第34話 いざ、実食です。
前回までのあらすじ
お前たち、わたくしの美貌にひれ伏せ。
共同穀物庫から戻ったレティシアは、午後からラルフによる引き継ぎを受けた。
人口台帳、税収記録、街道の損傷箇所、橋の修繕申請、冬の備蓄量などなど。
どれも重要な資料ではあるが、ラルフの説明は簡潔で、書類もよく整理されていてわかりやすかった。
家族のもとへ帰りたいという強い意思は、人をここまで有能にするらしい。
〈娘に会いたいパワー〉
〈奥さんは?〉
〈嫁より娘だろ〉
〈そりゃ当然〉
〈でもレティシア様は袋が気になって聞いてない〉
失礼な。
ちゃんと聞いている。
聞いてはいるが、机の端に置かれた小袋が気になっているのは事実だ。
袋の中身は、共同穀物庫で分けてもらった黄色い小麦粉。昨夜、ナイフを弾いた硬いパンの原料だ。
それに別の使い道があるかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなかった。
夕食の支度が始まる少し前。
レティシアは、黄色い小麦粉の入った袋を持って厨房を訪れた。
昨日はまだ物の置き場も定まらず、煤の匂いも強かった厨房が、今はすっかり整頓されている。
煙突は掃除され、調理台も磨かれ、鍋や包丁も使いやすい場所へ移されていた。
クララの指示で、現地の女中たちが無駄なく動く。
無口で無表情だが、クララは仕事が早い。やや説明が短いのが玉に瑕で、あまりに短すぎて説明というより暗号に聞こえるときがある。
〈厨房きれいになってる〉
〈クララ式業務改善〉
〈指示が短い人は仕事が早い〉
〈でも部下は大変〉
レティシアが厨房の中でリオネルを探す。すると彼は調理台の前で、豆と根菜のスープの仕込みをしていた。
レティシアに気づいて手を止める。
「これはお嬢様。厨房に御用でしょうか」
「ええ。夕食とは別に、少し試していただきたい料理があります」
言いながらレティシアは、調理台の上に小袋を置いた。リオネルが袋を開き、指先で粉を確かめる。
「これは、昨夜のパンに使われていた小麦ですね」
「ええ。ヴァレーヌの硬質小麦です」
「この粉で、何を?」
「まずは、水を少しずつ加えてください。パン生地より硬く、しっかり練ります」
「発酵はさせないのですか?」
「させません。膨らませる料理ではありませんので」
その言葉に、リオネルの目がわずかに見開かれる。
「焼かないのですか?」
「茹でます」
「……茹でる」
「はい。硬めに練った生地を少し休ませ、薄く延ばして、細長く切ります。それを湯で茹でるのです」
聞いていた者たちの手が、さりげなく止まった。
粉を水で練る。切る。焼かずに茹でる。
この土地の料理としては、かなり奇妙に聞こえたのだろう。リオネルもしばらく考え込んでいた。
「そのような料理を、どちらでお知りになったのですか?」
当然の疑問である。しかし、まさか前世で食べていたなんて口が裂けても言えない。
レティシアは優雅に微笑んだ。
「遠い異国には、このような料理があると王妃教育で学びました」
リオネルは、はっとしたように姿勢を正した。
レティシアが婚約破棄された令嬢であることを、いまさらながらに思い出す。
王妃になるために受けてきた厳しい王妃教育。今ではそれを生かす機会もないが、それでも彼女は学んだことを無駄にしないよう努力している。
その真摯でひたむきな姿勢に、思わずリオネルは胸を打たれた。
「そうですか……」
その声には素直な感嘆がにじんでいた。
「異国の食文化まで学ばれたのですね。お嬢様の見識の広さには、いつも驚かされます」
やめて。
そんな澄んだ目で見ないで。
レティシアの良心が、胸の奥で小さく悲鳴を上げた。
〈王妃教育ぱねぇ〉
〈異国料理まで網羅してるのか〉
〈歩く生き字引〉
〈レティシア様、博識キャラだった〉
〈リオネルが素直に尊敬してる〉
正確には王妃教育ではなく、前世の食い意地である。
会社とアパートを往復するだけの社畜人生の中で、唯一の楽しみが食べることだった。
そのほとんどはコンビニグルメでしかなかったが、使う暇もなく溜まる一方の貯金を使い、たまに同僚と高級グルメを食べ歩いた記憶を思い出す。
とはいえ、ここで真実を説明するわけにはいかない。レティシアは、平然とした顔で嘯く。
「ええ。王妃となる者は、各地の文化や風習についても学ぶのです。いつなんどき、どこの国から来訪があるか分かりませんでしょう?」
「なるほど……」
リオネルは深く頷いた。
「承知いたしました。お嬢様が学ばれた異国の料理、できる限り再現してみます」
重い。
信頼が重すぎる。
そんな感銘を受けたような顔で見ないでほしい。
