4、大切な近衛騎士
訓練場に、騎士が二名立ち合った。
木剣。三本勝負。どちらかが倒れた時点で終了。
石段の上で、ソフィアが両手を胸の前で握りしめている。キーラは一度だけそちらを見て、それから木剣を構えた。
(勝てない)
わかっていた。ランクの差は、この場で埋められるようなものではない。
それでも。
(この方のために、退くわけにはいかない)
「はじめっ!」
一本目。ヴァレリアの踏み込みは、キーラの目に映らなかった。脇腹に強い衝撃が走り、息が止まった。
二本目。木剣を合わせた瞬間に手首をひねられ、肘に鋭い痛みが走った。
三本目。乾いた音とともに、キーラの木剣が高く舞い上がり、地面に落ちて跳ねた。
(すみません、ソフィアさま……)
空になった両手を、キーラは呆然と見た。
「ほら見なさい。やっぱり弱いじゃない」
勝負はついている。それでもこの少女は、どうしてもこの銀髪の娘を打ちたかったのだろう。ヴァレリアが木剣を振り上げた。
立ち合いの騎士が「そこまでっ!」と叫んだ。
だが、間に合わなかった。
飛び込んできた白いドレスが、キーラの視界をふさいだ。
鈍い音がした。
小さな身体が、キーラの胸に倒れ込んでくる。
「ソフィアさまっ!」
キーラは悲鳴のような声を上げた。ソフィアの左肩に、木剣がまともに入っていた。
訓練場が凍りついた。立ち合いの騎士が走り寄り、ヴァレリアが木剣を取り落とす。その顔から、血の気が引いていた。
自分がなにをしたのか、わかったのだ。
「……ばっ、馬鹿じゃないの!」
ヴァレリアが叫んだ。
「近衛騎士をかばうなんて! あんた、辺境伯でしょう!? そんなの、そんなの、馬鹿だわ!」
ソフィアはキーラの腕のなかで、ゆっくりと顔を上げた。
左肩を押さえたまま、それでも、まっすぐにヴァレリアを見た。
「キーラは、わたしの“大切な”近衛騎士です」
ヴァレリアは、なにか言おうとして口を開いた。
だが、そのまま黙り込み、走って訓練場から出ていった。
◇
キャスタル公爵一行は、その日のうちにシスレートを発った。
夕暮れの部屋で、キーラは長椅子に座らされていた。
ソフィアの左肩は、とっくに城の神聖術士が治している。だが、見習い騎士の打ち身までは、誰も診ない。
「動かないでください」
「ソフィアさま、私は本当に大丈夫ですので」
「動かないでください」
二度目は、有無を言わせない声だった。
ソフィアの小さな手が、キーラの脇腹にそっと当てられる。
白い光が、ふわりとあふれた。
打たれたところの熱が、すうっと引いていく。重たい痛みが遠のき、息が楽になる。
白い光が消えると同時に、ソフィアが前のめりに崩れた。慌てて抱き留める。
「ソフィアさま!?」
キーラの声が震えた。
神聖術とは、ただ相手の怪我を治す技ではなかった。治癒する対象が受けたダメージを術士が自らの身体に引き取り、自分自身の治癒力を高めて治す。
ソフィアはいま、キーラが受けた打撃を、六歳のその小さな身体で引き受けていた。
「おやめください、ソフィアさま。私は騎士です! 主の代わりに打たれるのが、私の仕事です。これでは逆ですっ!」
「わたしは神聖術士です。毎日、自己治癒力を高める修練をしていますから、これくらいへっちゃらです」
ソフィアは荒い息のまま、それでも笑った。
「っ……!」
こらえきれずに、キーラは膝から崩れ落ちた。
床に手をついて、声を殺して泣いた。
この一年、なにを言われても泣かなかった。泥のなかで笑われても泣かなかった。それなのに、いま、涙が止まらない。
(なんて、なんて方なんだろう)
(私は、ずっと勘違いをしていた)
この城に来るまで、キーラは覚悟をしていた。差別されるのだと。見下されるのだと。だからなにを言われても耐えようと決めていた。
耐える覚悟はしていた。
けれど、こんなふうに大事にされる覚悟だけはしていなかった。
小さな手が、キーラの銀髪をぎこちなくなでる。
「泣かないでください。キーラが泣くと、わたしも泣きたくなります」
「……申し訳、ありません」
「そうだ。お菓子を食べましょう」
ソフィアがぱっと顔を上げた。
「いま、いちばん高いお茶を用意させます。隠しておいた、とっておきの焼き菓子があるんです。キーラ、いっしょに食べましょう」
◇
窓辺の小さな卓を挟んで、ふたりは向かい合った。
夕日が、ソフィアの金髪を蜂蜜色に染めている。着替えたばかりの淡い色のドレスの袖から、細い手首が覗いていた。
焼き菓子は、故郷では一生食べられないような味がした。
「おいしいです」
「でしょう! わたしの、いち……いちば……」
噛んだ。
ソフィアの頬が赤くなる。
キーラは、そっと左手を上げて、自分の額を押さえた。
ソフィアの目がまん丸になって、それから、ふにゃりと笑った。
「もう。キーラは、いじわるです」
「あきれてなど、おりませんので」
笑い声が、夕日の部屋にころころと転がる。
(ああ)
カップを持つソフィアの指先が、細かく震えていた。
紅茶の水面が、小さく波打っている。それでもソフィアは笑って、二枚目の焼き菓子をキーラの皿に載せた。
痛いのだ。いまも、ずっと。
(この方は、きっとこれからも……)
(痛いと言わずに、笑うのだ)
瞳の奥が、また熱くなる。キーラは唇を強くかんで、こらえた。
この城に来た日のことを思い出す。馬車の窓から見えた、ぶどうの段々畑と、いつまでも手を振っていた父と母。
近衛騎士に選ばれたかったのは、あのふたりのためだった。喜んでくれたから。悲しませたくなかったから。
(でも、もう違います。お父さま、お母さま)
泥のなかへ絹の裾を汚して下りてきてくれた人が、いま、震える手で自分に菓子を分けている。この城で誰ひとり、キーラの名前を呼ばなかったときに、名前を呼んでくれた人が。
「キーラ? どうかしましたか?」
「……いえ」
キーラは膝の上で、静かに拳を握った。
(この方を、一生おそばでお守りします)
(たとえ、この先になにがあっても)
誓いは、言葉にしなかった。
言葉にしたら、また泣いてしまいそうだったからだ。
代わりにキーラは背筋を伸ばして、この一年で一番の笑顔を作った。
「ソフィアさま。もう一枚、いただいてもよろしいですか?」
「もちろんです!」
小さな辺境伯が、口のまわりに菓子の粉をつけたまま、幸せそうに笑った。




