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パピニー  作者: 藤苺めぇ


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7/15

触れてくるもの

地下の奥へ進むほど、空気は重くなっていた。湿気だけではない。何かが混ざっている。腐った匂いとも違う、鉄と水が混ざったような、生臭さにも似た気配が漂っている。壁面はところどころ膨らみ、脈打つように微かに動いている。まるでこの空間そのものが、生きているかのようだった。


少女はその中を進んでいた。呼吸を抑えながら、足音を極力立てないように。腕の中には、ベビーパピニーを抱えている。小さな体は温かく、微かに鼓動のようなリズムを刻んでいる。それを感じるたびに、少女の胸の奥がわずかに落ち着く。


「……離れるなよ」


小さく言う。


「絶対、離れんな」


ベビーパピニーは少女の服をぎゅっと握る。返事はない。それでも、その仕草だけで十分だった。


少女はそれを見て、ほんのわずかに息を吐く。


「……いい」


その言葉は、安心に近い。


だが、その感覚は長く続かなかった。


通路の奥、暗闇の中で、何かが“いる”。音はしない。動いてもいない。それでも、確実に存在している。見えないのに、そこにいるとわかる。


少女の足が止まる。


「……いる」


声が掠れる。


「また、来た」


前に現れたものとは違う。形がない。輪郭が曖昧で、そこに“影”のようなものが溜まっているだけ。それなのに、そこから視線のようなものが伸びてくる。


触れられている。


皮膚の上ではなく、もっと内側。思考の奥を撫でられるような、不快な感覚。


少女の肩が震える。


「……やめろ」


声が小さくなる。


「触んな」


影は動かない。


だが、確実に“近づいてくる”。


距離がない。空間を無視して、じわじわと内側へ侵入してくる。


少女は歯を食いしばる。


「来んなって言ってんだろ!」


声を上げた瞬間、ベビーパピニーが強くしがみつく。その小さな手が、少女の腕に食い込む。


その感触が、現実に引き戻す。


少女は息を吸う。


「……大丈夫」


自分に言い聞かせる。


「俺がいる」


その言葉を言った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。


守る、と決めたこと。


それが、形になり始めていた。


少女は一歩前に出る。逃げるのではなく、踏み込む。恐怖は消えていない。むしろ強くなっている。それでも、後ろに下がる理由がなくなっていた。


ベビーパピニーがいる。


それだけで、足が止まらない。


「……来るなら来い」


震える声で言う。


影が揺れる。


その瞬間、少女の周囲に浮かんでいた粒が反応する。水の球がいくつも現れ、ゆっくりと回り始める。少女の呼吸と連動するように、膨らみ、縮む。


影が一歩“踏み込む”。


同時に、粒が弾けるように前へ飛ぶ。


ぶつかる。


だが、今回は違った。


音がしない。


衝撃もない。


ただ、粒が“消える”。


「……え」


少女の目が見開かれる。


粒は、触れた瞬間に消失していた。壊されたのではない。吸い込まれたように、痕跡もなく消えている。


影が、さらに近づく。


少女の呼吸が乱れる。


「……なんだよ」


声が震える。


「なんで、消えんだよ」


ベビーパピニーが顔を上げる。その目は、どこか不安げだった。


少女はそれを見る。


そして、理解する。


これは、さっきの“壊せるもの”とは違う。


これは、もっと奥に入ってくるもの。


逃げなければいけない。


だが――


逃げたら、追ってくる。


どこまでも。


少女の足が動かない。


影が、すぐそこまで来る。


「……くそ」


唇を噛む。


怖い。


怖い。


怖い。


その中で、別の感情が混ざる。


奪われる、という感覚。


ベビーパピニーを、持っていかれる。


その想像が、頭に浮かぶ。


その瞬間、何かが切り替わる。


「……触んな」


低く、絞り出すような声。


「こいつに触んな」


影が、伸びる。


少女に向かって。


その瞬間、少女はベビーパピニーを強く抱き寄せる。包み込むように、覆うように。


「……ダメだ」


はっきりと言う。


「これは、ダメだ」


その言葉と同時に、少女の周囲の空気が歪む。これまでよりも強く、明確に。


床から、壁から、大量の粒が溢れ出す。今までとは比べ物にならない量。少女の周囲を覆い、層を作る。


影が触れる。


粒が触れる。


ぶつかる。


今度は、消えない。


逆に、影の一部が削れる。


「……効いた」


少女の目が揺れる。


「……効くじゃん」


わずかに、息が戻る。


影は揺れる。完全には崩れないが、確かに形が乱れている。


少女は一歩、踏み出す。


「来んなって言ってんだろ」


声が少し強くなる。


「わかんねぇのか」


粒がさらに集まる。少女の前に、壁のように広がる。


影は、そこで止まる。


進めない。


その状態が、数秒続く。


やがて、影はゆっくりと引いていく。


消えるわけではない。ただ、距離を取る。


少女はその様子を見つめる。


追わない。


追えない。


ただ、そこに立っている。


完全にいなくなったわけではないと、わかっている。


「……いる」


小さく呟く。


「まだ、いる」


それでも、今は来ない。


それだけで、十分だった。


少女はその場に崩れるように座り込む。力が抜ける。腕の中のベビーパピニーを見下ろす。


無事だ。


それだけで、胸が締め付けられる。


「……よかった」


声が震える。


ベビーパピニーが少女を見上げる。そして、小さく手を伸ばす。


頬に触れる。


その仕草は、あまりにも自然だった。


少女の呼吸が止まる。


拒絶しない。


できない。


「……なあ」


かすれた声が出る。


「お前、怖くねぇのか」


ベビーパピニーは答えない。


ただ、触れている。


それだけで、十分だった。


少女はその手に、自分の手を重ねる。


「……一人じゃねぇな」


ぽつりと呟く。


その言葉は、これまでで一番静かで、一番重かった。


「……いいな、これ」


少しだけ笑う。


弱く、壊れそうな笑い。


それでも確かに、笑っていた。


だがその奥で、別の気配が動いている。


人の気配。


機械の気配。


遠くから、近づいてきている。


少女はまだ、それに気づいていない。


だが、確実に“次”は来ていた。

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