外へ出る理由
地下の空間は、さっきまでと何も変わっていないはずだった。湿った空気、脈打つような壁、吸い込まれる音。それらは同じまま存在している。だが少女にとって、そのすべては意味を失っていた。腕の中にあったはずの重みが消えた瞬間から、世界の形が変わってしまった。
少女は立ち尽くしていた。両腕は中途半端な位置で止まり、何かを抱えていた形のまま固まっている。そこにはもう何もない。それでも腕は下ろせない。下ろしたら、本当に何もなくなる気がした。
「……いない」
かすれた声が落ちる。
「……いない」
同じ言葉を繰り返す。
理解が追いつかない。
さっきまで、確かにここにいた。
触れていた。
温度も、重さも、全部あった。
それが、ない。
「……なんで」
喉が詰まる。
呼吸がうまくできない。
胸の奥が、ぎゅっと潰れる。
「……なんでだよ」
膝が崩れる。
その場に座り込む。
視界が揺れる。
何も見えない。
何も考えられない。
ただ、空っぽになった腕だけが、やけに重かった。
「……やだ」
小さく漏れる。
「やだ」
その言葉は弱い。
何も止められない。
何も戻らない。
それでも出てしまう。
「……返せよ」
声が少しだけ強くなる。
「返せ」
床を叩く。
音が鈍く響く。
それだけだ。
何も変わらない。
少女の中で、何かが崩れていく。
恐怖とは違う。
怒りとも違う。
もっと単純で、もっと重いもの。
「……一人」
ぽつりと落ちる。
「……また、か」
その言葉に、自分で気づく。
また。
また、だ。
奪われる。
何も残らない。
逃げても、隠れても、結局は同じ。
その事実が、ゆっくりと染み込んでくる。
少女は顔を上げる。
暗闇が広がっている。
さっきまで、ここは少しだけ違っていた。
隣に誰かがいた。
それだけで、世界の見え方が変わっていた。
それが、消えた。
「……くそ」
低く、吐き出す。
「ふざけんなよ」
手を握る。
爪が食い込む。
痛みが走る。
それでも、足りない。
「……なんでだよ」
声が震える。
「なんで、俺から取んだよ」
答えはない。
わかっている。
あいつらだ。
さっきの、人間。
光を持って、言葉を持って、迷いなく手を伸ばしてきたやつら。
「……あいつら」
名前も知らない。
顔も見えない。
それでも、はっきりしている。
奪ったのは、あいつらだ。
少女の呼吸が、少しずつ変わる。
乱れていたそれが、ゆっくりと整っていく。
代わりに、別のものが広がる。
「……取り返す」
小さく呟く。
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
「……取り返す」
もう一度言う。
その言葉は、逃げるためのものじゃない。
初めての、向かうための言葉だった。
少女はゆっくりと立ち上がる。
足は震えている。
怖い。
外は怖い。
人間は怖い。
見られるのも、触れられるのも、全部嫌だ。
それでも――
「……行く」
言い切る。
「行くしかねぇ」
その瞬間、胸の奥が強く脈打つ。
怖さは消えない。
むしろ強くなる。
でも、それ以上に強いものがある。
ベビーパピニー。
あの小さな手。
自分を掴んで離さなかった感触。
それが、離れた瞬間。
「……あれ、戻す」
声が低くなる。
「絶対」
少女の周囲に、粒が現れる。
今までとは違う。
静かに、しかし確実に集まってくる。
呼吸と連動している。
意思に応じている。
少女はそれを見る。
「……使う」
理解しているわけじゃない。
でも、使える。
そう思った。
「……怖くても」
一歩、踏み出す。
通路の奥へ。
上へと繋がる方向へ。
「……関係ねぇ」
足が止まらない。
「行くって言っただろ」
自分に言い聞かせる。
少女は歩く。
暗闇の中を。
迷わない。
今までとは違う。
逃げるためじゃない。
向かうために進む。
その先に、光がある。
かすかに、上から差し込んでいる。
地上へ繋がる道。
少女はそれを見上げる。
一瞬だけ、足が止まる。
怖い。
あそこに出れば、全部ある。
人も、視線も、あの空も。
全部。
「……でも」
目を閉じる。
一瞬だけ。
そして、開く。
「……行く」
その言葉は、もう揺れなかった。
少女は、初めて自分の意思で外へ向かって歩き出す。
それは逃げではなく、奪い返すための一歩だった。




