第16話 庭を散策しました。
前回までのあらすじ
ながらスマホはほどほどに。
食堂ではすでに朝食が準備されていた。
皆それぞれに忙しい。いつもの時間はとっくに過ぎていたので、父も母も兄も食堂にはいなかった。特に父は、昨夜の件の後始末で朝から動いているに違いない。
レティシアが席に着くと、もう一人の専属侍女が柔らかく微笑んだ。
「お嬢様。今朝は温かいスープを多めにご用意しております」
アレットである。
茶色がかった金髪に濃い緑の瞳。ふんわりした雰囲気を持つ、世話好きの侍女だ。お茶、軽食、体調管理に強く、少し天然めいたところがある。
「ありがとう、アレット」
「昨夜はあまりお召し上がりになりませんでしたから、今朝は胃に優しいものをご用意いたしました」
「助かるわ」
「蜂蜜入りの温かいミルクもございます」
「いえ。もう子どもではありませんので――」
「大人にも効能のある、特別な蜂蜜でございますよ」
「そうなのね。けれど――」
「お体に良いですから」
「……えぇ、少しだけいただくわ」
敗北である。
さすがは体調管理担当というべきか。口調は柔らかいが、声音には有無を言わさぬ意思が感じられた。
その横で、クララは無言で給仕している。アレットはにこにことミルクを注ぐ。まるで真逆の二人の対比は見事というほかない。
〈新侍女きた〉
〈ゆるふわ系〉
〈胸の画面占有率が高すぎる〉
〈これはセンシティブ判定〉
〈CERO Aとは〉
〈朝は米派〉
……朝から発情するんじゃない。このすけべ野郎どもが。
出された朝食は、白パン、野菜のスープ、柔らかく煮た鶏肉、果物、そして蜂蜜入りの温かいミルク。
美味しい。美味しいのだが、前世の記憶があると、どうしても別のものが頭をよぎる。
味噌汁。焼き魚。卵焼き。炊きたての白米。
無理だ。分かっている。この国に米はないし、味噌も醤油もない。でも、恋しいものは恋しい。
レティシアは温かいミルクを一口飲んだ。これはこれで美味しいが、余計に味噌汁が恋しくなる。
朝食を終える頃には、少しだけ体が温まっていた。
窓から差し込む光は穏やかで、庭の緑がきらきらと揺れている。よく晴れた朝だった。
「少し庭を歩きます」
「かしこまりました」
今日はクララが付き添うらしい。アレットはお茶の準備と部屋の片づけに戻っていった。
庭へ出ると、朝の空気が肌に触れた。王都の中心、まさに一等地にある公爵邸の庭はよく手入れされている。
花壇、低木、噴水、東屋。すべてが整いすぎて逆に息苦しくなることもあったが、今朝はどこか穏やかに感じた。
こんなふうに、何の予定もなく庭を歩くのはいつぶりだろう。
王立学園へ通っていた頃は、朝から夕方まで勉学、帰れば王妃教育、夜は資料の確認や手紙の返事。休日も社交や王城での予定が入っていたものだ。
のんびり歩く。
ただそれだけのことが、なぜこんなに贅沢に感じるのだろうか。前世でも今世でも、自分はもう少し休む練習をした方がいい。
そう思いながら歩いていると、庭の一角で困った顔をしている男がいた。
庭師のアシルである。
中年の男で、草花の扱いに長けている。普段は土や枝葉を相手にしているせいか、貴族相手でもどこか素朴なところがある。
「アシル」
レティシアが声をかけると、アシルは慌てて帽子を取った。
「お嬢様。おはようございます」
「何か困りごとですか」
「いえ、その……先日植えた花の根付きが悪くて。どうにも葉が落ちてしまいます」
アシルが視線を向けた先には、淡い紫色の花をつけた低木があった。美しいが、たしかに葉の一部がしおれ、全体的に元気がない。
レティシアは何気ない仕草で、その花へアイテムウィンドウを重ねた。
【名称】エスメリア
【分類】低木性花木
【開花期】春
【生育条件】弱酸性土壌/水はけ良好/半日陰
【注意】湿った黒土では根腐れしやすい
【備考】細かな軽石を混ぜた山土を好む。
見えた。
見えてしまった。
なるほど……これは便利だ。便利すぎて、思わず口を滑らせそうである。
「これはエスメリアですわね」
滑った。
アシルが目を丸くする。背後のクララも、無表情ながらわずかに目を見開いた。しかしレティシアは、もう止まれなかった。
「湿った黒土を嫌う花です。水はけのよい軽い山土に植え替えた方がよろしいでしょう。細かな軽石を混ぜると、なお良いはずですわ」
「お、お嬢様は、この花をご存じで……?」
アシルの声には、純粋な驚きがあった。
まずい。非常にまずい。
〈さすがレティシア様〉
〈さすレティ〉
〈花まで分かるのか〉
〈王妃教育すごい〉
さすレティ。また妙な略称が生まれている。公爵令嬢の名を、どこかの妹溺愛系アニメの名前みたいに略さないでほしい。
レティシアは穏やかに微笑んだ。長年の王妃教育で叩き込まれた完璧な笑みだった。
