マリアの戦い
「兄たちは王太后とその配下を疑うでしょう。見当違いな捜索をしているかもしれない。だからあなたが頼りよ」
ノエルは笛を胸にしまい、「分かった」と言った。目の怯えが薄らいでいる。
私はノエルを強く抱きしめた。こうしている間に、誰かがここを探し当ててくれないかと願いながら。
でもその願いは叶わなかった。やってきたのはアルバンだった。
「さあ、そろそろお散歩の時間だ。立って、ノエル嬢」
ノエルは立ち上がり、ぎこちなく歩いていく。身体がこわばっているのだろう。
玄関のドアが開く音がし、そしてバタンと閉まった。
ノエルのことは、もう祈るしかない。
ここからは、私の戦いだ。
アルバンが私の方にやってくる。
「マリア嬢、一目見たときからあなたのことが気に入っていた。そう王太后様にずっと言い続けていたのが良かったのだろう。王太后様が、あなたを私にあげようか、と言い出した時には驚いて声が出なかった」
何を勝手なことを言うのかと気分が悪かったが、なるべく表情を隠して聞いた。
「あなたは、なぜそれほど王太后様に気に入られているのですか?」
「私の父が、王太后の愛人だったからさ」
ちょっと驚いて、素の表情になってしまった。
「王太后様の愛人ですか?」
「ああ、長くそうだった。その縁で私も取り立てて貰ったのさ。私と結婚したら、王太后様が面倒を見てくれるだろう。今より、ずっといい生活ができるようになる」
満足そうに言うこの男は、王太后の本心を知らないのか、何も考えていないのだろう。この男が選ばれたのは、私に対する嫌がらせだ。
自分が最低ランクの男として扱われていることに、気が付いていないらしい。
「王太后様は、なぜこんなことを? 私は何かまずいことをしてしまったのでしょうか」
「さあね。何せ気まぐれな方だから。何か気に入らなかったのだろう。たまにあることだ」
「大した理由もなく、相手を陥れるということですか? それでは、貴族の気持ちが王家から離れてしまいませんか?」
私は驚いて聞いてしまったが、アルバンも驚いたような顔つきで私を見る。
「そんなこと、考えたこともないよ。マリア嬢は難しいことを考えるのだね。そんなタイプには見えなかったのだが」
そう言いながらアルバンがにじり寄って来て手を握る。
手を握られて、ゾワッとした。
母が言っていたことを、今やっと理解できた。ブライアン様が手を握っても全然嫌ではなかったのに、この男に触られると、その部分が腐りそうなほど嫌悪感が湧く。
ごくりと唾を飲み込み、「あの、他の男性二人はどこにいるのですか?」と聞いてみた。あの二人が居たら逃げられないだろう。何とかして遠ざけたい。
「あいつらは、外で見張りに立たせておくよ。安心していい」
私がその気になっているとでも思っているのだろうか。流し目で、わかっているとでも言いたげに話す。
「では、寝室に」
そう言って、手を取って私を促す。
寝室に入ると、私はアルバンに背を向け、腰に付けた香水瓶を外しにかかった。
「何をしているの?」
「香水を振ろうかと思って」
「ほう、それはいいね」
震える手でチェーンを外し、香水瓶を両手の中に包み込んだ。これがうまくいかなかったら短剣を使う。なにがなんでもこの状況を覆す。
そう自分に言い聞かせた。
その私の背後にアルバンが立った。
私を振り向かせると、キスしようと肩を引き寄せた。嫌だと思ったとたんに、体が動いた。
アルバンの顔に向け、香水瓶のノズルを向け、バルブを押した。
「うわっ」と叫んで、アルバンがその場に倒れ、顔を抑えて転げまわっている。
うまくいったと思ったけど、こんなに騒いでは外に立つ二人が様子を見に来てしまう。
私は咄嗟に、「嫌です。やめて」と叫んだ。
アルバンは相変わらず、唸りながら転げまわっている。
ベッドからかけ布団を取ってアルバンの上に被せ、その上からシーツで体を巻く。バタバタしているので、その作業は大変だったが、おかげでくぐもった呻き声しか聞こえなくなった。
足がガクガクしていたので床に座り込み、ほっと息をついてからエマに祈りをささげた。
