第32話 夕食をいただきました。
前回までのあらすじ
単身赴任サラリーマンの悲哀。
領主館の確認が一段落したところで、レティシアはラルフに案内されて二階の執務室へ移った。
部屋は決して広くない。窓際に大きな執務机が一つあり、壁際には古びた書棚と鍵の付いた書類棚が並んでいる。
壁紙には湿気の跡が残っていたが、室内はきれいに整えられていた。
「こちらが、ヴァレーヌ領に関する書類一式でございます」
ラルフが書類棚を開く。
出納帳、税収記録、人口台帳、領内の地図、王都へ提出した修繕申請書。それらが次々と机の上へ積み重ねられていった。
レティシアは、その量を見て小さく息を呑む。
「ずいぶんと、きれいにまとめられておりますのね」
「王都へ戻った後に、不備を理由として呼び戻されるのだけは避けたいものですから」
「正直ですわね」
「取り繕っても仕方がございませんので」
〈帰宅への執念がすごい〉
〈引き継ぎ資料だけは完璧〉
〈動機は不純だが仕事は優秀〉
その通りだ。
動機はともかく、こちらとしては非常に助かる。
レティシアは書類の束を開き、まず収入と支出の欄へ目を通した。
農地税、森林利用料、関所収入、わずかな商取引税。
あまりに収入が少ない。一方で支出も徹底して抑えられている。
役人の給金。冬に備えた備蓄。橋や街道の応急修繕。国境警備の負担金。そして魔物や盗賊による被害への補償。
書類をざっと確認した限りでは、不自然に膨らんだ支出も、分かりやすい帳尻合わせも見当たらない。
とはいえ、無駄遣いを削れば黒字になる――という状態ではなかった。すでに、削れるところは削り尽くされている。
「……節約だけでどうにかなる段階は、とうに過ぎておりますのね」
「ご明察でございます」
ラルフは苦笑する。
「街道を直す金がないため、商人が通らなくなる。商人が減って、関所の収入が減る。収入が減るため、街道を直せない。その繰り返しでございます」
人が減り、税収が減る。
道が荒れ、商人が減る。
仕事が減り、さらに若者が出ていく。
万年赤字になるべくしてなった、見事な負の循環である。
〈完全に詰んでるw〉
〈赤字スパイラル〉
〈尻を拭く紙もケチれ。葉っぱがある〉
〈痔になるってw〉
〈痔持ち令嬢〉
〈イヤすぎるw〉
〈お前ら話をちゃんと聞け〉
あえて痔の話題をスルーして、レティシアは書類から顔を上げた。
「見事な赤字続きですわね。新しい事業を始めようとは思わなかったのですか?」
「着任した当初は、いくつか提案いたしました」
廃鉱山の再調査。街道の大規模修繕。森林資源の販路開拓。
しかし、どれも最初にまとまった資金が必要だった。王都へ予算を申請しても、赤字領地へ追加投資する余裕はないと保留され続けたらしい。
「結局、対処療法だけで三年が過ぎました」
ラルフは淡々と告げた。
「私はこの領地を豊かにはできませんでした。ただ、次の年まで持たせることだけは考えていたつもりです」
レティシアはもう一度、書類へ視線を落とした。
ラルフは無能ではない。かといって、領地を変えられるほど有能だったとも言えない。それでも、着服もせず、無茶な徴税もせず、沈みかけた領地を三年もの間沈ませなかった。
壊れかけたものを、壊れかけたまま維持する。少なくとも、その仕事は果たしていたのだろう。
「詳しい確認は、同行した文官たちも交えて明日以降に行いましょう。本日は概要だけで結構です」
「承知いたしました」
ラルフの返事が心なしか明るい。
「ご不明な点がございましたら、二日のうちに何なりとお尋ねください」
「二日のうち、なのですね」
「はい。二日のうちに、でございます」
〈二日を強調するなw〉
〈延長する気ゼロ〉
〈なんなら今すぐ帰りたい〉
〈娘に会いたいんだから許してやれ〉
その必死さには、もう笑うしかなかった。
概要説明を終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「長旅の直後に、お時間を頂戴いたしました」
ラルフが書類を閉じる。
「公爵家のご令嬢のお口に合うかは分かりませんが、夕食をご用意しております。よろしければ、お召し上がりください」
「もちろん、いただきますわ。ご用意いただき、ありがとうございます」
レティシアがにこやかに答えると、ラルフはわずかに目を見開いた。どうやら、もっと不満を言われると思っていたらしい。
館の食堂は、十人も座れば窮屈になりそうな広さだった。
長方形の食卓には、豆と野菜を煮込んだスープ、根菜の煮物、薄く切った塩漬け肉、そして厚切りのパンが並んでいる。