「いやですわ。以前、王妃教育で学んだだけです。もちろん、実物を見るのは初めてですのよ」
「王妃教育とは、そこまで……」
アシルは感嘆したように頭を下げた。
やめてほしい。その純粋な尊敬は。
今の説明は、半分ほど勢いなのだから。
「参考になれば幸いですわ」
「はい。ご助言、ありがとうございます。すぐに植え替えてみます」
アシルが深々と礼をする。レティシアは軽く頷き、少し早足でその場を離れた。
逃げたのではない。けっして。
淑女らしく移動しただけだ。
背後から、クララの静かな声がした。
「レティシア様」
「何かしら」
「王妃教育では、そのような花の名前まで学ぶのですか」
来た。
レティシアは内心で姿勢を正した。
「もちろんですわ。王妃ともなれば、異国の貴人をもてなすこともありますもの。花の名を問われて『分かりません』では通りませんでしょう?」
「さようでございますか」
クララは静かに頷いた。
「さすがでございます」
その声音には、素直な尊敬があった。
痛い。痛すぎる。
純粋な信頼は、時に糾弾よりも刺さる。
レティシアは少しだけ視線を逸らした。
王妃教育。
なんと便利な言葉だろう。前世でいう「仕様です」に近い。説明が面倒な時に、とりあえず場を収める力がある。
ただし乱用すると信用を失う。それもまた「仕様です」と同じだった。
しばらく無言で歩く。
庭の小道に、朝の光が落ちている。葉の隙間から差し込む光は美しく、昨日の大広間の眩しさとはまるで違って見えた。
クララが再び口を開いた。
「お嬢様」
「はい」
「……どうか、お疲れを隠しすぎませぬよう」
レティシアは足を止めた。
クララの表情は変わらない。いつも通り、静かで無表情だ。けれどその声には、隠しようのない気遣いがあった。
「王妃教育で学ばれたものは、決して無駄にはなりません」
胸の奥が、少しだけ詰まる。
きっと王妃にはなれない。
十八年かけて積み上げてきたものは、昨夜、公衆の面前で一方的に壊された。だけど、学んだことまで消えるわけではない。
政治も、礼法も、外交も、神殿との関係も、民の暮らしも。
そして、たぶん花の名前も。……まぁ、それはカンペを見ただけだけど。
〈クララ優しい〉
〈無表情だけど愛がある〉
〈王妃教育、転職に有利〉
〈スキルツリー無駄になってないぞ〉
〈さすクララ〉
転職先。
たしかに、王妃教育スキルを生かせる転職先は必要だ。できれば週休二日でお願いしたい。加えて年末年始と各祝日、夏季と冬季の休暇があれば文句はない。
あと残業は一日二時間までで、月間四十五時間以内を遵守してほしい。
レティシアは、少しだけ笑いそうになった。
物心がついた時から、自分は将来、王妃になるのだと信じて疑わなかった。そのために生まれてきたのだとさえ思っていた。思えば、純粋すぎる幼少時代だ。
それがこれである。
積み上げるのに十八年かかったものが、崩れるのは一瞬だった。しかも自分には一切の落ち度がないにもかかわらず。
どうして笑いたくなったのかは分からない。けれど、自然と笑みがこぼれてくる。
これはあれか。ひょっとして自分は、どこかで安堵しているのだろうか。
王妃という重責から解放され、デスマーチのような毎日から逃れて、ただこうしてのんびりと庭を散策していることに。
けれど、まだ何も終わっていない。いや、始まってさえいない。
数日中には王宮から呼び出しがある。まずはそこが勝負だ。
レティシアは、庭の小道で足を止めた。
朝の光の中、白い花が静かに揺れている。王城の大広間とは違う。ここには貴族たちの視線も、王太子の声もない。その静けさの中で、ようやく認めることができた。
自分は傷ついている。
怒ってもいる。
けれど同時に、安堵もしていた。
でも、その安堵を責める必要はないのかもしれない。
「……ええ。分かっていますわ」
レティシアはクララへ向けて、小さく頷いた。
〈これは覚悟決まった〉
〈王太子、終わったな〉
〈さすレティ〉
さすレティ。
妙な略称だと思う。けれど今だけは、その軽さが少しありがたかった。
「クララ」
「はい」
「王妃教育で学んだことは、無駄にはしません」
声は思いのほか穏やかだった。
「わたくしは王妃にはなれないでしょう。けれど、グランシエール家の娘であることに変わりはありません」
「……はい、お嬢様」
クララの声は静かで短かった。けれど、それだけで十分だった。
レティシアは庭の先を見る。
悪役令嬢として破滅するのか。公爵令嬢として誰かの駒にされるのか。それとも、自分の足で別の道へ踏み出すのか。
答えは、もう決まっていた。
「戻りましょう、クララ」
「はい、お嬢様」
レティシアは踵を返した。
その背筋は、昨日と同じようにまっすぐだった。
けれど昨日とは違う。それは誰かに決められた未来へ向かう背中ではなく、自分で選ぶ未来へ歩き出すための背中だった。




