脱出
次の朝早くに目覚め、ベッドの上で伸びをした。
もう朝日がカーテンの隙間から入り込んでいる。良く晴れているようで、外は明るい。
私は起き上がるとすぐに廊下に出てみた。
ドアのすぐ横に、ブライアン様が椅子を置いて座っていた。
「おはようございます。ずっと起きていたのですか?」
私を見て、ブライアン様がすっと部屋に入り、ドアを音もなく閉めた。
「そんな恰好で廊下に顔を出してはいけません」
そう言うなり、抱きしめられてしまった。
顔中にキスが降ってくる。
あまりに突然で驚いたけど、なんだかチャックみたいでかわいらしく思えて、頭を撫でてあげた。
相変わらず彼の髪は柔らかく絹のように指を滑る。そして私の頬に当たる彼の唇はくすぐったい。
「さあ、少し落ち着いて」
そう言った唇がふさがれた。
その内、何だかもっと近づきたくなり、私の体から力が抜け、彼の方にもたれかかった時、急に彼が私を引きはがし、下を向いた。
「ご褒美と罰が一度に降りかかったみたいだ。これはきつい」
私はぼんやりと、これが母の言っていた先に進みたくなるっていうことかしらと考えた。今まで感じたことの無い感覚だった。
「すみません。つい無体なことを。許してください」
「大丈夫です。先日、母からちゃんと教わりました。結婚したらブライアン様が教えてくださるのでしょう?」
ブライアン様は、「失礼します」と言って、唐突に部屋の外に出て行った。
一人取り残された私は寂しかった。
エマがあくびをしながら部屋から出てきたので、今のことを話したら、「うおっ」と変な声を上げた。
「ブライアン様が来たのはわかっていましたが、それは……」
エマは、「困ったな」と言う。
う~ん、としばらく考えた。
「ブライアン様相手なら、別に問題はないけれど、今は駄目でしょう。今は駄目なのに、その会話は駄目です」
「駄目だったの?」
「駄目です」
「まずいことをしてしまったかしら」
そういう私に、「まあ、別にいいでしょう。彼にとってはめったに無い、お預け体験ですから。これも忍耐力の修行ですよ」とエマは笑い出した。
その後、朝食を摂るときの彼は、普通だったので、こっそりエマに「謝ったほうがいい?」と聞いたら、「それも駄目です」と言われてしまった。
食事の後、両親とノエルが私の見舞いにやってきた。
「マリア、体調を崩したと聞いたが、大丈夫か?どんな具合なんだ?」
そう心配げに私に駆け寄った父に、「お見舞い、ありがとうございます。周囲から何か聞かれたりしましたか?」と問いかけた。
「いいや、特には。皆狩猟の準備でドタバタしていて、キャンプ地は大騒ぎだったからね。月桂冠を狙って、どの家も必死になっているよ。馬を走らせたり、狩りの道具の手入れをしたり、獲物を積む馬車の準備をしたり」
それは私たちにとって、誠に都合がよいことだ。
母も、「我が家の騎士たちだって優秀よ。あれを手に入れることができるかもしれないわ。まあ、他の家の奥方たちも同じことを叫んでいたわ。皆、考えることは一緒ね」と言っている。
興奮しているようだ。
そんな雰囲気なら、多少動き回っても目立たないことだろう。
そこにブライアン様がやってきて、挨拶を済ませるとすぐ本題に入った。
「このまま夫人とマリア嬢とノエル嬢は、リース国に帰国していただきます。後のことは私が対応しますので、お任せください」
父と母は、唐突な言葉に驚いた表情になる。そしてブライアン様から、私とエマに視線を移したが、
私たちが黙っているのを見て取ると、ブライアン様に向き直った。
「どういうことですかな?」と言う父の腕を母が抑えた。
「承知しました。離宮やキャンプ地に残っている、クルス家の使用人たちはどうなるのです?」
「今、ダリルとベルが、貴重品を取りに離宮に戻っています。そこの使用人たちは彼らと一緒に後を追います。昨日の夜、馬でここを発ちましたから、今頃は荷を積み終えているかもしれません。多分半日遅れ程度で追いつくと思います」