決して豪華ではないが、かといって粗末な食事でもなかった。
皿は丁寧に磨かれ、スープからは湯気が立っている。今のヴァレーヌで用意できるものを、精いっぱい整えてくれたのが見て取れた。
「おいしそうですわね」
レティシアがそう言うと、給仕をしていた現地の女中たちの表情がわずかに緩んだ。新領主がどんな反応をするのか、不安だったらしい。
まずはスープを口へ運ぶ。豆と根菜の素朴な味がする。肉の出汁も効いており、長旅で疲れた身体には染みるような温かさだった。
「おいしいですわ」
「恐れ入ります」
よほど心配だったのだろう。レティシアの言葉に、給仕の女中がほっとしたように頭を下げる。
続いてレティシアはパンへ手を伸ばした。黄色みを帯びた、ずっしりと重そうなそれへナイフを当てて軽く力を入れる。
カツン。
皿の上に、妙に硬質な音が響いた。
食堂が一瞬、静まり返る。
レティシアは何もなかった顔をして、もう一度ナイフへ力を込めた。
カツッ。
……切れない。
〈パンから鳴ってはいけない音がした〉
〈石かな〉
〈いや建材だろ〉
〈床板より丈夫そう〉
〈これで床を補修しようぜ〉
食べ物を粗末にしてはいけません。
レティシアがさらに力を込めると、ようやくパンの端が切れた……ではなく、欠けた。断面は目が詰まり、外側だけでなく中身まで淡い黄色をしている。
見た目からしてすでに鈍器だった。
試しにそのまま口へ運んで、かじってみる。
硬い。
とにかく硬い。
まるでレンガに歯を立てているようだ。本気で歯が負けるかもしれないという、切実な恐怖が走る。
レティシアは無言でパンをスープへ沈めた。
〈戦略的撤退〉
〈コンクリートかな〉
〈鈍器を食べるな〉
〈歯の治療代は領地の予算に計上〉
〈んなもん領地に請求するな〉
鈍器、鈍器ってうるさい。これを日常的に食べているヴァレーヌの人たちに謝れ。
「このパンは、いつもこの硬さなのですか?」
レティシアが尋ねると、ラルフは気まずそうに視線を逸らした。
「この地方で採れる小麦は粒が硬く、パンにしてもあまり膨らみません。そのうえ、燃料を節約するため、数日分をまとめて焼きますので……」
「食べるときは、スープへ浸すのが一般的でございます」
女中が申し訳なさそうに付け加える。
確かにそのようだ。しばらく浸しておくと、ようやくパンがスープを吸って柔らかくなった。
改めて口へ運ぶ。硬ささえどうにかすれば、味自体は悪くない。香ばしく、噛むほどに小麦の風味が口の中へ広がる。
むしろ、一般的な白いパンよりも味は濃いかもしれない。
「リオネル」
「はい」
同席していたリオネルが、すでにパンの断面を観察していた。
「どう思います?」
「焼き方だけの問題ではなさそうです。粉そのものに、かなり強い癖を感じます」
リオネルは小さくちぎったパンを口へ入れ、ゆっくりと噛む。
「粒が硬く、粘りも弱い。この小麦は普通のパンには不向きでしょう。ただ、風味そのものは決して悪くありません」
「やはり、そうですわよね」
レティシアは、黄色い断面をもう一度見つめた。
硬い。
膨らまない。
目が詰まっている。
パンとして評価するなら落第点だ。けれど、この小麦そのものまで価値がないとは思えない。
黄色い粉。
硬い粒。
噛み応えのある食感。
前世の記憶のどこかに何かが引っ掛かっている。でも、その正体までは浮かんでこなかった。
〈レティシア様、考え込んでる〉
〈パンで何か思いついた?〉
〈フラグが立った気がする〉
〈やっぱり建材にするつもりだ〉
何度も言う。食べ物を粗末にするんじゃない。
このパンを焼いた職人に泣いて謝れ。
「やはり、お口に合いませんでしたでしょうか」
ラルフがおそるおそる尋ねる。
「正直にいえば、パンと呼ぶには硬すぎます。けれど、味自体は悪くありません」
レティシアは、スープに浸したパンを持ち上げた。
「そもそも、この小麦はパンに向いていないのかもしれませんわね」
「向いていない……」
「ええ。ですが、パンに向いていないということは、別のものに向いているということでもありますわ」
ラルフも女中たちも、意味が分からないという顔をしている。レティシア自身も、まだ答えにたどり着いてはいなかった。
街道は荒れ放題。領都は寂れ、領主館は雨漏りする。領庫は赤字だし、領民からの期待もほとんどない。
そして、パンは鈍器のように硬かった。
「……前途多難ですわね」
〈大丈夫。パンは裏切らない〉
〈もう裏切られてるだろ〉
〈いや、鈍器としては裏切ってない〉
〈そこかよw〉
レティシアはそれを聞かなかったことにして、再び無言のままパンをスープの底へ沈めた。




