ベルシアへー1
マリアを乗せた馬車を見送るブライアンの姿を、一人の令嬢が見ていた。
ついこの間まで、ブライアンの婚約者候補だった、ミラー侯爵家の令嬢カレンだ。
婚約者候補の選択が終わったと、改めて通達があった。
だがマリア・クルス嬢との婚約が仮のため、候補者たちは完全にあきらめたわけではなかった。
この日ミラー侯爵は、婚約が本決まりになるまで待つと、公爵家に申し入れに行っていた。
そのことをブライアンにも伝えるために、王宮まで来たのだ。
カレンも父についてきていた。
最初は憧れだけだった。でも他の令嬢との競争で、頭一つ抜けた頃から、彼との結婚に現実味が出てきた。
ブライアンは礼儀正しく、丁重にカレンを扱ってくれる。そしてとても優しい目でカレンを見る。
最近では、ほとんど自分がブライアンの婚約者になると確信していた。
だから、この突然の事態が飲み込めない。
彼女は拳を握りしめ、ブライアンを見つめている。
彼は無防備にそこに立っていた。
いつもの隙のない姿とは違う⋯⋯
そのことが胸を刺す。
彼はマリア嬢を本気で愛している。
それが、カレンにはわかってしまった。
ブライアンが立ち去ると、カレンはやっと、ハッと息を吐き出した。
侍女のジェシーがそっと袖に触れ、「お嬢様、帰りませんか。侯爵様にも、そうお伝えしましょう」と小さな声で、いたわるように言う。ジェシーにもわかったのだろう。
カレンは惨めだった。
彼にあんな表情をさせる女が憎かった。
手にしていた日傘で地面を叩くと、乾いた土が風に舞う。
悲しさと憎しみを、どこに吐き出したらいいのか分からないでいた。
その時、ガサガサッと音がして、小さな生き物が、何かを引きずって目の前に出てきた。
子犬だ。口にヒラヒラしたドレスのような物をくわえている。それを引きずって、ここまできたようだ。
あの女が面倒を見ている犬。引きずっているのは、たぶんポケットのついたエプロンドレス。宮中で評判になっているあれだ。
――この犬は……この犬も、あの女を求めているの? これをくわえてここまでやってくる程、あの女が恋しいの⁉
気が付いたら、カレンは日傘で子犬を殴ろうとしていた。
ドレスをくわえているからか、子犬は逃げない。
「お嬢様、何を!!」
ジェシーに羽交い締めにされ、護衛もすぐにやってきてカレンの腕を押さえた。
はっと我に返ったカレンが足元を見ると、子犬は怯えて後ずさった。
日傘が当たったらしく、軽く足を引きずっている。
「お嬢様、なんてことを。これはジョエル王子の犬です」
ジェシーが近寄ると、犬は逃げようとしたが、すぐに転んだ。
「⋯⋯帰るわ⋯⋯」と呆然としたまま言ったその声は、凄く平坦な調子だった。
おかしな具合に聞こえると、カレンは自分で思った。
「お嬢様、誰かに見られでもしたら⋯⋯」
ジェシーの顔が青い。
数人の話す声が聞こえてきた。こちらに向かっているようだ。
「この犬をどこかに置いて来て。人目に付かない所へ」
ジェシーが言いながら、子犬を護衛に押し付ける。
くわえているドレスも、一緒に丸めて腕の中に押し込んだ。
護衛は子犬を抱いて、声がするのと反対方向に足早に立ち去った。
「さあ、お嬢様行きましょう。何もなかったのです。忘れるのですよ」
ジェシーが日傘を広げ、カレンに差し出した。
カレンは無表情のままそれを受け取り、ゆっくりと歩き始めた。
途中、忙しげな使用人たちに出会ったが、ごく当たり前の態度で行き違った。
使用人は歩みを留めて道を譲り、カレンは真っ直ぐ歩く。互いに何の印象も残さない。
護衛はジャケットで子犬を隠し、周囲に目を配りながら歩いた。
先ほどの場所と関連付けられないよう、なるべく遠くに。そして見つかりにくい場所を探していた。
裏門の一つを通りかかると、何台かの荷馬車が止まっていた。人気は無い。
護衛は素早くその1台に近付き、荷馬車の下に子犬を置く。
それから周囲を見回し、誰も見ていないことを確認して、違う方向に向かって歩き出した。
その一時間ほど後に、御者数人がやってきた。
「そろそろ出発するか。ゆっくりと進んでも、伯爵様の一行より二日は早く、ベルシアに着けるな」
そう言い合うのは、クルス伯爵家の使用人たちだった。彼らは王宮でマリアの荷を積み込んでいた。ローズ公爵家から贈られた品もあるので、結構な量だ。
馬車はゆっくりと王宮から出ていく。
その荷台の一つに、子犬は乗り込んでいた。
マリアの匂いがする荷台を見つけ、潜り込んだのだった。
エプロンドレスをかき寄せ、その中にうずくまり、足を舐める。
そうするうちに子犬は眠っていた。
◇ 王宮から走り出た馬車の中 ◇
「マリア、顔が赤いぞ。どうかしたか?」
私は慌てた。
腰を浮かし掛け、馬車の揺れに重心がぐらついた。
すぐにエマが支えてくれて、ゆっくりと椅子に座らせてくれた。
「ありがとう」
言いながらエマを見ると、また頭に血が登る。
恥ずかしい。
あの時、ベルは荷物の点検で私から離れていた。エマは遠慮して離れて付いて来ていたのを、すっかり忘れていた。
でも、令嬢は皆、侍女や護衛を連れている。ああいうときは、人払いをするのだろうか。
「何かあったか?」
ブワッと汗が滲む。
「あー、まあいいんじゃないか? ブライアン殿の婚約者なのだから。なあ、マリア」
何となくトゲのある言い方に、眉をしかめた。
「婚約が急だったのは申し訳ないけど、仕方ないじゃない」
ムッツリと言ったが、左手にはめられた指輪を見て、また汗が滲んだ。
「急だからこんなもので代用するしかなくて申し訳ありません。帰国するまでに、もっと似合うものをご用意します」
そう言って、ブライアン様が指にはめてくれた品だ。
横で見ていた公爵夫人が、ムッとした。
「家に代々伝わる品よ。こんな物扱いはないわよ。この子はまったく」
私は慌てて指輪を外した。
「仮なのですから、もっと普通の品に替えてください。公爵家に伝わる品は、まだ頂く資格がありませんわ」
そう言って指輪をお返ししようとしたら、公爵に止められた。
「持っていてくれないか。息子は、婚約者がいるという印を、君にどうしても付けて欲しいらしい。しかもなるべく目立つ物を」
私は腕を伸ばして指輪をしげしげと見た。
繊細な造りの台に青いサファイアがドンと載っている。周囲は金細工とエナメルで飾られた豪華な品だ。
なんだか指が重いような気がする。
兄はそんな私を、しげしげと見ていた。
「ブライアン殿のあんな素の表情、初めて見たな。ズシッと荷を背負わされたような気分だよ。俺が周囲にしっかりと目配りするから、お前も気をつけてくれよ」
「はい」と答えたが、何にどう気をつけたらいいのか、実はわかっていない。
行ってみて、その場で判断するしかない。そういう心もとない状況だ。
前を走る馬車から、ノエルの嬉しそうな笑い声と、ちょっと外れた歌声が聞こえてきた。
兄と私は、なんとなく笑った。
その後はぼんやりと物思いにふけり、そのうち眠気が襲ってきた。
王宮を発って三日目。
いきなりブライアン様が現れた……