そして父に向かい、「この国の王太后と王は、あなた方を始末し、マリア嬢をこの国につなぎとめて飼い殺しにしようとしています。今が国家間の問題にせずに逃げられるチャンスです。マリア嬢の体調不良と言う名目で、女性たちには帰国していただきます」
「なぜ?」
驚きにそれ以上の声が出ない様子の父に、ブライアン様が言う。
「祖母君への怨念が強いようですね。マリア嬢に対する暗殺未遂で、穏便に逃げることは無理だと、私が判断しました」
「暗殺未遂……あの湖の件ですか?」
「そうです」
「王太后様に対する暗殺ではなかったのですか?」
「王太后がマリア嬢を狙った暗殺です。王家の別荘地に大掛かりな仕掛けを用意できるのは、王家の息がかかった者だけです」
父が私を見た。目が合い、それからそれが事実だと理解したようだった。
「私は何をすればいいのですか?」
「時間稼ぎのため、私たち男は、そのまま狩猟祭に出ます。そして優勝をもぎ取りましょう。私たちがその場に残れば、マリア嬢たちがリース国に向かっているとは思わないでしょう」
「ああ、そういうことか。エリックは?」
ブライアン様がやっと少しほほ笑んだ。
「今頃、クルス家の騎士や近衛の騎士たちに指示をしているでしょう。彼は有能ですね。それがわかったのも収穫です。キャンプ場の荷と狩猟に出ない騎士を連れて、もうすぐこちらに来ると思いますよ」
それから母に向かった。
「ここからリース国までは、強行軍で一日の距離です。騎士たちの約半数が同行し、国境付近にはローズ公爵家の騎士団と、国の国境警備兵が控えています。国境を越えれば大丈夫です。速度を上げるため馬車は二台用意します。少し荒い旅になりますが、ご辛抱ください」
そうブライアン様が言うと、母は「承知しました」とだけ言った。
ノエルは驚いてきょろきょろとみんなの顔を見ている。
少しして母がブライアン様に聞いた。
「残る皆さまは、大丈夫でしょうか」
「ご心配なく。狩猟祭が終わったら、ご挨拶を済ませてさっさと逃げます。それに国境にいるローズ公爵家の騎士団を呼びましたから人数は十分です。たぶん彼らと道中ですれ違うでしょう」
そこからは動きが一気に加速したようだった。
数台の馬車と騎士たちを率いて兄が到着した。
挨拶を交わす間もなく、使用人たちと荷は、そのままリース国に向けて出発する。
ブライアン様と父たち狩猟祭に出るメンバーは、急いで狩猟服に着替えた。通常の狩り用よりしっかり目に装備を付けている。戦いにも備えられる装備だった。
それから盾や剣や弓矢を馬車に運び込み始めた。ニコラスが用意してくれた武器は、狩猟に使う倍以上の量がある。
そして私たち三人は、寝込む私に母とノエルが付き添う様子を周囲に見せるため、ぎりぎりまでここに残る。
王太后の密偵がそれを見届け、報告に発った後に出発する手はずだ。
そうでないと、すぐに追手が掛かってしまう。そうなれば最悪の結果になるかもしれない。
ニコラスは私たち用に馬車を二台用意し、目立たない場所に待機させている。
御者が、二人ずつ付いてくれる。もしかしたらニコラスの密偵かもしれない。
「王太后の手の者が別荘から抜け出しました。多分、報告に向かったのでしょう。さあ、準備をしてください」
そうニコラスに声をかけられ、私はベッドから飛び出した。
それから一番動きやすい軽いドレスに着替え、しっかりと食事を摂った。
父たちは、私たちが出るのと前後して狩猟会場に向かうことになる。
「無事でリース国に帰ってくれよ。お前たちが無事なら、私も無事なんだ」
父がそう言って私たち一人一人を抱きしめた。
最後に母は、父に刺繍入りのハンカチを渡し、抱き付いた。
私はブライアン様の元に向かった。
たぶん私の顔は緊張で引きつっている。
彼は私を安心させるようとほほ笑んで見せた。
「リース国で待っていてください。すぐに戻ります」
私は刺繍したハンカチをブライアン様に手渡した。それからすぐ、彼の前から離れた。泣いてしまいそうで、怖かった。




