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パピニー  作者: 藤苺めぇ


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5/13

はじめてのとなり

地下の空間は、外から想像していたよりも広かった。天井は低いが、横に長く伸びている。壁は土とコンクリートが混ざり合い、どこからが人工でどこからが自然なのか判別がつかない。湿った空気がこもり、わずかに鉄のような匂いが混ざっている。遠くで水滴が落ちる音が、一定の間隔で響いていた。


少女はその中央に座り込んでいた。足を折り、体を小さく丸めたまま、動かない。指先には、先ほど触れた水の球がまとわりついている。離れない。払おうとしても、力を込める前に動きが止まる。


「……お前」


小さく呟く。


「なんなんだよ」


返事はない。それでも、その存在は確かにそこにある。ぬるりとした嫌な感触ではない。むしろ、指先に吸い付くように馴染んでいる。冷たくも熱くもない、曖昧な温度。


少女はそのまま、じっと見つめる。目を逸らせない。逸らしたくない、という気持ちが少しだけ混ざる。


「……動くなよ」


言葉にしてみる。


その瞬間、球体はわずかに震えた。応答したように見えた。


少女の呼吸が止まる。


「……今、動いたよな」


もう一度、指先を近づける。触れているのに、さらに触れるような感覚。境界が曖昧になる。球体は逃げない。ただ、そこにある。


少女はゆっくりと息を吐く。


「……いい」


それ以上の言葉は出てこない。ただ、離したくないと思った。


その感覚は、初めてだった。


少女はこれまで、何かに触れて「安心した」ことがない。触れることは、怖いことだった。痛みや嫌悪と結びついた記憶しかない。だから、自分から触れようとすることもなかった。


それなのに今は違う。


指先にあるそれは、何もしてこない。何も奪わない。ただ、そこにいる。


「……お前」


もう一度呼ぶ。


名前はない。


呼び方もない。


それでも、何かを呼びたいと思った。


「……おい」


少しだけ声が強くなる。


球体は、また小さく震えた。


それを見て、少女の口元がわずかに動く。笑った、というには弱すぎる変化。それでも、確かに表情が緩んだ。


「……いるじゃん」


ぽつりと漏れる。


「ちゃんと」


その言葉は、自分に向けたものでもあった。


少女はゆっくりと手を開く。球体はその掌の上に移動する。転がるのではなく、吸い寄せられるように位置を変える。


「……なあ」


少女は視線を落とす。


「俺さ」


言葉が詰まる。


何を言えばいいのかわからない。


それでも、続ける。


「……一人なんだよ」


その言葉は、静かに落ちた。


「ずっと」


返事はない。


それでも、球体は消えない。


少女はそのまま、少しだけ体を丸める。掌を胸に近づける。逃がさないように。


「……どっか行くなよ」


声が弱くなる。


「頼むから」


その瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、わずかに緩む。抑えていた感情が、形を持ち始める。怖さとは違う。怒りとも違う。もっと単純で、もっと重たいもの。


寂しい、という感覚。


少女はそれを言葉にしない。できない。ただ、体の奥からじわじわと広がる。


「……俺」


また言葉が途切れる。


続けるのが怖い。


言ってしまえば、それが本当になる気がした。


そのとき、掌の上の球体が大きく揺れた。ひとつだったはずのそれが、分かれる。二つに、三つに。小さな粒が増えていく。


「……え」


少女は目を見開く。


粒は逃げない。むしろ集まる。少女の掌から、腕へ、そして膝へと移動しながら、少しずつ形を変えていく。


「……やめろ」


思わず声が出る。


「待て、ちょっと」


だが止まらない。


粒は集まり、繋がり、形を持ち始める。丸が連なり、輪郭が生まれる。人の形に近づいていく。


少女は動けない。目を逸らせない。


怖い。


でも、それ以上に――


「……来るな」


言いながら、後ずさる。


「来るなって」


声は震えている。


だが、逃げきれない距離で、形は完成していく。


やがて、それは一つの姿になる。


小さな少女だった。


五歳ほどの、幼い体。輪郭は少しぼやけているが、確かに人の形をしている。髪も、手も、足もある。


その少女が、ゆっくりと顔を上げる。


目が合う。


同じだった。


どこか、自分に似ている。


「……なに」


少女は息を呑む。


「お前、なに」


小さな少女は、きょとんとした顔でこちらを見る。そして、ぎこちなく口を開く。


声は出ない。


ただ、形だけが動く。


それでも、何かを伝えようとしているのがわかる。


少女は固まったまま、動けない。


怖いはずだった。


なのに――


「……おい」


思わず、声をかける。


小さな少女は反応する。少しだけ、近づく。


逃げない。


襲ってこない。


ただ、近くに来る。


「……来るなって言っただろ」


そう言いながらも、少女はその場を動かない。


小さな少女は、さらに一歩近づく。


そして、しゃがみ込む。


床に落ちていた小さな欠片を拾い、それで何かを描き始める。土の上に、線を引く。


ぎこちない動きで、形を作る。


丸が二つ。


その横に、もう一つ。


少女はそれを見下ろす。


「……これ」


気づく。


自分と、もう一人。


そして、小さなそれ。


「……お前」


言葉が震える。


「これ、俺か」


小さな少女は顔を上げる。


そして、ゆっくりと頷いた。


その仕草は、あまりにも拙い。


それでも、確かだった。


少女の喉が詰まる。


何かが込み上げる。


抑えきれない。


「……なんだよ」


声が崩れる。


「なんだよ、それ」


涙が落ちる。


気づかないうちに、溢れていた。


止め方がわからない。


小さな少女は、その様子を見て、少しだけ近づく。そして、手を伸ばす。


触れる。


優しく。


何も奪わない触れ方。


少女の体が、びくりと震える。


だが、拒絶しない。


できない。


「……いいのか」


かすれた声が出る。


「触って」


小さな少女は、何も言わない。


ただ、そのまま触れている。


少女はゆっくりと、息を吐く。


そして、小さく呟く。


「……名前」


考える。


すぐには出てこない。


それでも、言葉にする。


「……ベビーパピニー」


その名前は、自然に出てきた。


理由はわからない。


でも、これだと思った。


「お前、ベビーパピニーだ」


小さな少女は、その言葉に反応するように、少しだけ笑った。


その笑顔は、あまりにも無防備で、何も知らないものだった。


少女はその様子を見て、胸を押さえる。


「……死ぬ時は」


ぽつりと漏れる。


「一緒だからな」


その言葉は重い。


だが、少女にとっては、それが唯一の安心の形だった。


一人ではない。


それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。


外では、何かが壊れている。


上では、誰かが見ている。


それでも、この場所だけは、少しだけ違っていた。


少女の隣に、もう一人いる。


それが、すべてだった。

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