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第33話 まずは所信表明です。

前回までのあらすじ


鈍器パン。

 ヴァレーヌ領で迎える最初の朝。

 レティシアは、頬を撫でる冷たい空気で目を覚ました。


 昨夜、オスカーたちが窓を板と厚手の布で塞いでくれたものの、応急処置では隙間風まで完全には防げなかったらしい。

 公爵邸の寝室なら、こんな風に朝の冷気が忍び込むことはなかった。それでも、天井から水が落ちてくる部屋よりはましだろう。


 レティシアは寝台から起き上がり、床へ足を下ろした。


 ぎしり。


 昨日と同じく、床板が小さく抗議する。


「……あなたも朝から元気ですわね」


 もちろん、床板から返事はない。代わりにアリスが寝室へ入ってきた。


「お目覚めでございますか、お嬢様」


「ええ。おはようアリス」


 起きてまず気づいたのは、視界を流れるコメントがないことだった。


 このゲームは全年齢対象。CERO A。

 入浴中や着替え中だけでなく、女性の寝室そのものが配信停止区域に指定されているらしい。つまり、レティシアの寝室は【異世界配信】スキルの対象外であるということだ。


 さすがは特定非営利活動法人コンピュータエンターテインメントレーティング機構(長い)である。乙女の寝室は完璧に守られていた。



 レティシアはアリスとアレットに手伝われ、身支度を整え始める。


 この日の衣装は、深い紺色の昼用ドレス。生地も仕立ても上等だが、金糸や宝石による華美な装飾はない。胸元を飾るのも、グランシエール家の紋章を刻んだ銀のブローチだけだ。


