第14話 聖女候補が見た光。
前回までのあらすじ
〈うんこ〉の破壊力よ……
卒業パーティーという名の断罪会場。そこから神殿へ戻ったミシュリーヌ・ポアレは、まずドレスを脱いだ。
絹とレースをふんだんにあしらった、華やかなドレス。淡い色合いも、胸元の宝石も、ふわりと広がる裾も確かに美しかった。
けれど、これはミシュリーヌのものではない。王太子ユリウスが彼女を卒業パーティーへ連れ出すために用意したものだった。
ミシュリーヌにとって、そのドレスは少し重すぎた。物理的にも気持ち的にも。
農村に生まれ、幼い頃に聖女としての資質を見出されてから、ずっと神殿で育てられてきた。神殿の暮らしは質素倹約が基本で、食事も衣服も慎ましさが美徳とされる。
だからミシュリーヌは、なおさら華やかな衣装に慣れていない。白と淡い灰色を基調にした修道服に袖を通した瞬間、ようやく呼吸が楽になった気がした。
髪飾りも宝石もなく、胸元には神殿の小さな聖印だけ。こちらが本来の自分だ。そう思った途端、膝から力が抜けそうになった。
「ミシュリーヌ」
控えめな声に振り返ると、年若い神官見習いが扉の前に立っていた。
「神官長様がお呼びです」
「……はい」
予想はしていた。けれど、緊張は隠せない。
王城で起きたことは、すでに神殿にも伝わっているのだろう。
王太子が公衆の面前で婚約破棄を宣言し、レティシア・グランシエールを断罪した。その隣に自分が立っていたことも。
ミシュリーヌは両手を胸の前で握り、神官長の部屋へ向かった。
王都神殿に属する者は、皆、女性である。その頂点に立つ神官長セラフィーヌは、聖女候補たちにとっては師であり、時に母のような存在でもあった。
普段は穏やかだが、神殿の規律に関わる時は厳しい。そのセラフィーヌが、机の向こうで静かにミシュリーヌを待っていた。
「座りなさい、ミシュリーヌ」
「はい」
ミシュリーヌが椅子に腰を下ろす。
神官長の表情は厳しいが、怒りに任せているわけではない。むしろ、ひとつひとつ事実を確かめようとしていた。
「疲れているところ悪いけれど、今夜のことを確認しなければなりません」
「……はい」
「単刀直入に尋ねます。まず、王太子殿下から婚姻の申し入れを受けましたか」
ミシュリーヌは目を瞬かせた。
「いいえ」
「還俗について、殿下と話し合いましたか」
「いいえ。そのようなお話は、何も」
「では、レティシア・グランシエール嬢から嫌がらせを受けたと、殿下に訴えたことは」
「ありません」
答えながら、ミシュリーヌの声が少しだけ震えた。
「私はレティシア様に何かをされた覚えはありません。怖い方だと思ったことはありますが、それは……悪意を向けられた、という意味ではなくて」
大広間の中で、レティシアは凛としていた。
背が高く、銀の髪を揺らし、王太子の糾弾にも崩れなかった。
気高く、強く、美しい。その姿は、ミシュリーヌには少し眩しく、少し怖かった。けれど、嫌がらせをされた覚えはない。まして、王太子に助けを求めたことなど一度もなかった。
「殿下に、レティシア嬢を遠ざけてほしいと望みましたか」
「いいえ」
「殿下と結ばれたいと告げましたか」
「いいえ!」
そこだけは、思わず強く否定してしまった。
セラフィーヌは責めない。ただ、静かに頷く。
「分かりました」
「あの、神官長様……殿下は、どうしてあのようなことを……」
「それを確かめる必要があります」
ときに色恋沙汰は人を大胆にする。しかし王太子の婚姻と聖女の還俗は、大胆さだけで突破できるほど簡単なものではない。
ミシュリーヌは十六歳である。
フェルメリア王国における成人は十八歳。そもそも、彼女はまだ結婚できる年齢にも達していない。
さらに、聖女候補は神殿で修業中の身だ。すべての修業を終えた後、正式な聖女として各地の神殿へ配属される。そのために祈りを学び、礼法を学び、人々を導く術を学んでいる最中だ。
王太子が気軽に連れ出し、恋人として扱ってよい存在ではなかった。
「ミシュリーヌ」
「はい」
「あなた自身は、殿下との婚姻を望んでいますか」
「いいえ。望んでおりません」
今度は、はっきりと答えられた。
「私は聖女候補です。いずれ正式な聖女として、神殿に仕えるために育てられてきました。それは、これからも変わりません。還俗も望んでおりません」
「そう」
セラフィーヌは目を伏せる。
「その証言は、後日、正式な場で求められることになるでしょう」
「王城へ行くのですか」
「おそらくは」
ミシュリーヌの指先が冷たくなる。
また王城へ行く。また王太子に会う。そして、レティシアにも会うかもしれない。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「神官長様。私はレティシア様に謝らなければなりません」
「ええ」
セラフィーヌは否定しなかった。
「ですが、それより先に、あなたは見たことを正しく話さなければなりません」
「見たことを……」
「そうです。あなたが知っていることだけを、そのまま」
それから、セラフィーヌは少しだけ問い方を変えた。
「ミシュリーヌ。あなたは、殿下に何度か声をかけましたね」
「はい」
ミシュリーヌは小さく頷いた。
「殿下は、いつも少しお疲れのように見えました。レティシア様とお話しされた後などは、特に……」
言ってから、これは余計だったかもしれないと思った。けれどセラフィーヌは静かに聞いている。
「それで?」
「無理をなさらないでください、と。お疲れなら、少し休まれてはどうかと。そう、お伝えしました」
