ノエルの失踪
顔を上げると、目の前に兄がいた。鎖帷子が開いたベストの前から見えている。
私はベストのボタンをはめて、それを隠した。そして、ジャケットと家門入りのマントを整えてあげた。兄だけでなく、皆、同じように武装しているのだろう。
兄が何か言おうとするのを、私は遮った。聞きたくなかった。
「これ、お兄さまにも作って差し上げたわ。誰にも貰えないとかわいそうだもの」
そう言ってハンカチを手渡す。
「ありがとう。お前、がんばれよ」
兄が優しい目で私を見る。
クルッと後ろを向き、私はずんずんと馬車に向かった。
今は泣いている場合ではない。それに泣きたくない。
狩猟祭に出場するメンバーが出てすぐ、私たちは別荘を発った。一台の馬車には私とエマ、もう一台には母とノエルとアニタとベス、そして周囲をクルス家の騎士と近衛騎士、マーカス王の騎士たちが囲んでいる。
マーカス王の騎士たちは、既にこの地に既に移り住んでいて、今後は私の領民となる者たちだそうだ。
ニコラスがマーカス様に忠誠心を捧げた者の中から選んだと言う。
出がけにニコラスが私に教えてくれた。
「ここに王太后の手が伸びても、屋敷内には入れませんし、あなた方はここで休んでもらっていると言っておきます。ここから国境までの街道には、人を配置しました。追手が迫っているようなら、知らせが行くようにしています。伝令が現れなければ、何事も起こっていないとお考え下さい。ご無事を祈ります」
そこから二時間ほど走り、一度目の休憩で馬車を降りて体をほぐす。
「だいぶ来たわね。追手が来た様子はないし、うまく運んだようね」
母が言う。
「そうね。これなら成功ね」
母は疲れた顔をしているが、少し笑った。
「きな臭い感じはずっとあったのよね。ブライアン様の言葉は腑に落ちたわ。それにしても怖い女ね」
笑える母は凄い。
「お祖母様のことがそんなに許せなかったのかしら。私には全然わからないわ。お母さまは、わかります?」
母はフルフルと首を振る。
「何でしょうね。でも、理解できない考え方をする人っているのよね。そういう人なのでしょうね」
もう陽は高い。
狩猟大会は昼前からスタートして夕方まで。その後に、後夜祭が続く。
そして翌朝、優勝者の発表が行われる。
そしてそのころには私たちはリース国に戻っていることになる。
「ねえ、ところでノエルはどこにいるの? 姿が見えないわね」
母の問いかけに、私は戸惑った。
「え? ノエルがどうかした?」
「あなたの馬車に乗っているでしょ? どういうことなのか、話を聞きたいって言って、そっちの馬車に移動したわよ」
「来ていないわよ。私もエマも知らないわ」
離れたところを歩いているエマを呼び、ノエルを見かけたか聞いた。
「ノエル嬢は、そちらの馬車ではないのですか?」
エマもきょとんとしている。
それから慌てて、馬車を覗き、騎士たちにノエルの姿を最後に見たのはいつか確認した。
一人の騎士が、ハンカチを手に父の方へ向かうノエルと、後ろに従うベスを見かけていた。
ハンカチを渡しに行ったのだと思ったと言う。
出発前の確認では、母はノエルが私たちのところにいると思っていたし、私たちは母のところにいると思っていたので、両方とも問題なしと答えている。
一体ノエルはどこに?
