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パピニー  作者: 藤苺めぇ


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9/13

外へ出る理由

地下の空間は、さっきまでと何も変わっていないはずだった。湿った空気、脈打つような壁、吸い込まれる音。それらは同じまま存在している。だが少女にとって、そのすべては意味を失っていた。腕の中にあったはずの重みが消えた瞬間から、世界の形が変わってしまった。


少女は立ち尽くしていた。両腕は中途半端な位置で止まり、何かを抱えていた形のまま固まっている。そこにはもう何もない。それでも腕は下ろせない。下ろしたら、本当に何もなくなる気がした。


「……いない」


かすれた声が落ちる。


「……いない」


同じ言葉を繰り返す。


理解が追いつかない。


さっきまで、確かにここにいた。


触れていた。


温度も、重さも、全部あった。


それが、ない。


「……なんで」


喉が詰まる。


呼吸がうまくできない。


胸の奥が、ぎゅっと潰れる。


「……なんでだよ」


膝が崩れる。


その場に座り込む。


視界が揺れる。


何も見えない。


何も考えられない。


ただ、空っぽになった腕だけが、やけに重かった。


「……やだ」


小さく漏れる。


「やだ」


その言葉は弱い。


何も止められない。


何も戻らない。


それでも出てしまう。


「……返せよ」


声が少しだけ強くなる。


「返せ」


床を叩く。


音が鈍く響く。


それだけだ。


何も変わらない。


少女の中で、何かが崩れていく。


恐怖とは違う。


怒りとも違う。


もっと単純で、もっと重いもの。


「……一人」


ぽつりと落ちる。


「……また、か」


その言葉に、自分で気づく。


また。


また、だ。


奪われる。


何も残らない。


逃げても、隠れても、結局は同じ。


その事実が、ゆっくりと染み込んでくる。


少女は顔を上げる。


暗闇が広がっている。


さっきまで、ここは少しだけ違っていた。


隣に誰かがいた。


それだけで、世界の見え方が変わっていた。


それが、消えた。


「……くそ」


低く、吐き出す。


「ふざけんなよ」


手を握る。


爪が食い込む。


痛みが走る。


それでも、足りない。


「……なんでだよ」


声が震える。


「なんで、俺から取んだよ」


答えはない。


わかっている。


あいつらだ。


さっきの、人間。


光を持って、言葉を持って、迷いなく手を伸ばしてきたやつら。


「……あいつら」


名前も知らない。


顔も見えない。


それでも、はっきりしている。


奪ったのは、あいつらだ。


少女の呼吸が、少しずつ変わる。


乱れていたそれが、ゆっくりと整っていく。


代わりに、別のものが広がる。


「……取り返す」


小さく呟く。


自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。


「……取り返す」


もう一度言う。


その言葉は、逃げるためのものじゃない。


初めての、向かうための言葉だった。


少女はゆっくりと立ち上がる。


足は震えている。


怖い。


外は怖い。


人間は怖い。


見られるのも、触れられるのも、全部嫌だ。


それでも――


「……行く」


言い切る。


「行くしかねぇ」


その瞬間、胸の奥が強く脈打つ。


怖さは消えない。


むしろ強くなる。


でも、それ以上に強いものがある。


ベビーパピニー。


あの小さな手。


自分を掴んで離さなかった感触。


それが、離れた瞬間。


「……あれ、戻す」


声が低くなる。


「絶対」


少女の周囲に、粒が現れる。


今までとは違う。


静かに、しかし確実に集まってくる。


呼吸と連動している。


意思に応じている。


少女はそれを見る。


「……使う」


理解しているわけじゃない。


でも、使える。


そう思った。


「……怖くても」


一歩、踏み出す。


通路の奥へ。


上へと繋がる方向へ。


「……関係ねぇ」


足が止まらない。


「行くって言っただろ」


自分に言い聞かせる。


少女は歩く。


暗闇の中を。


迷わない。


今までとは違う。


逃げるためじゃない。


向かうために進む。


その先に、光がある。


かすかに、上から差し込んでいる。


地上へ繋がる道。


少女はそれを見上げる。


一瞬だけ、足が止まる。


怖い。


あそこに出れば、全部ある。


人も、視線も、あの空も。


全部。


「……でも」


目を閉じる。


一瞬だけ。


そして、開く。


「……行く」


その言葉は、もう揺れなかった。


少女は、初めて自分の意思で外へ向かって歩き出す。


それは逃げではなく、奪い返すための一歩だった。

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