3-10 残された時間、偽りなき日常
「レイルー!」
ぼんやりと心の中を整理していると、水の奥まで染み込むような、聞き慣れた声が届いた。
直後、隣でバシャッと水が跳ねる音が響く。
「あ、姉ちゃん!」
「ノアさん、サラさん、こんにちは」
ムウとロロが立ち上がって挨拶したのだろう。目は閉じたままだが、水が岸へ落ちる音と、足音の間でそれが分かる。
すると、またすぐ隣で大きく水が弾けた。さっきよりも、わざとらしい音。
「ロロ、ムウ。二人より俺の方が、脈気の制御うまくなれる」
ガウが胸を張って言う。声の端に、子どもみたいな勝ち誇りが滲んでいた。
俺は、肌に残る水の冷たさと、川の流れの音を一度だけ感じてから、ゆっくり立ち上がる。
「三人とも、話しかけられたからって、そこで辞めるなよ」
そう言った時には、ムウとロロはもう、川辺に立つノアとサラの方へ向かっていた。
「レイル、俺と二人で修行しよう」
ガウが目を輝かせてこちらを見る。
俺はノアに呼ばれているのが分かっていたから、返事に一瞬だけ詰まった。
「レイルー! 早く来てってば」
「そうだよー、はやくー」
ノアとサラの声が、ちょうどいいタイミングで飛んできた。まるで助け舟みたいに。
「ガウ、悪い。呼ばれてるから、また後でな」
そう言って歩き出すと、背後で小さくため息が落ちる。
「……これも修行なのか?」
ぼやきながらも、ガウは結局、俺の後ろをついてきた。
「やっほー、レイル」
サラはやけに明るい声で近づいてきて、軽く俺の肩を叩いた。
「いやー、若いっていいよねぇ」
「若いって……サラも若いだろ?」
見た目はノアとそう変わらない。俺と同じか、せいぜい少し下くらいにしか見えない。
サラは一瞬だけきょとんとした顔をして、それから何かに納得したように小さく笑った。
「あー、そっか。魔族と人間じゃ、見た目の変わり方が違うから分かりにくいよね」
そう言ってから、俺を上から下まで眺める。
「レイルって、二十いくかいかないかくらいでしょ? 私はそれより、もっといってるよ」
軽い口調なのに、不思議と冗談には聞こえなかった。
魔族と人間では容姿の変化に差がある――そう言われて、確かに、と俺は素直に納得してしまう。
「レイル。みんなと修行してたの?」
ノアもこちらに歩み寄ってきて声をかけてきた。
さっきまでノアの周りにいた子供たちは、少し離れた場所でまた何か言い争っている。
「ああ。教えてくれって言われたからさ」
「そっか……今、忙しいよね?」
ノアが遠慮がちに聞いてくる。
正直、修行なんていつでもできる。だから「忙しい」というほどでもない。
「いや、別に。何かあるのか?」
俺がそう言うと、今度はサラが間に割り込む。
「実はねー。レイルの“普段の修行”、見せてほしいんだ」
そう言って、楽しそうに目を細める。
「子供たちとやってるのじゃなくてさ。レイル一人のやつ」
「別にいいけど。……面白くないぞ?」
「いいからいいから」
サラは軽くそう言って、俺の背中を押す。そのまま半ば強引に、森の方へ向かわせた。
「みんなー。レイルはもらっていくからねー。ノア、行こう」
「ごめんね、みんな。ちょっとレイル借りるよ」
サラとノアはそう言って俺を引っ張っていく。
子供たちは聞こえていないのか、相変わらず何かで言い争っていた。
村の屋根が木々に隠れて見えなくなるほど森に入ったところで、二人はようやく足を止める。
「じゃあレイル。修行場所、案内してよ」
サラは勢いよく言った。
その声の明るさが、なぜか少しだけ浮いて聞こえる。
俺は、ずっと引っかかっていたことを口にした。
「……なんで、俺の修行が見たいんだ?」
「なんでって、レイルの脈気が気になるからだよ」