「まさか、父と一緒にキャンプ地に行ったはずないわよね。さすがに父が咎めるはずだわ」
エマが、「まさか別荘に残っているとか? でもそれならニコラス殿が何とか言ってくるはずです」
母も私も真蒼になった。
そして私は、「戻らなくちゃ」と叫んだ。
事情を御者たちと騎士たちに話し、急いで別荘に取って返す。マーカス様の騎士二人に早駆けで伝えに向かってもらった。
別荘に戻り、ニコラスの非常に緊張した顔を見た途端に、ノエルがここにいないことが分かった。
「ノエル嬢がいないとは、一体どうされたのです。全てがうまく進んでいると思っていたのですが」
「妹が、ノエルが馬車に乗っていなかったのです。私の馬車に乗ると言って、そのままどこかに消えてしまったらしくて。この別荘にもいないのですね。ここから連れ去られた可能性は?」
「見張りを厳重にしてありましたから、別荘内には侵入できなかったでしょう。くまなく探しましたがノエル嬢はいませんでした。それならば、狩猟祭に向かった集団に紛れ込んでいるとしか考えられませんね」
私は母と顔を見合わせてしまった。
理由が全く思い浮かばない……その時、何かが頭の隅に引っ掛かった。
ノエルのハンカチ。
狩猟祭で、誰かにあげるために刺しゅうしたハンカチ。騎士も、ノエルがハンカチを手に、父の方に向かって歩いて行ったと言っていた。
まさか……
「お母さま、ノエルはハンカチに刺しゅうをしていましたよね。誰にあげるつもりか言っていましたか?」
「え、ああ、ハンカチね。ええと、教えてくれなかったけど、赤茶色の髪には何色が合うかって聞かれたわ」
「赤茶色って、まさか王太子殿下?」
そういえば、王太子殿下が素敵だと言っていたことも思い出した。
「まさかあの子、王太子殿下にハンカチを渡したくて、狩猟に向かう馬車にもぐりこんだのかしら」
「そんな馬鹿な」と言った母が目を泳がせる。
そんな馬鹿なことをしそうなノエルなのだ。
私は口元を抑えて唸った。
「キャンプ地に戻ります。とにかくノエルを探さなければ。後の事はそれからよ」
「お待ちください。それなら私たちも付いて行きます。準備時間を少しください。先に騎士たちを伝令に出しましょう」
そう言うと、御者二名を呼び寄せ、「街道に散った者たちを戻らせてくれ。それから、ブライアン殿のローズ公爵家騎士団に、急ぐよう伝えてくれ」と指示した。
それからクルス家と近衛騎士を数人呼び、「狩猟中の彼らに、ノエル嬢が行方不明で、狩猟会場に向かった可能性があると伝えてくれ。マリア嬢と夫人は我々と一緒に後からそちらに向かう」
フラッとした私の肩を、エマが抑えてくれた。
情けなくて涙が出そうだ。皆の尽力を一瞬で壊してしまった。
なんのための苦労だったのだろう。
私は、なぜノエルの様子をもっと気にかけなかったのだろう。後悔が胸を突き上げ、気分が悪くなる。
「マリア嬢、まだ大丈夫。まだ何もわからない。落ち着いて。王太后も、諜報組織も今まで全く動いていません。だから決めてかかってはいけません」
ニコラスが私を宥めるように話しかけてくれる。
私はエマに付き添われ、馬車に戻った。母も一緒だ。ここからは一台で行くことになる。
今頃、狩猟に出た者たちは狩場に散っているだろう。彼らを探すだけでも一苦労だ。
「あの子、とことんわかっていなかったのね。私のせいだわ。なるべく柔らかく伝えようと言葉を控えたから」
母が珍しく打ちひしがれたようにうなだれる。
「このところずっと目を離さないようにしていたから、窮屈だったのかもしれない。気晴らしの散歩だけが楽しみってぼやいていたもの。それもほんの短い時間だったし…...そういえば、ハンカチに刺しゅうを始めたのも散歩に出始めてからだったわね」
エマが、「散歩には誰がついて行ったのですか?」と聞く。
「侍女のベスとクルス家護衛のピックよ。そこにいるわ」と言って、外に立っている騎士の一人を指さす。
「一応、その時の様子をお伺いしてもよろしいですか?」
母に了解を取ってから、エマが騎士を呼び寄せる。
「散歩はいつも同じコースでした。離宮から『薔薇の散歩道』を通り、その後、淑女エリアで休憩をしてから戻ります」
エマがぴくっとした。
「淑女エリアは、あなたは入れませんね」
「はい、外で待つことになります」
「時間はどのくらいでしたか?」
「二十分くらいでしょうか」
「長くありませんか?」
「あー。初めは何かあったのか聞いたのですが、『女性は身じまいに時間がかかるものだ』とおっしゃいまして、それ以降はそんなものだと思っていました」
エマが、「そこで誰かと会っていた可能性はありますね。よくある手です。中、上級編ですけど」と言う。
「まさか、王太后と?」と口にしたら、急にパズルのピースが嵌ったような気がした。
ノエルが王太子に憧れていることを聞き出すのなんて、たやすいことだろう。そして、ハンカチの件を持ち出す。
当日、王太子に紹介するから、手刺繍をしたハンカチを持って会いにいらっしゃいとそそのかす。
王太后がそう話す声が聞こえるような気がした。