「笑いかけましたか」
「……はい」
セラフィーヌは、そこでわずかに沈黙した。
ほんの短い沈黙だったけれど、ミシュリーヌはその意味を感じ取ってしまう。
「神官長様……?」
「聖女には、人の心を惹きつける資質があります」
セラフィーヌの声は穏やかだった。
「それは本来、民の声を集め、祈りへ導くための光です。あなたの優しさも、笑顔も、それ自体は罪ではありません」
「では、私が殿下を……?」
「いいえ」
セラフィーヌは首を横に振る。
「あなたが誰かに罪を命じたわけではありません」
ミシュリーヌは少しだけ息を吐いた。けれど、セラフィーヌの言葉はそこで終わらなかった。
「ただし、ミシュリーヌ。あなたは、自分の光がどれほど強いものなのかを知らねばなりません」
「私の光……」
「知っての通り、あなたは希代の聖女と呼ばれています。それは褒め言葉であると同時に、重い責任でもあるのです」
セラフィーヌはそれ以上踏み込まなかった。
王太子がその光に惑わされたのか、あるいはただ自分に都合よく受け取っただけなのか、それはまだここで決めることではない。
ただ、ミシュリーヌの笑顔が王太子の心に何かを残した可能性はあった。強すぎる光は、時に見る者の目を眩ませる。そのことだけを、セラフィーヌは言外に示した。
「ほかに、大広間で気づいたことはありますか」
問われて、ミシュリーヌは唇を引き結んだ。
ずっと心に残っている光がある。言ってよいのか分からない。けれど、隠してはいけない気もした。
「レティシア様が……途中から、違って見えました」
「違って?」
「はい」
ミシュリーヌは膝の上で指を握る。
「最初は、強い方だと思いました。気高くて、少し怖くて……でも、とても傷ついている方だと」
王太子に責められながら、レティシアは背筋を伸ばしていた。その姿は、まるで折れることを拒む銀の刃のようだった。
「けれど、途中で光が変わったのです」
セラフィーヌの眉が、わずかに動いた。
「どのように」
「うまく言えません。聖女様の光とも違いました。大聖女様の光とも……違う気がします」
大聖女。
伝説上の存在ではない。今も各地の神殿を巡り、民に祈りと導きを与えている、すべての聖女が目指すべき到達点である。
老境に差しかかった今なお、その力は衰えを知らない。
ミシュリーヌは、その大聖女を誰よりも慕っていた。そして大聖女もまた、希代の聖女候補と呼ばれるこの少女を、孫娘のように可愛がっていた。
だからこそ、ミシュリーヌには分かる。レティシアに見えた光は、大聖女とも違っていたのだと。
「もっと遠くて、もっと大きくて……神殿の奥で拝んだ創造神様の後光に、少しだけ似ていました」
部屋の空気が止まった。
セラフィーヌは、しばらく何も言わなかった。
創造神。
その名は軽々しく口にしてよいものではない。
ミシュリーヌも、それは分かっていた。だからこそ声が震える。
「もちろん、同じだなどと言うつもりはありません。ただ、私にはそう見えたのです」
「そのことを、他の者に話しましたか」
「いいえ」
「ならば、今は口外してはなりません」
「なぜですか」
「軽々しく扱ってよい話ではないからです」
セラフィーヌの声は静かだった。しかしそこには、これまでにない重みがあった。
「レティシア・グランシエール嬢については、王家だけではなく、神殿としても慎重に見極める必要があります」
「レティシア様は……何者なのでしょう」
「それは、まだ分かりません」
セラフィーヌは正直に答えた。
「ですが、あなたが見たものを、なかったことにはできないのです」
ミシュリーヌはうつむいた。
あの光を見た時、怖いとは思わなかった。むしろ、膝をつきたくなるような、導きを請いたくなるような気持ちになった。
同時に、王太子の隣に立たされていた自分が、ひどく場違いな存在に思えた。
あの方に、謝らなければならない。
そして、できるなら、もう一度会いたい。
その気持ちが、自分でも少し不思議だった。
「王城から正式な呼び出しがあれば、神殿も応じます」
セラフィーヌは言った。
「あなたにも証言してもらうことになるでしょう」
「私に、できるでしょうか」
「できます」
セラフィーヌは、迷わず言った。
「あなたは、見たことをそのまま話せばいい」
「……はい」
ミシュリーヌは小さく頷いた。
見たことを、そのまま。
自分は王太子と結婚するつもりなどないこと。
レティシアに嫌がらせをされた覚えはないこと。
あの場に立ったのは、自分の意思ではなかったこと。
そして、レティシアの中に見えた光のこと。
どれも、逃げずに話さなければならない。
セラフィーヌとの話を終えた後、ミシュリーヌは祈りの間へ向かった。
夜の神殿には静寂が満ちていた。
高い天井の下、創造神の像が淡い灯りに照らされている。白い石で刻まれたその姿は、いつもと変わらず穏やかだった。
ミシュリーヌはその前に膝をつき、手を組む。
祈ることは多すぎた。
自分の力で誰かを惑わせてしまったのなら、どうか制御できるようになりたい。
王太子がなぜあのようなことをしたのか、正しく知りたい。
レティシアに、謝る機会がほしい。
そして。
神像の前で目を閉じても、ミシュリーヌの脳裏にはあの光が差し込んでくる。
聖女の光ではない。
大聖女の光でもない。
もっと遠く、もっと大きく、まるで世界の外側から差し込んだような光。
レティシア・グランシエール。
あの方は、いったい何者なのだろう。




