第23話 最後にお礼を言いました。
前回までのあらすじ
社長の家に招かれるとか、恐怖しかありません。
王妃が膝の上に指を重ねて、ゆっくりと視線を落とす。その姿に気遣わしげな視線を向けながら、国王が口を開いた。
「余は、ユリウスに王として足りぬものが多いことを知っていた」
重い告白だった。
「甘さも、弱さも、判断の未熟さもだ。あの子には王太子として学ばねばならぬことが、まだ多く残っている」
レティシアは黙って聞いていた。
「だからこそ、そなたに期待したのだ」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。
「そなたならユリウスを支え、正し、導いてくれる。あの子に足りぬものを補い、隣で王国を支えてくれると、余はそう期待していた」
王妃ジョセフィーヌが言葉を継いだ。
「私も同じでした。あなたならユリウスを支えられる。あの子の傍にいてくれるなら、きっと大丈夫だと……そう思っていたのです」
王妃は、苦しそうに目を伏せる。
「今思えば、それはあなたにあまりにも重い荷を背負わせていたのですね」
レティシアは、手の中で指を握り締めた。
自分は期待されていた。必要とされていたのだ。
それは嘘ではないだろう。しかし同時に、王太子の足りない部分を埋める存在でもある。それが当たり前の未来として組み込まれていた。
十八年。
いまさらながらにその年月が、胸の奥で重みを増していく。
これまでの人生は自分ではなく、国のために費やされてきた。それを思うと気が遠くなりそうだった。
レティシアが瞳を伏せる。
それを見たジョセフィーヌが、ためらうように唇を開いた。
「レティシア嬢。これは、王妃として口にすべきことではないのかもしれません」
その声には諦めが滲んでいた。同時に、わずかな希望に縋るようでもあった。
「そして、あなたが受け入れてくださらないことも分かっています。それでも……一度だけ尋ねさせてください」
部屋の空気が止まる。
「ユリウスとの婚約を、もう一度だけ考え直してはいただけませんか」
レティシアは息を止めた。
そう来るかもしれないと、どこかで思っていた。だから、その言葉に驚きはなかった。だけど、実際に言われてみるとやはり重すぎた。
国王オーギュストが、苦しそうに続ける。
「ユリウスにはそなたが必要なのだ。そなたほど、あの子を支え、導ける者はいない」
そなたが必要だ。
レティシアはその言葉を無言で受け止めた。視界の端ではコメントが流れていく。
〈ダメ元で言ってみた感〉
〈これはつらい〉
〈いまさら無理じゃね〉
〈レティシア様どうする?〉
〈お断りだ〉
レティシアはそれを読まなかった。いや、読めなかった。
ここは誰かの言葉に逃げてはいけない。今だけは、どうしても自分の言葉で答えなければならないと思った。
レティシアは、ゆっくりと頭を下げる。
「王妃殿下。そのお言葉、わたくしには身に余るものでございます」
思ったより穏やかな声が出た。
「ですが、わたくしはもう王太子殿下の隣に立つことはできません」
王妃の表情がかすかに揺れる。しかし彼女は何も言わなかった。
レティシアは続ける。
「嫌いになったからではございません」
それは本当だった。怒りはある。悲しみもある。だけど、単純な好き嫌いだけでこの道を閉ざすのではない。
「信頼が失われたのです」
静かな言葉が応接室に落ちる。
バグを抱えたシステムを騙し騙し運用しても、いずれ決定的な障害を生むだけだ。それなら、早い段階で見切りをつけるべきだろう。そのタイミングが今だったということ。
「婚約とは、家と家との契約であると同時に、共に未来を背負う相手を信じることだと思っております」
レティシアは国王夫妻を見た。
「その未来を、わたくしはもう思い描くことができません」
隣でシモンヌが息を詰める気配がした。ジョルジュは黙っている。
「わたくしは、殿下を支えるつもりでおりました。それが自分の役目だと、使命だと、幼い頃からずっと信じてきたのです。けれど、支えることと背負うことは違うのだと気づきました」
その言葉に、国王の表情が動いた。
「王太子殿下に足りぬものを、すべてわたくしが補う未来であったなら、それは夫婦ではなく補佐役でございます」
部屋が静まり返る。
反論はなかった。できなかったのだろう。
国王オーギュストは、ゆっくりと目を閉じ息を吐いた。
