拉致
グラッとする頭を持ち上げて、母に聞いた。
「ハンカチを持ってきていたのよね。二人は狩猟祭に戻る予定だったの?」
「いいえ、あなたの体調を確認してからよ。そういえば何も言わなかったわ。変ね、いつもなら行きたいと言ってごねそうなのに」
「やはり、何か指示されていたのではないかしら。多分王太后だわ」
母がヒッと息を飲んだ。
「自分から王太后のもとに出かけて行ったと言うの? そんな、そんなこと……」
母が真蒼になった。
「王太后はあの子には何の興味もなかったと思うわ。あの子はまだ子供なのよ」
私に向かって言っても仕方がないのに、必死になってそう言い募る。
私は母を抱きとめた。
猛獣は群れで一番弱いものを狙う。我が家なら一番幼く拙いノエルだ。
そのまま抱き合って、その場に座り込んだ私たちの肩に優しく手を置き、エマが言う。
「悪い方に考えすぎるのは良くありません。間に合うと思って支度をしましょう。先ほどニコラス殿もおっしゃっていたでしょう。まだ何もわからない状態だって」
エマの表情は冷静というのとは違い、柔らかいけど、凄く張りつめてピンと張っている感じだ。
その目に励まされ、じりじりする気持ちを抑えた。母も同じ気分だったようだ。
「そうよ、動けるように支度をしましょう。マリア、休める時間休んで。エマ、短剣を用意してちょうだい。何も無いよりましよ」
「かしこまりました。使いやすいのを見繕ってもらいます」
そう言って、エマが駆けていく。
その後姿を見送りながら、ただ嘆くより行動する方がずっといいと実感した。
「お母さま、きっと大丈夫。王太后の狙いは私です。ノエルは私を捕まえるための囮かもしれない。それなら、せいぜい監禁される程度でしょう」
「嫌だわ。そんな怖いこと言わないで。あなたもノエルも私の娘なのよ」
母の涙を、私は初めて見た。
しばらくして、エマが短剣を二本手に戻って来た。それを一本受け取り刃を抜いてみる。
鋭い刃が引きつった私の顔を映し光っている。
これを自分が使うのだろうか。
でも、大切な人が害されそうなら、それを防ぐためなら、私はこれを使う。
エマの静かなまなざしは、きっとそういうことなのだと思う。
その短剣を胸に抱いて、私は昨夜借りた部屋で仮眠をとった。眠れなかった。
出発準備が整ったと連絡が届き、私たちはまた馬車に乗り込んだ。
ニコラスは兄たちと同じく、武器を満載した馬車を用意しているし、全員が武装している。
キャンプ地までは数十分程度で着いた。
その間にエマから、短剣の隠し場所を教わった。長靴下を留めているガーターに挟んで、太ももの外側に留める。初めは違和感があったが、すぐに慣れた。
「お二人は剣を使い慣れていません。多分相手が油断している時しか使えないでしょう。こちらはもっと実用的です。まずはこれをお使いください」
エマはそう言って、チェーンで腰に吊る香水瓶を渡してくれた。
「この中身は酸です。顔に掛ければかなりの効果があります。お使いになるときは自分にかからないよう注意してください。そして、ゆっくりとかけて差し上げる、くらいの気持ちでお使いください。先端を回して、このバルブを握ると酸が噴出します」
私と母は、その銀細工で飾られた優雅で小さな香水瓶を腰に巻いた。
キャンプ地では居残りの夫人たちがのんびりと雑談をしている。
まだ夕方には少し間があり、帰還しているグループはいないのか、皆うわさ話などで盛り上がっている様子だ。
ニコラスが私たちのところにやってきて、母に話しかける。
「伯爵夫人、周囲の女性たちにノエル嬢のことを聞いてみていただけないでしょうか。なるべく表立たないよう、それとなくお願いします。私はローズ家騎士団の迎えが来ていることを、執事長と騎士団長に連絡がてら、王太后の居場所を探します」
母はうなずき、微笑みらしきものを貼り付けて、女性たちに話しかけに行った。ニコラスは運営にかかわっている者たちに声をかけている。まずは狩りの進み具合を聞いているようだ。