そういえば、サラは脈気の“質”が見えると言っていた。
自然に俺は脈気の質というものが何かをノアに聞いていた。
「サラは脈気の質が見えるって言ってたけどノアが見えるオーラとは違うのか?」
ノアに視線を向けると、少し困ったように笑う。
「私のは、その人の雰囲気とか、これからどうなっていくか……そういうのがぼんやり見えるだけ。サラのとは違うと思う」
サラは一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げた。
「ハッキリ言うね。レイルは、かなり強いの」
さっきまでの軽さが消え、言葉がまっすぐ刺さる。
「……俺が、強い?」
思わず声が漏れた。
自分をそんなふうに考えたことは、一度もない。
ノアやカマイ、みんなに支えてもらって、ようやく立っているだけだ。
「とぼけないで。あなたは本当に強いの。……多分、私の夢を叶えられるくらいに」
「サラの夢って、なんなんだよ」
その瞬間、サラははっとしたように目を見開き、すぐにいつもの調子に戻った。
「まあまあ、それはいいじゃん。とにかく教えて!」
……怪しい。
そう思わずにはいられなかった。
「レイル。サラがここまでお願いしてるんだし、少しくらい見せてあげてもいいんじゃないかな」
ノアがそう言って、俺を見る。
俺は小さく息を吐いて、歩き出した。
「サラ。こっちだ」
昔、力任せに木刀を打ちつけていた、大木のある方へ向かう。
サラにどんな事情があるのかは分からない。
それでも――サラが悪い奴だとは、どうしても思えなかった。
だから俺は、修行を見せることを選んだ。
大木の前に辿り着くと、俺はサラに向き直った。
「ここで俺は、木刀を大木に向かって……握力がなくなるまで、ひたすら打ち続けてたんだ」
大木の幹には、今も樹皮が剥がれた跡が残っている。
あの頃の俺は、脈気が使えない悔しさを、毎日ここに叩きつけていた。
「……脈気の修行じゃないんだね」
サラの声が、ほんの少しだけ沈んだ。
その様子を見て、ノアがそっと俺の耳元に顔を寄せる。
「脈気の修行が見たいみたいだよ。だったら、この間私に見せてくれた……崖登り、やるしかないんじゃない?」
そう言われて、少し迷った。
モノやアスヘルなら簡単にやることだ。説明しても、また同じ反応をされるだけかもしれない。
それでも、ダメ元でサラに聞いてみる。
「脈気のコントロールの修行もあるけど……それ、見るか?」
サラは一瞬だけ期待したような顔をして、それから弱々しく首を振った。
「……もう大丈夫。ありがとうね、修行見せてくれて」
明るく振る舞おうとしているのが、逆に痛いほど伝わってくる。
でも、どうしてそんな顔をするのか――それを聞く勇気が、俺にはなかった。
「こうなったら、いざって時はレイルに守ってもらうしかないね」
サラは軽く笑って、ノアを見る。
「ごめんね、ノア。その時だけは、私もレイルに守られることにするね」
そう言い残して、サラは村の方へ歩き出した。
「ねえサラ! それ、どういう意味?」
ノアが慌てて追いかける。
追いついた瞬間、ノアはそのままサラに飛びつき、二人は地面に転がった。
俺は少し離れた場所から、その光景を静かに見ていた。
――いざとなったら、俺が守らないといけない。
そう思わされるには、十分すぎる言葉だった。
それから、この日を境に、サラは俺の修行に興味を示さなくなった。
その代わり、村の生活に溶け込むようになった。
カマイの店で接客をしたり、モノと酒を飲んだり、ノアと料理をしたり、子供たちと遊んだり。
まるで――余命宣告をされたかのように。
少なくとも、その時の俺には、サラが心からこの村での生活を楽しんでいるように見えた。




