引き剥がされるもの
地下の奥は、これまでよりもさらに静かだった。音がないのではない。音が吸い込まれている。水滴の落ちる響きも、足音も、空気の揺れも、すべてが途中で削がれて消えていくような感覚がある。壁面は滑らかに見えて、近づけば微細な凹凸が連なり、触れればわずかに沈む。生き物の内側のような、柔らかさと硬さが同時に存在していた。
少女はその空間の端に身を寄せていた。背中を壁に預け、ベビーパピニーを抱き込むようにして座っている。逃げて、逃げて、ようやく辿り着いた場所だったが、安全だという確信はどこにもない。ただ、今はここにいるしかないと理解しているだけだった。
「……ここ」
小さく呟く。
「まだ、大丈夫か」
答えはない。
ベビーパピニーは少女の胸元に顔を埋めている。小さな体が上下に揺れ、呼吸のようなリズムを刻んでいる。その動きがあるだけで、少女の中の何かがかろうじて保たれていた。
「……離れんなよ」
声は弱いが、はっきりしている。
「絶対、離れんな」
ベビーパピニーの指が、布をぎゅっと握る。
それだけで、少女は少しだけ息を吐く。
そのとき、空気が変わる。
ほんのわずかだった。だが、確実に異物が混ざる。今まで感じてきた“影”とも、“塊”とも違う、もっとはっきりした存在。
人の気配。
少女の体が固まる。
「……いる」
喉が乾く。
「来た」
耳を澄ます。音はほとんどない。それでも、わずかに擦れる音、硬いものが触れる音が混じる。自然ではない。人工的な動き。
少女の呼吸が乱れる。
「……やだ」
小さく漏れる。
「来んなよ」
体をさらに縮める。ベビーパピニーを覆うように抱きしめる。
「見つけんな」
祈るように呟く。
その直後、遠くで光が走った。
一瞬だけ、暗闇が白く裂ける。細い光線のようなものが、空間をなぞる。壁を、床を、そして――少女のいる方向を、正確に舐めるように動く。
「……っ」
少女は息を止める。
動かない。
動けない。
光は止まらない。一定の速度で、何度も往復する。
「リード、スキャン範囲拡張。反応はこの先だ」
低い声が、遠くから響く。
「誤差は小さい。間違いない」
別の声が続く。
少女の耳に、その言葉が届く。
理解できない単語もある。だが、“探している”ことだけは、はっきりとわかる。
「……俺、だ」
喉の奥で、声が震える。
「俺、探してんのか」
体が震える。
ベビーパピニーを抱く腕に、無意識に力が入る。
「……やだ」
小さく、繰り返す。
「やだやだやだ」
光が近づく。
距離が、縮まる。
少女は目を閉じる。
見られたくない。
見つかりたくない。
見つかったら、終わる。
その確信が、頭の中を埋める。
そのとき、ベビーパピニーが動く。
少女の胸から少しだけ顔を上げ、光の方を見る。
「……見るな」
少女は咄嗟に顔を押さえる。
「見るなって」
だが、ベビーパピニーは止まらない。
じっと、光を見る。
その瞬間――
光が、止まる。
「……いた」
無線の声が、はっきりと響く。
少女の心臓が跳ねる。
「目標、確認」
空気が凍る。
少女の思考が、一瞬で白くなる。
「……見つかった」
その言葉が、ゆっくりと落ちる。
次の瞬間、複数の足音が一斉に近づく。今まで抑えられていた音が、一気に解放されたように響く。
「確保班、前へ」
「対象は小型個体を伴っている」
「分離を優先しろ」
その言葉に、少女の意識が戻る。
「……分離」
意味が、繋がる。
ベビーパピニー。
それを、取られる。
その瞬間、体が勝手に動く。
「……ダメだ」
低く、はっきりとした声。
「それは、ダメだ」
少女は立ち上がる。ベビーパピニーを抱えたまま、後ろへ下がる。
光が一斉にこちらを向く。強い照射が、視界を奪う。
「対象確認。人型一体、小型個体一体」
「抵抗の可能性あり」
「構わん。小型を優先」
少女の呼吸が荒くなる。
「……来るな」
後ずさる。
「来んなって言ってんだろ!」
声が裂ける。
だが、止まらない。
人影が現れる。複数。顔は見えない。装備に覆われ、無機質な輪郭だけが浮かぶ。
その一人が手を伸ばす。
一直線に、ベビーパピニーへ。
「……触んな」
少女の声が低くなる。
「触んなって言ってんだろ!」
その瞬間、粒が溢れる。今までで一番の量。床から、壁から、空間から。少女の周囲を埋め尽くす。
だが――
光が変わる。
照射の色が切り替わる。
粒が、弾ける。
「……え」
少女の目が見開かれる。
粒が消える。さっきの影と同じように、存在ごと削られる。
「対処可能。続行」
無線が淡々と告げる。
少女の喉が詰まる。
「……なんで」
理解できない。
効かない。
止められない。
その間にも、手が伸びる。
ベビーパピニーに、届く。
「……やめろ」
声が震える。
「それ、やめろ」
腕に力を込める。
離さない。
離せない。
だが――
引かれる。
力で。
無理やり。
「……っ」
少女の体が揺れる。
ベビーパピニーの指が、少女の服を掴む。
必死に。
離れまいとする。
「……やだ」
少女の声が崩れる。
「離すな」
引っ張られる。
少しずつ。
確実に。
「……やめろ!」
叫ぶ。
その声は、今までで一番大きかった。
だが、止まらない。
「確保優先。対象本体は後回し」
無線が冷たく響く。
少女の視界が歪む。
涙か、光か、わからない。
ただ、ベビーパピニーの手が――
離れる。
「……あ」
音が消える。
思考が止まる。
腕の中が、空になる。
その感覚だけが、全てを奪う。
「……やだ」
小さく、落ちる。
「やだ」
その一言に、すべてが詰まっていた。
少女は、その場に立ち尽くす。
動けない。
追えない。
ただ、奪われたという事実だけが、深く、深く刺さる。




