3、合図
一年が過ぎた。
キーラは近衛騎士見習いとして、ソフィアの居室のすぐ隣に部屋をもらった。
最初のころは、恐れ多くて敬語の一言も間違えられなかった。それがいつからか、夜になるとソフィアの寝台に並んで座り、内緒で焼き菓子を分け合うようになっていた。
「キーラ、キーラ。このお菓子、リーンのお店のなんですよ。おじいさまが送ってくださったんです」
「ソフィアさま。寝る前に召し上がると、また侍女長に叱られます」
「……半分こなら、いいと思います」
「その理屈はどうかと思いますが」
言いながら、キーラは受け取ってしまう。
夜着のソフィアの金髪をすいてやり、他愛のない話をして、灯りを消す。眠るまでの短い時間が、キーラはたまらなく好きだった。
(お姫さま、というより)
(なんだか、妹みたい)
だが、その一年で、キーラは別のことも知った。
ソフィアは毎朝、日が昇る前から神聖術の修練を課されていた。絹のドレスを脱ぎ、ぶかぶかの紺色のローブに着替えて、大人の術士たちに取り囲まれる。六歳の子供が幾度も術を編む。指が震え、唇が白くなっても、誰も止めない。
倒れたところをキーラが抱き起こすと、大人たちはこう言うのだ。
「さすがはトロワール大公閣下の孫姫」
「さすがは金髪紅眼にお生まれになったお方」
(倒れた子供に、拍手をするのか……)
あるとき、キーラはこらえられずに聞いた。
「ソフィアさま。どうして、そこまでなさるのですか?」
ソフィアは寝台の上で膝を抱えた。
「紅い目に生まれただけで、みんな、わたしをとても大事にしてくれます。それはとても、ありがたいことです。でも……」
しばらく黙ってから、小さな声で続けた。
「わたしが間違えると、みんなの顔が変わるんです」
その先を、ソフィアは言わなかった。
言わなくても、キーラにはわかった。
自分の口から出るすべての言葉が、いつも誰かに採点されている。
常に満点を求められている――。
シスレート公爵家は七支族と呼ばれる、ガリウス王家の分家のひとつだ。
ガリウス王国は魔王を倒した勇者ガリウスの建てた国。その子孫、特に紅眼の者は勇者候補として、生まれたときから周囲の大きな期待を背負う。
もし、勇者に選ばれなかったとしても、紅眼に生まれた七支族の娘は、王の妃か側室になることが決まっている。ソフィア自身が選べることなど、なにひとつない。
(ああ)
(だから、この方は言葉を噛むのか)
周囲の期待に応えられないことが、怖いのだ。
「ソフィアさま」
キーラは寝台の脇に膝をついて、視線の高さを合わせた。
「これから、私が額を押さえたら、それは合図です」
「合図……?」
「『大丈夫です』の合図です。噛んでも構いません、という意味です」
ソフィアの真紅の瞳が、まん丸になった。
「……あきれている、のではなくて?」
「あきれてなど、おりません」
ソフィアはうつむいて、それから両手で顔を覆った。
小さな肩が震えていた。
この一年で、キーラがはじめて見た、ソフィアの涙だった。
◇
七支族のひとつ、キャスタル公爵家一行がシスレートを訪れたのは、その年の秋のことだ。
公爵の長女は、ヴァレリアといった。豊かな金髪を背に流し、腰には子供用とは思えないあつらえの剣を下げている。八歳、キーラと同じ年だったが、剣術士ランクは3。ランク2のキーラよりひとつ上だった。
中庭にお茶が用意され、大人たちが席を外した、そのときだった。
「ねえ、ソフィア」
ヴァレリアが菓子をつまみながら言った。
「お父さまが言ってたわ。あんたは目が紅いから、大人になったら王さまのところへ行くんですってね。いいわね。なんにもしなくてもいいんだもの」
ソフィアの手から、菓子が落ちた。
「あたしなんて、どんなに剣の修行をしたって、勇者にもなれない。目が碧いってだけで」
子供の口から出た言葉だった。どこかで大人が言ったことを、そのまま繰り返しているだけの。
だが、それがソフィアの心を傷つける刃だと、キーラは知っていた。
「ヴァレリアさま」
気づいたときには、前に出ていた。
「お言葉が過ぎます」
ヴァレリアの碧眼が、すっとキーラに向いた。
「なによ、あんた。近衛騎士見習いのくせに」
「ソフィアさまに謝ってください……」
「あんたのことも聞いたわ。魔獣ばっかり追いかけてる田舎者。……辺境の騎士の娘でしょう。弱いくせに、生意気ね」
ヴァレリアは椅子を蹴って立ち上がった。
「じゃあ、勝負しなさいよ。あんたが勝ったら、謝ってあげる」