 領主としての体面は保つ。けれど、貧しさに喘ぐ領民たちの前で、宝石をじゃらじゃら輝かせるほど空気が読めないつもりもなかった。


「本日は領民へのご挨拶と、その後に村の代表者たちとの面会がございます」


 アリスが髪を整えながら、本日の予定を確認する。


「ええ。その後は、昨日の引き継ぎの続きでしたわね」


「はい。ラルフ様が、朝からすでに執務室で待機なさっております」


「二日間を一刻たりとも無駄にしないおつもりですのね」


 何が何でも王都へ帰るという、強い意志を感じる。



 身支度を終えたレティシアは、鏡の前で一度だけ姿勢を正した。そして寝室の扉を開き、廊下へ足を踏み出す。


 その瞬間、視界の端に表示が浮かんだ。


【寝室から退出しました。プライバシーフィルターを解除します】

【映像および音声の配信を再開します】


 ピロン♪


 妙に軽い音とともに、白い文字が怒濤のように流れ始めた。


〈レティシア様が起きたぜ、ひーはー!〉

〈くそっ、やっぱり寝室内は配信停止か〉

〈CERO Aだからな〉

〈なにが全年齢対象だよ、ふざけんな〉

〈レティシア様、今日もかわええ〉

〈紺のドレス似合いすぎ〉

〈課金するから寝室も見せろ。もちろん風呂もだ〉

〈お前ら朝からいいかげんにしろ〉

〈おまわりさんこいつらです〉


 戻ってきた。昨日までと変わらぬ治安の悪さで、コメントが戻ってきた。


「うるさいですわね。朝から何を騒いでおりますの……」


「何かございましたか?」


 廊下で待っていたクララが、無表情のまま尋ねる。


「いいえ。独り言ですわ」


 配信が再開された途端、レティシアの静かな朝は終わった。




 領主館の前には、領都エーベルの住民たちが集まっていた。

 数はそれほど多くない。商人、職人、役人、農民。老人に連れられた子どもの姿もある。

 新領主を歓迎するためというより、どんな人物が来たのか見定めに来た者が大半なのだろう。


 レティシアが玄関前へ進み出ると、それまで低くざわめいていた人々の声がゆっくりと静まった。

 誰も歓声を上げない。代わりに幾つもの視線が正面から注がれる。その視線には、警戒だけでなく純粋な驚きも混じっていた。


 若い。聞いていた以上に若い。しかも、ただ若いだけではなく、整った顔立ちに乱れのない姿勢、軽く伏せた睫毛の動きひとつにまで上級貴族らしい品がある。


 深い紺色のドレスは控えめな装いのはずなのに、身にまとっている本人があまりにも公爵家の令嬢だった。


 胸元の紋章。

 装飾を抑えた紺色のドレス。

 背後に控える使用人や護衛。


 領民たちは新領主の姿を眺めながら、その一つひとつを確かめているようだった。


 昨日は馬車の窓越しに通り過ぎただけだが、今日は違う。レティシアは彼らの前へ立ち、自分の言葉で話さなければならなかった。


 期待されているわけではない。かといって、完全に無関心でもなかった。

 この新しい領主は、どんな声で話すのか。どれほど立派な約束を並べるのか。そして、その約束を守れないまま、いつこの土地を去っていくのか。


 領民たちが知りたいのは、おそらくそこなのだろう。


〈面接会場みたいな空気感〉

〈新領主を値踏みする領民たち〉

〈ここで一発かませるかどうか〉

〈第一印象の八割は見た目〉

〈なら大丈夫。こんな美少女滅多にいない〉


 あまり美少女、美少女と言わないでほしい。

 この容姿はキャラクターデザイナーがSS級だっただけで、私の功績でもなんでもない。


 自分がレティシアに転生するとわかっていたなら、もう少し親しみやすい容姿にしていただろう。それでなくとも、美人すぎて近寄りがたいと言われているのだ。



 ともあれ、こちらが領主であっても、一方的に相手を選べるわけではないらしい。自分たちが従うに値する領主かどうかを、こちらも見定められているというわけだ。

 それなら、背伸びをして立派な言葉を並べても仕方がない。


 レティシアは集まった人々を見渡し、静かに口を開いた。


「本日よりヴァレーヌを預かることとなりました、レティシア・グランシエールです」


 広場が静まり返る。


「わたくしは、まだこの土地について十分には存じません。そして、何も知らないまま皆様へ立派な約束を並べるつもりもございません」


 若い領主が明るい未来を約束すると思っていたのか、何人かが意外そうに顔を上げた。


「まずは皆様のお話を伺い、この目で土地を確かめます。そのうえで、できることから一つずつ始めてまいりたく存じます」


 一度言葉を切る。


「少なくとも、何も見ないまま逃げ帰るつもりはございません」


 すぐに拍手は起きなかった。しかし、やがて誰かが遠慮がちに手を叩き始める。それにつられるように、次第にまばらな拍手が広がっていった。

 歓迎というより判断保留だろう。けれど、今はそれで十分だった。


〈領民たち、まだ様子見だな〉

〈好感度+1くらい〉

〈まず逃げない宣言から入るのか〉

〈お前たち、わたくしの美貌にひれ伏せ〉

〈急にどうした〉

〈心の声が漏れてるぞ〉

〈漏れてないですわ。漏れてないですわぁ~〉


 漏れていない。断じて漏れていない。


 そう、まずは逃げないことだ。信頼は言葉だけで得られるものではないのだから、これからコツコツと実績を積み上げるしかなかった。




 挨拶を終えたレティシアは、領主館の応接室で三つの村の代表者と面会した。


 三人とも年齢も服装も異なっていたが、共通しているのは、レティシアを見る目に警戒が混じっていることだった。

 さすがに無礼な態度を取る者はいない。それでも、農業など知らない若い令嬢に、何を話せばよいのか測りかねているらしかった。


 レティシアは挨拶を済ませると、すぐに本題へ入った。


「まず、食料事情について教えてください」


 三人は顔を見合わせた後、順番に説明を始めた。


 ヴァレーヌで作られているのは、小麦、大麦、豆、根菜など。平年であれば、領民が食べる分はどうにか確保できる。

 しかし、翌年の種と冬の備蓄を除けば、余剰はほとんど残らない。