私はクルス家の女性用テント前に馬車を付けて、まずはテント内を調べることにした。
そこにノエルが寄ったかもしれない。
すぐに留守番の使用人が出て来て、今はだれもいないと言う。
テント内に入ってみると、今朝母たちが出たままの状態なのだろう。持ち込んだ品は、ほとんど運びだされている。足元に刺しゅう糸が落ちていた。赤茶色の刺繍糸。
エマが、「座る場所もありませんね。スツールを取ってきます。ここにいてください」と言って馬車に戻る。その後を使用人が手伝おうと追った。
そのすぐ後に、テントの幕が開き、誰かがすっと入ってきた。
「エマ?」
「私です。マリアお嬢様」
そう言ったのはベスだった。
人目をはばかるように、おどおどしながらこっちに走り寄ってきた。
「ノエルはどこ? 一緒ではないの?」
「テントの裏手でお待ちです。裏の出口から出ていただけませんか。こちらです」
そう言って、もう一方の出入り口の方へ向かう。
「ノエルがいるの? なぜテントに入って来ないの?」
「叱られるから、他の方には会いたくないそうです! 急いでいます、お願いです」
あまりに切羽詰まった表情なので、私は立ち上がり、テントの幕を上げて外に顔を出してみた。
「ノエル? どこにいるの?」
すると突然口をふさがれ、担ぎ挙げられた。
その私の口にベスが猿轡を噛ませる。
私を担いだ男はそのまま走り始めた。体が揺れて目が回りそうだ。
近くに止めてあった馬車に放り込まれると、すぐに馬車は走りだした。
ベスが猿轡を外してくれた。
私は頭を振ってからべスの腕をきつく掴んだ。
「これは何? 一体どういうこと?」
「マリアお嬢様、申し訳ございません。ノエル様が捕まっています。マリアお嬢様を何としても連れて来い、そうしないとノエル様を殺すと脅されました」
「いったい誰に? 王太后?」
「えっ? いいえ、アルバン・アクシス様です」
アルバン・アクシス? あの気持ちの悪い王太后の取り巻きの男ね。
そう思い出して、ぞっとした。
あの、男が一体なぜ? 嫌な男だけど、暗殺者のイメージとは結び付かない。それに、王太后は密偵の集団を抱えているはずなのに。
「それはどういうこと? 王太子に会いに行ったのではなかったの?」
「そのはずだったのです。でも王太后様に指示された部屋にいたのは、アルバン・アクシス様と二人の男たちでした」
「ノエルお嬢様が、王太子殿下はどこかと尋ねたら、突然に縛り上げられてしまって。そして、私にマリア様を呼んで来いと」
しばらく下を向いていたが、そのままで言う。
「今日中にマリア様を連れてこなかったら、ノエル様を殺す。別荘からマリア様を連れ出せと言われました。男たちと別荘に向かう途中でお嬢様たちを見かけ、隙を見て呼び出すよう命じられました」
ノエルを囮に私を呼び出す気だった?
「今ノエルはどこ? このキャンプ地内にいるの?」
「いいえ、少し離れたところにある狩猟小屋に押し込められています。アルバン様一人が小屋に残っています」
あんな男と二人きりなんて。さぞ不安だろう。
「マリア様。まことに申し訳ございません。でも、ノエル様を見捨てることなんて、私には出来なかったのです」
涙ぐむベスを、私は冷ややかに見詰めた。
腹立たしかった。
間抜けなノエルが、間抜けなベスが。そしてうかうかと罠に飛び込んだ間抜けな自分が。
密偵でも騎士でもない男二人なら、エマ一人で十分取り押さえられる。赤子の手をひねるより簡単だろう。それはベスもわかっているはずだ。
それをこんな事態にしてしまうなんて。
腹が立ちすぎていた私は、ベスの問いかけに一切答えず、時々冷たい視線を彼女に投げかけた。
馬車は二十分ほど走って止まった。
馬車を降りると、目の前には大きめの狩猟小屋があった。ノエルの監禁場所だろう。
男二人が両側に立ち、私を小屋内に押し込んだ。
エントランスから一つ目の部屋に入ると、そこにノエルがいた。青い顔をして、ソファに座っている。
その顔を見て、まず浮かんだ感情は、驚くことに安堵だった。