しかし、ここまで来たら後には引けない。
「お願いします。昨日のパンより硬くならなければ、ひとまず成功ですわ」
「目標が低いですね」
「昨日のパンが硬すぎたのです。あれでは歯が折れてしまいます」
〈鈍器パンが基準で草〉
〈さりげなくディスってるw〉
〈歯を守りたいだけ〉
〈切実すぎるクリア条件〉
何も間違ったことは言っていない。
歯は大切だ。
リオネルは深めの鉢を用意し、黄色い小麦粉を入れた。そこへ水を少しずつ加えていく。けれど、普通のパン生地のようにはまとまらなかった。
粉はぽろぽろと崩れ、水を吸うのにも時間がかかる。水を増やしすぎると今度はべたつき、少なすぎれば粉のままだ。
「扱いづらい粉ですね」
リオネルが手の感触を確かめながら呟く。
「パン職人が嫌がるのも分かります」
「ええ。確かに、これを焼きたくはありませんね」
昨夜のパンを思い出したのだろう。リオネルの返事は妙に実感がこもっていた。
それでも彼は料理人である。崩れかける生地を指で押し、手のひらでまとめ、何度も折り返すようにして練っていく。
柔らかく膨らむ様子はない。むしろ、粘土か何かのようだ。
〈料理というより工作〉
〈リオネルの腕力が試される〉
〈C4爆薬かな〉
〈鈍器パンの幼体。焼くと成体になる〉
だから、焼かないって。
「これを、本当に食べるのですか?」
「その予定です」
「異国の料理とは、不思議なものですね」
「知識としては知っていましたが、わたくしも実際に作るのは初めてです」
「さようでございますか」
リオネルは驚いたようだったが、すぐに表情を引き締めた。
「では、なおさら丁寧に作らなければなりませんね」
前向きで助かる。
横で見ていたクララが、無表情のまま口を開いた。
「お嬢様。リオネルがやる気を出しています」
「わかるの?」
「顔に出ております」
「リオネルの顔に?」
「はい」
そうか。私にはよくわからないが、将来の伴侶と決めた相手のことなら、やはりわかるものなのか。
俗っぽい言い方をすれば、クララとリオネルは恋人同士だ。いや、すでにプロポーズを済ませているということは、婚約者になるのか。
いつも無口、無表情のクララだが、言われてみればリオネルを見る表情には、わずかに柔らかさがある気がする。
まあ、リオネルの方はもっとわかりやすいが。
〈クララがリオネルの表情読めるの好き〉
〈恋人のことはわかるんだな〉
〈クララ式コミュニケーション〉
やがて生地が一つにまとまると、リオネルはそれを布で包んだ。
「少し休ませます」
「お願いします」
その間に湯を沸かす。味付けは、まず単純なものにした。バター、塩、刻んだ香草、そして硬質チーズ。
濃いソースをかけてしまうと、粉そのものの味が分からなくなる。最初の試作は、できるだけ麺の特徴を確かめるべきだろう。
「まずは、粉の味と食感を見たいのです。味付けは薄めでお願いします」
「承知しました」
リオネルは頷き、小鍋にバターを入れた。
休ませた生地は、先ほどより少し扱いやすくなった。
リオネルは打ち粉を振った調理台に生地を置き、麺棒で延ばし始める。
硬い。
なかなか薄くならない。
けれど、リオネルは力任せに押し潰すのではなく、向きを変え、少しずつ厚みを均一にしていく。
細い麺にするのは、まだ難しい。そこで今回は、幅広の平麺にすることにした。
「このくらいの厚さでよろしいでしょうか」
「はい。最初ですから、切りやすく、茹でても崩れにくい形がよいと思います」
「では、幅を揃えて切ります」
包丁が生地を切っていく。
とん、とん、とん。
黄色い帯のような生地が調理台の上に並んだ。
まだ少し不格好だ。太さも完全には揃っていないが、確かにそれは麺の形をしていた。
〈おお、麺っぽくなった〉
〈フェットチーネ的なやつ?〉
〈初回は平麺か〉
〈パスタマシンなしでこれは大変〉
〈リオネル器用だな〉
パスタマシンが恋しい。
前世なら、ハンドルを回せば均一な厚みに延ばせたはずだ。いや、自宅にあったわけではないけれど、少なくとも存在は知っていた。
もちろん、この世界にはない。でも、いつか作らせたいと思う。
レティシアは心の中の開発予定リストに、そっと「パスタマシン」と書き加えた。
大鍋の湯が沸く。リオネルは切った平麺を、慎重にその中へ入れた。
最初は沈み、やがて、黄色い麺が湯の中でゆらゆらと揺れ始めた。
厨房に小麦の香りがふわりと立ち上る。リオネルが一本だけ取り出し、噛んで確かめた。
「まだ芯が硬いですね」
「もう少しですわね」
しばらくして、もう一度。
「……先ほどより、食べやすくなりました」
「柔らかくしすぎない方がよいと思います。少し歯応えが残るくらいで」