心底、ありがたかった。
しばらくしてやっと立ち上がれたが、ここにいても、助けが来なければ結局どうにもならない。
窓のカーテンの隙間から外を覗くと、その周辺に男たちは見えない。
残念ながら月夜で外は明るいが、森の中に逃げ込めば隠れることはできる。
私は窓をそっと開け、椅子を窓際に置いて、窓枠に立った。
靴が旅行用のヒールの低い物なのに感謝しながら、思い切って窓から外に飛び降りた。
逃げようとしたらスカートを引っ張られた。ぎょっとして振り返ったが、アルバンではない。ドレスの裾が窓枠に引っかかっているようだ。
それを思いっきり引っ張ったら、少し鍵裂きになったけど、やっと自由になれた。
私はそっと壁伝いに歩き、入口のドアがある方を覗いて見た。男二人は、ドアの横で壁にもたれている。
反対側へ逃げようとしたら、二人の話す声が聞こえてきた。
「なあ、お前、事前に何か聞いていたのか」
「何を?」
「さっき、ためらいなく女をやっただろ。そういう指示が、あらかじめあったのかと思ってさ」
「いいや。あのとき初めて聞いたさ。驚いたけど、ここまでやっちまったんだから今更だ」
話し始めた男は、もう1人をこわごわと見る。
「俺達、大丈夫かな? 事情を知る者は始末するって、俺達も同じじゃないのか?」
もう一人が、「えっ」と短く声を発して、話しかけた男の方を向いた。
「これは単純に横恋慕の話じゃなさそうだろ。王太后が絡んでいるような話が出ていたじゃないか。俺はそんな危ない話とは思っていなかったんだ」
「ああ、そういえば……なあ、まさか、俺たちも消されるのか!」
「……だろ? 博打の借金をチャラにして、更に金をたっぷりもらえるなんて、おかしいよな」
「……逃げるか?」
その時、後ろの方からアルバンの声が聞こえた。
「女が逃げたぞ。探せ。捕まえるんだ」
しまった。もっと薬をたくさん掛けて置くべきだった。それより、ちゃんとシーツを縛ればよかったのに!
私は慌てて、横の藪に飛び込んだが、ドレスが雑木の枝に絡まってしまった。
女性のドレスは不便だ。
結局、身動きが取れなくなっている所を、あっさりと三人に捕まってしまった。
アルバンの左側の頬から首筋は赤くなって腫れている。それを押さえていた手も同じだ。
「小屋に戻せ。とにかく朝までここにいさえすれば同じことだ」
アルバンは憎々しげに私を睨んだ。
「大人しそうに見えてなんて女だ。結婚したらしっかり躾けてやる」
誰があなたなんかと結婚するものですか。たとえ醜聞まみれになろうとも願い下げね、と心の中で悪態をついた。
でも口を固く閉じて下を向いていた。ここでそんなことを言っても警戒されるだけだ。
アルバンは私の俯く様を見て、諦めたと思い込んだらしい。
ハハハと笑ってから、「痛い、水を持ってこい」と男の一人に指示して、先に小屋に入っていった。
それを見送ってから、私は腕を掴んでいる男に聞いてみた。
「あなたは生き延びられると思っているの?」
「何だって?」
「王太后は、この悪事を隠したいはずよ。つまりあなたたち二人は邪魔者。明日の朝になる前に、暗殺者が来るわね」
男はギョッとしたように腕を離し、一歩後ずさった。
そして、まるで悪魔を見るかのような表情で私を見る。
そのまま後ろに三歩、それから急に踵を返し、建物の前に停めてある馬に駆け寄る。
私は急いで反対方向に向かって走り、今度はスカートを押さえながら茂みの後ろに座り込んだ。
急に飛び乗られた馬は驚いていななき、ガッと土を蹴立てて走り始めた。
すぐにアルバンともう一人の男が小屋から飛び出して来て、何やら騒いだ後、残されていた馬車で後を追って行った。
私は茂みに隠れたまま、大きく息を吐き出した。助かったのかもしれない。
安心したら、手足が震え始めた。だからちょっとだけ、このまま休憩しようと思った。
膝を抱えて、頭を乗せて目を瞑る。
その時、後ろから羽交い締めにされた。
しまった。油断してはいけなかったのに。
私は何とか逃げようと手を振り回したが、まるで身動きできない。




