2.初めての共闘
灰色の魔獣が、階段の踊り場に立っていた。
全身を覆う皮膚は、濡れた石のように鈍く光っている。人間より一回り大きな身体。長い腕の先には、鋭利な爪が五本ずつ並んでいた。
そして、その顔には目がない。
「……ねぇ、透。」
「ん?」
「これ、会社の備品やったりせんかな?」
「備品やったら総務に連絡しないと」
「そういう冗談、今いらんから!」
「そっちこそな。」
美咲の声が震えていた。
無理もない。
つい数十分前まで、俺たちはいつも通り仕事をしていた。昼食の予定を話し、面倒な書類の処理を押し付け合い、帰りに何を買って帰るか考えていた。
それが今、目の前の化け物に殺されるかもしれない。
手にしているのは、たった今生まれたばかりの武器。
戦い方なんて、知るはずもなかった。
「来んで!」
美咲の声と同時に、魔獣が床を蹴った。
速い!!
階段を三段飛ばしで駆け上がり、一直線に迫ってくる。
「美咲!」
「分かっとる!」
美咲が一歩前に出た。
軽護剣の刀身が淡く光る。
ガァンッ!!
魔獣の爪と剣が衝突した。
「ぐっ……!」
美咲の身体が大きく後ろへ押し込まれる。
それでも、彼女は倒れなかった。
剣の根元から展開した半透明の盾が、魔獣の爪を受け止めている。
「美咲、いけるか!?」
「いけるかどうかじゃなくて、やるしかないやろ!」
そう叫んだ彼女の額には、汗が浮かんでいた。
盾に亀裂が走る。
長くは持たない。
俺は手元の黒い手帳を開いた。
「頼むから、何か使える情報をくれよ……!」
ページに触れる。
すると、文字が浮かび上がった。
『記録対象:魔獣』
『分類:未確認生物』
『身体構造:人型・四肢』
『攻撃手段:爪による近接攻撃』
『特徴:高い筋力と瞬発力』
『弱点:未解析』
「未解析!!?…弱点は分からへんのかよ!」
思わず声が漏れる。
だが、その直後だった。
ページの文字が一瞬だけ揺らいだ。
『行動記録を開始します』
魔獣が美咲の盾を押し込んでいる。
その動きが、妙にゆっくり見えた。
右腕に力を込める。
肩が沈む。
次に、左足を踏み込む。
そして――。
「美咲! 次、右から来る!」
「えっ!?」
直後、魔獣の右腕が大きく振り上げられた。
美咲は反射的に盾を傾ける。
ガキィンッ!!
爪が盾の表面を滑り、階段の壁をえぐった。
「今の、なんで分かったん!?」
「分からへん! でも手帳に動きが出てきた!」
「じゃあ、もっと早よ言って!」
「こっちだって必死やねん!」
言い合いをしている場合ではない。
けれど、ほんの少し落ち着きを取り戻せた気がした。
手帳の記録は、魔獣の動きを追い続けている。
完全ではない。
それでも、次の行動を予測することはできるらしい。
「美咲! そいつ、攻撃の後に一瞬だけ身体が止まるみたいや!」
「一瞬ってどれくらい!?」
「知らん!」
「チャットAIの方がもうちょい役に立つで!!」
「文句は倒してから言え!」
くそっ。
攻撃手段のない手帳を選んだことに後悔する。
魔獣が再び腕を振り上げた。
今度は左。
「左や!」
美咲が盾で受け流す。
魔獣の身体がわずかに傾いた。
「今やで!」
「分かっとる!」
美咲は盾を畳み、剣の形へ戻した。
そして、魔獣の脇腹へ踏み込む。
ザシュッ!
刃が深く食い込んだ。
「ギィィィィッ!!」
耳障りな叫び声。
魔獣が大きく身体をよじり、長い腕で美咲を弾き飛ばそうとする。
「危ない!」
俺は考えるより先に走っていた。
美咲の肩を掴み、無理やり後ろへ引く。
直後、爪が目の前を通り過ぎた。
「透!?」
「今のは……さすがに死ぬかと思ったわ。」
「何やってんの! 危ないでしょ!」
「それは美咲の方や!」
言ってから、自分でも驚いた。
格好つけたつもりはない。
ただ、身体が勝手に動いていた。
美咲は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「……そういうところ、昔から変わらないね。」
「美咲もな。」
魔獣が再びこちらを向いた。
今度こそ、決着をつける。
「美咲、次の攻撃を受け止めてくれ。俺が合図する。」
「分かった。」
俺は手帳を見る。
記録された動きが、ページの上を流れていく。
右腕を振り上げる。
左足を踏み込む。
攻撃後、わずかに重心が崩れる。
「今だ!」
美咲が盾を展開した。
魔獣の爪が盾に激突する。
バキッ!!
盾に大きな亀裂が走った。
だが、その一撃を受け止めたことで、魔獣の身体が前のめりになる。
美咲は剣を畳み、刃を最大まで伸ばした。
「はよ……終わって!!!」
鋭い一閃。
刃が魔獣の胸元を深く切り裂いた。
魔獣は数歩よろめき、膝をつく。
そして、黒い霧となって消えていった。
静寂。
階段に残されたのは、俺たちの荒い呼吸だけだった。
「……倒せた?」
「たぶん。」
「たぶんって何よ……」
美咲はその場に座り込んだ。
俺も壁に背中を預ける。
手が震えていた。
今になって恐怖が押し寄せてくる。
あと少し判断が遅れていたら。
あと少し盾が壊れるのが早かったら。
俺たちは死んでいたかもしれない。
「透、手!」
「え?」
「血が出とる。」
見ると、右手の甲が切れていた。
魔獣の爪がかすめたのだろう。
「これくらい大丈夫やわ。」
「大丈夫ちゃう。あとでちゃんと手当てするで。」
美咲はそう言って、俺の手を軽く握った。
いつもの調子だった。
いつも通り、誰かのことを心配している。
だからこそ、少しだけ安心した。
そのとき。
魔獣が消えた場所に、赤黒い石が転がっていた。
「これが……コアか」
俺が近づこうとした瞬間、手帳が勝手に開いた。
ページが風もないのにめくられていく。
そして、最後のページで止まった。
『記録対象:魔獣』
『討伐確認』
『記録進行度:1』
その下に、新しい文字が浮かび上がる。
『記録者の成長を確認』
「……成長?」
俺が呟いた瞬間、手帳の表紙が淡く光った。
美咲の護剣も、手帳に呼応するように一瞬だけ輝く。
「透、それ……何?」
「分からへん。」
嘘ではなかった。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
魔獣のコアを拾い上げた瞬間。
手帳に、見覚えのない文字が浮かんでいたのだ。
『記録対象:保科 透』
『分類:――――』
『閲覧権限:制限中』
俺は、思わず息を止めた。
自分自身が、記録対象になっている。
しかも、その分類は空白だった。
なぜだ。
俺はただの人間のはずなのに。
手帳を閉じようとした、そのとき。
頭の中に、あの声が響いた。
『第一段階の適応を確認』
『記録者の観測を継続します』
そして最後に。
『――まだ、思い出してはならない』
誰かの声が、確かにそう告げた。
俺は何も答えられなかった。
ただ、手帳を握る手に力が入る。
この世界で何が起きているのか。
俺たちは、まだ何も知らない。
舞台は大阪府。筆者の生まれ故郷です。関西弁で展開される物語ってあんまりないですよね。そんな物語を作ってみたかったんです。