アルデンテ。
そう言いかけて、やめた。
レティシアが黙っている間に、リオネルは麺を湯から引き上げた。
湯気をまとった黄色い平麺が、ざるの上でつやりと光る。それを小鍋へ移し、溶かしたバター、塩、香草と絡め、最後に硬質チーズを薄く削って散らした。
材料は少ない。
豪華な料理でもない。
それなのに、厨房に立ち上る香りは、昨日の硬いパンとはまるで違っていた。
バターの甘い香り。
香草の青い香り。
チーズの塩気。
黄色い平麺はそれらをまとい、皿の上でつややかに光っている。
〈急に飯テロ〉
〈普通にうまそう〉
〈バターとチーズは正義〉
〈香りだけで優勝〉
もうすっかり、あのパンは「鈍器パン」と呼ばれるようになってしまった。もっとも、いまさら否定する気もないが。
最初に口にしたのはリオネルだった。料理人として、安全確認の意味もあるのだろう。
彼は平麺を一口分だけ取り、ゆっくりと噛んだ。
沈黙。
厨房の中の者たちが、固唾を呑んで反応を待つ。
「……これは」
リオネルの表情が明らかに変わった。
続いて、レティシアも一口食べてみる。
硬い。確かに硬いが、不快な硬さではない。昨日のパンのように、歯へ正面から勝負を挑んでくる硬さではなかった。
噛み切れる。けれど、柔らかすぎない。
しっかりした歯応えがあり、噛むほどに小麦の香りが広がっていく。バターとチーズの塩気が、その風味を引き立てていた。
「やはり……」
レティシアが小さく息をつくと、リオネルが真剣な顔で頷いた。
「パンでは欠点だった硬さが、こちらでは食感になっています。粉の香りも、焼いた時より分かりやすい」
「ええ」
「ただ、厚みにばらつきがあります。茹で時間も、もう少し調整が必要です」
さすが料理人である。もう次の課題を考えていた。
続いてオスカーも一口試食し、静かに目を細めた。
「同じ小麦とは思えませんね」
クララは無表情のまま平麺を食べた。
「昨日のパンより歯に優しいです」
「比較対象がそこですの?」
「重要です」
否定はできなかった。
アリスは素直に表情を明るくする。
「おいしいです、お嬢様。これが昨日のパンと同じ小麦だなんて思えません」
厨房の端で様子を見ていた現地の女中たちにも、少量を取り分ける。最初こそ遠慮していたが、彼女たちは一口食べると目を丸くした。
「……硬くない」
「同じ小麦なのに」
小さな声が漏れる。
その反応だけで、レティシアには十分だった。
〈成功!〉
〈鈍器パン、ジョブチェンジ〉
〈クララの評価基準が硬さで草〉
〈子供も好きそう〉
〈いやこれ普通にパスタやん〉
皿の上の黄色い平麺を、レティシアはじっと見つめた。
これは、ただの試作で終わらないかもしれない。まだ、はっきりとした形は見えないが、とても大きな可能性を秘めているように思えた。
もちろん、すぐに何かを始められるわけではない。余剰小麦はほとんどなく、人手も足りない。製粉の手間も、水加減も、厚みも、茹で方も、何もかもこれから確かめる必要がある。
それでも、ひとつだけ分かることがあった。
「これは乾燥させると日持ちします」
レティシアが言うと、リオネルが顔を上げた。
「乾燥、ですか」
「ええ。生地を切ったあと、風通しのよい場所で乾かすのです。食べる時は湯で戻せばいい。そうすれば、粉のまま置いておくのとは違う形で保存できます」
厨房に沈黙が落ちる。それは戸惑いではなく、皆が何かに使えるかもしれないと感じ取ったそれだった。
オスカーが静かに口を開く。
「保存できる料理、ということですか」
「まだ、うまく乾かせるかも分かりません。割れるかもしれませんし、湿気で悪くなるかもしれません。茹で時間も決まっていません」
レティシアは慌てて付け加えた。
「ですから、今すぐどうこうという話ではありませんわ。まずは試してみるだけです」
「承知しました」
リオネルが頷く。
「乾かした時に割れない厚み、戻した時の食感、保存中の変化。そのあたりを確かめればよろしいですね」
「お願いします」
さすがはクララが伴侶に選んだ男である。話が早い。
そして、頼もしい。
レティシアはもう一度、黄色い平麺を口へ運んだ。
昨夜はナイフを弾いた黄色い小麦が、今夜は皿の上でつややかな麺へ姿を変えている。パンとしては二流。けれど、麺としてなら――
「少なくとも、試す価値はありますわね」
〈領地改革の第一歩がパンとかw〉
〈鈍器パン、華麗なる変身〉
〈リオネル責任重大〉
〈乾燥できるなら便利そう〉
〈乾麺はいいな。領外に売れる〉
〈腹減った〉
〈これ絶対伏線〉
黄色い小麦が持つ本来の可能性を、これまでヴァレーヌの誰も知らなかった。
少なくとも、今日までは。




