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 とはいえ、このゾロトゥルン美術館への寄り道は今回の旅の予期せぬ贈り物だった。僕たちは全員、ここへ来て良かったと思った。だって、その絵(・・・)に出会えたから。


 〈野イチゴの聖母〉 作者未詳。ライン派とのみ推測される。


 美術館を離れる時間が迫ると、最後にもう一度僕たちはこの絵の前へ集まった。

「何度見てもため息が出る……見入ってしまうわ!」

「なんて清らかで可愛らしい絵……!」

 朝野姉妹が声を揃えて言った。

「この絵について、何でもいい、桑木さんが知ってること全て、教えてちょうだい」

 この時、絵の前で僕は僕個人にとっての一つの謎を再発見した。それこそ、僕の相棒、いつも一番身近にいる城下来海サンに関する〈謎〉だ。

 彼女は今回の旅を僕に決心させたアグレッシブで爆発力のある女性だ。その一方、時としてその存在が僕の幻想ではないかと思うほど搔き消えてしまう瞬間がある。静かになるのだ。フィオナ・マクラウド描く妖精が木の中へ溶け込んでしまうように。――この時がまさにそれだった!――彼女ときたら、一言も言葉を発することなく、光の粒子の中に紛れ込んでいた。

 あの時、あの場で、彼女は何処にいたのだろう? 彼女の姿が見えない。彼女は何処にもいなかった。唯、(まばた)きと吐息の音だけが聞こえる……

 実際は姉妹と一緒に、いや、姉妹よりもずっと僕のそば近く僕が絵について語るのを聞いていたのだが。

「作者は未詳。1425年ころの作品。ライン派とだけ伝わっている。ライン派というのは〈オールドマスターズコレクション〉として(くく)られる18世紀以前に活動していた欧州の優れた無名画家の作品群の、その中の一派のことだ。そのライン派の中でもこの〈野イチゴの聖母〉は至宝だと讃えられている」

 僕は絵を指差しながら解説した。

「マリアは芝生のベンチに座って聖書を読んでいる……開かれたページから『閉ざされた庭』という箇所だとわかる。ふと読むのを中断し、幼子のイエスに白い花を差し出す……」

 即座に苑さん、

「イチゴの花ね?」

「引っかかったな、タイトルのミスリードだ。この白い花はバラさ。(とげ)のない白いバラはマリアの純潔と無原罪を表す。タイトルのイチゴは聖母子の背景――ほら、ずっと奥まったところ――」

 同様に奥まってひそやかな相棒を僕はそっとみつめる。

この小さな赤い点々(・・・・・・・・・)がそれだよ」

 不服そうに頬を膨らませて苑さんが訊いた。

「まぁ! それなら何故、イチゴがタイトルになってるの?」

 陽さんも妹の意見に同意した。

「〈白いバラを差し出す聖母〉とかでもよかったのにね」

「イチゴの実の赤は受難の血の色だから、画家はそれを強調したかったんだろうな。西洋の花言葉ではイチゴは〈未来の予感〉なんだよ」

「そんなぁ、こんなにちっちゃくて可愛い息子に恐ろしい未来の受難を暗示するなんて可哀想! 絵自体は凄く可愛らしいのに……」

「マリア様のお顔もとっても可憐で可愛らしいわよ。幸せに微笑んでいる」

「こうしてみると――」

 僕は周囲を見回して言った。

「美しいものと恐ろしいものが混在している美術館だったな!」

「恐ろしいもの、というより」

 来海さんが静かに言った。

「悲しいもの――だわ」

「そうか、美しいものと悲しいもの……その代表がこの〈野イチゴの聖母〉だね」

 午前10時。僕たちはこの小さな町を去った。

 再びベルンへ。ベルンからチューリッヒまでは1時間17分だ。


 13:00 日本へ向かうチューリッヒ発スイスエアラインズの直行便に乗る。

 翌朝7:50 成田着。国内線に乗り換えて10:45 広島へ帰って来た。

 こまごまとした小さな謎(手紙の絵柄の意味)は解明したものの、むしろ増幅した謎(あるいは闇)を胸の奥に抱えて。




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