 一度でも大きな不作が起これば、領外から食料を買い入れなければならない。さらに若者が領外へ流出したことで、人手が足りずに放置されている畑も増えているという。


 話自体は長くなかった。

 現状は、きわめて単純だったからだ。


「つまり、今すぐ飢える状況ではないけれど、何か一つ問題が起これば、すぐに食料が足りなくなるということですね」


「おっしゃるとおりでございます」


 一人が重々しく頷く。


〈ギリ地産地消〉

〈余剰ゼロな〉

〈輸出どころじゃない〉

〈高齢化による人手不足〉

〈詰んでるけど詰んでない絶妙なライン〉


 小麦を領外へ売るどころか、領民が食べるだけで精いっぱい。それでは、商品として加工しようなどと考える者がいなかったのも当然だろう。


 レティシアは昨夜の食卓を思い出した。


「もう一つ、お尋ねしたいことがございます」


「何でございましょう」


「昨夜、この地のパンをいただきました。それに使われていた、黄色みの強い小麦について教えていただけますか」


 三人は、わずかに目を丸くした。新領主が最初に関心を示したのが、税でも街道でもなく、領民が仕方なく食べている安物の小麦だったからだ。


「あれは、この土地で昔から作られている小麦でございます」


「粒が硬く、粉にするのにも手間がかかります。パンにしても膨らまず、領外では二束三文にしかなりません」


「ただ、乾いた畑でも比較的よく育ちます。収量は多くありませんが、普通の小麦よりは安定しておりますので」


 良い小麦ではないけれど、この土地では他よりましだから育てている。代表者たちの認識は、その程度らしい。


「領民は皆、その小麦を食べているのですか?」


「良い小麦を買う余裕がございませんので」


 返ってきた答えは簡潔だった。


「実物を見せていただけますか」


 レティシアがそう告げると、三人はまた顔を見合わせた。




 面会を終えたレティシアは、ラルフと村の代表者の一人に案内されて、領都の共同穀物庫へ向かった。

 着任翌日から、公爵令嬢が埃っぽい倉庫へ自ら足を運ぶとは思っていなかったのだろう。代表者は何度もレティシアのドレスと、泥の残る道を交互に見ていた。


〈ほんとに行くのかって顔してんな〉

〈深窓の令嬢が穀物庫へ突撃〉

〈現場主義アピール〉

〈その靴大丈夫?〉

〈転んだら誰が責任取るんだ〉


 大丈夫だ、問題ない。こんなこともあろうかと、今日は膝下まである編み上げブーツを履いている。クララが選んだ昼用ドレスも、裾が長すぎずに歩きやすいものだった。


 共同穀物庫は、領主館から歩いてさほど遠くない場所にあった。石造りの低い建物で、内部には麦や豆を詰めた袋が積まれている。


 管理人が黄色い小麦の袋を開けた。


「こちらでございます」


 レティシアは差し出された穀粒を手のひらへ載せた。普通の小麦より硬く、透き通るような黄色みを帯びている。


「粉もございますか?」


「粗く挽いたものでよろしければ」


 別の袋から小さな器へ粉が移される。それは粉というより、細かな粒の塊だった。王都でパンに使われている白い小麦粉とは、見た目も手触りもまるで違う。

 レティシアは指先で粉をつまみ、ゆっくりと落とした。


〈小麦にしてはずいぶん黄色いな〉

〈なんか見たことある〉

〈鈍器パンの素〉

〈これを練ると鈍器ができるんですね、わかります〉

〈わかるな〉



 そこで、レティシアはふと思い出した。

 自分にはアイテムウィンドウがある。昨夜、あの硬いパンと格闘していた時は、歯の安全確保に頭がいっぱいで忘れていた。


 レティシアは黄色い粉を見つめたまま、意識の中でそっと表示を呼び出した。


【ヴァレーヌ硬質小麦粉】


ヴァレーヌ地方で古くから栽培されている硬質小麦を粗く挽いた粉。

粒が硬く、通常の小麦粉に比べて水を吸いにくい。

発酵させても膨らみにくく、一般的なパン作りには不向き。

水を加えて練る加工に適性がある。


〈粉を見つめたまま固まるお嬢様〉

〈何か気づいた?〉

〈この顔はイベントフラグ〉

〈くしゃみ我慢してるんじゃね〉

〈まばたきもしてないぞ〉


 違う。くしゃみなんぞ我慢しとらんわ。


 水を加えて練る加工。

 発酵させても膨らみにくい。

 黄色い粉。

 硬質小麦。


 頭の中に、前世で見た食材の記憶が蘇る。


「……デュラム小麦」


 レティシアは小さく呟いた。


「何かおっしゃいましたか?」


 近くにいたラルフが首を傾げる。


「いいえ、何でもありません」


 適当に返事をしながら、レティシアは考えた。


 前世のデュラム小麦と、まったく同じものかは分からない。けれど、性質はよく似ている。

 パンに向かないからといって、二流品なのではない。パンにしようとするから、欠点ばかりが目立つのだ。


 この粉へ水を加えて練り、薄く延ばして切る。茹でれば、硬さは歯応えに変わるかもしれない。濃い小麦の風味も、黄色い色も、むしろ長所になるはずだ。


〈レティシア様何か言った?〉

〈ぶつぶつ独り言〉

〈何かひらめいたっぽい〉

〈鈍器の作り方〉


 試してみる価値はある。

 ただし、今の時点で領民たちへ別の食べ方を約束するつもりはなかった。失敗すれば、単に小麦粉を無駄にしただけで終わる。


「この粉を、少し分けていただけますか?」


「もちろんでございますが……何になさるので?」


「まだ、何になるかは分かりません」


 レティシアは黄色い粉をもう一度見つめた。


「ですが、パンとは違う使い道を試してみようと思います」


 納得したのかしないのか、不思議そうな顔の管理人が、小袋へ粉を詰めていく。


 これまで二流品と蔑まれ、硬いパンにされるしかなかった黄色い小麦。けれど、食べ方を変えれば、その評価も変わるかもしれない。


 レティシアは、管理人から手渡された黄色い粉の入った袋を、大切そうに受け取った。

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