指先を見た。


「水仕事は慣れている?」


「はい」


「その火傷の痕は」


 来た。

 エルマは息を止め、それから声を絞り出した。


「……古いものです。体を動かすのに支障はありません」


「そう」


 たった一言だけそう告げて、女性は淡々と頷いた。


「残って」


 それだけだった。


 エルマは、反射的にまた頭を下げた。


 なぜだろう。

 胸の奥が少し熱くなっていた。

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