「そうであろうな」
短い言葉だった。一瞬の後、王妃ジョセフィーヌが悲しそうに微笑んだ。
「ええ。とっくに分かっていました。けれど、一度だけ尋ねずにはいられなかったのです」
国王は、もう一度レティシアを見る。
「レティシア嬢、すまなかった。最後までそなたに甘えようとしてしまった。――ただ、最後に一つだけ願わせてもらえるのなら、どうかあの子を恨み切らないでほしい」
立場を忘れて懇願する国王に、レティシアは何も言わずに静かに頭を下げた。
それで、この話は終わった。王妃はそれ以上食い下がろうとしない。国王も重ねて口にすることはなかった。
その分別が、今のレティシアにはとてもありがたかった。
しばらく沈黙が続いた後、それを破るように国王が問いかける。
「ならば、そなたはこれからどうしたい」
レティシアは少しだけ考えた。王太子妃になる未来は消えた。婚約者としての道も終わった。ならば、自分は何を望むのか。
すぐに明確な答えがあるわけではない。ただ、一つだけ分かっていることがあった。
「しばらく、王都を離れたいと考えております」
レティシアは静かに答える。
「どこか静かな土地で、これからの人生について考えたいのです」
王都にいれば、嫌でも噂が耳に入る。王太子のことも、婚約破棄のことも、しばらくは社交界の話題になるだろう。その中心に居続けるのは、今の自分には辛すぎた。
国王が頷き、ゆっくりと言葉を続けた。
「よかろう。約束通り、慰謝料とともにいくつかの領地を用意する」
領地。その言葉に、レティシアは目を伏せる。
「心の傷を癒すために使うもよし。王妃教育のために、これまで諦めてきたものを取り戻すのもよし」
国王の声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
「そなたの好きにするがよい」
好きにする。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。前世でも今世でも、あまり縁のなかった言葉だ。いつでも、どこでも、常に何かのために動いてきた。
締め切りのため。仕様変更のため。王妃教育のため。王太子のため。家のため。王国のため。
思えば、自分のために何かをするということを、久しく考えていなかった。
「ありがたく存じます」
レティシアは静かに答えた。
話はそこで終わるかに思えた。しかし、立ち上がろうとしたレティシアへ国王が最後に尋ねた。
「ユリウスへ、何か伝えたいことはあるか」
再び部屋が静寂に包まれる。レティシアは少しだけ沈黙した。恨み言ならいくらでも言える。
なぜ信じてくれなかったのか。なぜ公衆の面前で罪人扱いしたのか。なぜ自分の十八年を、あんな形で踏みにじったのか。
責める言葉も、怒りもある。でも、最後に残ったのはそれではなかった。
幼い頃から自分の未来だと思っていた相手。その道はもう閉ざされた。だからこそ、最後くらいは綺麗に終わらせたい。
レティシアが穏やかに口を開く。
「では、王太子殿下にこうお伝えください」
ゆっくりと息を吸い、言葉を選ぶ。
「これまで、ありがとうございました、と」
国王夫妻は言葉を失った。ジョルジュもシモンヌも、黙ってレティシアを見る。しかしレティシアは、それ以上言葉を付け足すつもりはなかった。
許す、とは言わない。戻りたい、とも言わない。恨んでいる、とも言わない。
ただ、終わったものへ礼を告げる。それが、レティシアにできる最後の区切りだった。
やがて、国王オーギュストが深く頷いた。
「必ず伝えよう」
「ありがとうございます」
レティシアは礼を取り、国王夫妻へ最後にもう一度深く頭を下げた。それから、父と母とともに応接室を出た。
廊下へ出ると、空気が少しだけ冷えていた。王城の奥へ続く扉が背後で厳かに閉まる。
レティシアは振り返らなかった。
王太子妃になる未来はもうない。けれど、その未来のために積み上げてきた十八年は消えたわけではなかった。
ならば、別の場所で使えばいい。誰かの不足を補うためではなく、自分の人生を選ぶために。
レティシア・グランシエールはゆっくりと前を向き、自身の足でしっかりと歩き出した。
第一部、婚約破棄編はこれで終了です。
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