はじめてのとなり
地下の空間は、外から想像していたよりも広かった。天井は低いが、横に長く伸びている。壁は土とコンクリートが混ざり合い、どこからが人工でどこからが自然なのか判別がつかない。湿った空気がこもり、わずかに鉄のような匂いが混ざっている。遠くで水滴が落ちる音が、一定の間隔で響いていた。
少女はその中央に座り込んでいた。足を折り、体を小さく丸めたまま、動かない。指先には、先ほど触れた水の球がまとわりついている。離れない。払おうとしても、力を込める前に動きが止まる。
「……お前」
小さく呟く。
「なんなんだよ」
返事はない。それでも、その存在は確かにそこにある。ぬるりとした嫌な感触ではない。むしろ、指先に吸い付くように馴染んでいる。冷たくも熱くもない、曖昧な温度。
少女はそのまま、じっと見つめる。目を逸らせない。逸らしたくない、という気持ちが少しだけ混ざる。
「……動くなよ」
言葉にしてみる。
その瞬間、球体はわずかに震えた。応答したように見えた。
少女の呼吸が止まる。
「……今、動いたよな」
もう一度、指先を近づける。触れているのに、さらに触れるような感覚。境界が曖昧になる。球体は逃げない。ただ、そこにある。
少女はゆっくりと息を吐く。
「……いい」
それ以上の言葉は出てこない。ただ、離したくないと思った。
その感覚は、初めてだった。
少女はこれまで、何かに触れて「安心した」ことがない。触れることは、怖いことだった。痛みや嫌悪と結びついた記憶しかない。だから、自分から触れようとすることもなかった。
それなのに今は違う。
指先にあるそれは、何もしてこない。何も奪わない。ただ、そこにいる。
「……お前」
もう一度呼ぶ。
名前はない。
呼び方もない。
それでも、何かを呼びたいと思った。
「……おい」
少しだけ声が強くなる。
球体は、また小さく震えた。
それを見て、少女の口元がわずかに動く。笑った、というには弱すぎる変化。それでも、確かに表情が緩んだ。
「……いるじゃん」
ぽつりと漏れる。
「ちゃんと」
その言葉は、自分に向けたものでもあった。
少女はゆっくりと手を開く。球体はその掌の上に移動する。転がるのではなく、吸い寄せられるように位置を変える。
「……なあ」
少女は視線を落とす。
「俺さ」
言葉が詰まる。
何を言えばいいのかわからない。
それでも、続ける。
「……一人なんだよ」
その言葉は、静かに落ちた。
「ずっと」
返事はない。
それでも、球体は消えない。
少女はそのまま、少しだけ体を丸める。掌を胸に近づける。逃がさないように。
「……どっか行くなよ」
声が弱くなる。
「頼むから」
その瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、わずかに緩む。抑えていた感情が、形を持ち始める。怖さとは違う。怒りとも違う。もっと単純で、もっと重たいもの。
寂しい、という感覚。
少女はそれを言葉にしない。できない。ただ、体の奥からじわじわと広がる。
「……俺」
また言葉が途切れる。
続けるのが怖い。
言ってしまえば、それが本当になる気がした。
そのとき、掌の上の球体が大きく揺れた。ひとつだったはずのそれが、分かれる。二つに、三つに。小さな粒が増えていく。
「……え」
少女は目を見開く。
粒は逃げない。むしろ集まる。少女の掌から、腕へ、そして膝へと移動しながら、少しずつ形を変えていく。
「……やめろ」
思わず声が出る。
「待て、ちょっと」
だが止まらない。
粒は集まり、繋がり、形を持ち始める。丸が連なり、輪郭が生まれる。人の形に近づいていく。
少女は動けない。目を逸らせない。
怖い。
でも、それ以上に――
「……来るな」
言いながら、後ずさる。
「来るなって」
声は震えている。
だが、逃げきれない距離で、形は完成していく。
やがて、それは一つの姿になる。
小さな少女だった。
五歳ほどの、幼い体。輪郭は少しぼやけているが、確かに人の形をしている。髪も、手も、足もある。
その少女が、ゆっくりと顔を上げる。
目が合う。
同じだった。
どこか、自分に似ている。
「……なに」
少女は息を呑む。
「お前、なに」
小さな少女は、きょとんとした顔でこちらを見る。そして、ぎこちなく口を開く。
声は出ない。
ただ、形だけが動く。
それでも、何かを伝えようとしているのがわかる。
少女は固まったまま、動けない。
怖いはずだった。
なのに――
「……おい」
思わず、声をかける。
小さな少女は反応する。少しだけ、近づく。
逃げない。
襲ってこない。
ただ、近くに来る。
「……来るなって言っただろ」
そう言いながらも、少女はその場を動かない。
小さな少女は、さらに一歩近づく。
そして、しゃがみ込む。
床に落ちていた小さな欠片を拾い、それで何かを描き始める。土の上に、線を引く。
ぎこちない動きで、形を作る。
丸が二つ。
その横に、もう一つ。
少女はそれを見下ろす。
「……これ」
気づく。
自分と、もう一人。
そして、小さなそれ。
「……お前」
言葉が震える。
「これ、俺か」
小さな少女は顔を上げる。
そして、ゆっくりと頷いた。
その仕草は、あまりにも拙い。
それでも、確かだった。
少女の喉が詰まる。
何かが込み上げる。
抑えきれない。
「……なんだよ」
声が崩れる。
「なんだよ、それ」
涙が落ちる。
気づかないうちに、溢れていた。
止め方がわからない。
小さな少女は、その様子を見て、少しだけ近づく。そして、手を伸ばす。
触れる。
優しく。
何も奪わない触れ方。
少女の体が、びくりと震える。
だが、拒絶しない。
できない。
「……いいのか」
かすれた声が出る。
「触って」
小さな少女は、何も言わない。
ただ、そのまま触れている。
少女はゆっくりと、息を吐く。
そして、小さく呟く。
「……名前」
考える。
すぐには出てこない。
それでも、言葉にする。
「……ベビーパピニー」
その名前は、自然に出てきた。
理由はわからない。
でも、これだと思った。
「お前、ベビーパピニーだ」
小さな少女は、その言葉に反応するように、少しだけ笑った。
その笑顔は、あまりにも無防備で、何も知らないものだった。
少女はその様子を見て、胸を押さえる。
「……死ぬ時は」
ぽつりと漏れる。
「一緒だからな」
その言葉は重い。
だが、少女にとっては、それが唯一の安心の形だった。
一人ではない。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
外では、何かが壊れている。
上では、誰かが見ている。
それでも、この場所だけは、少しだけ違っていた。
少女の隣に、もう一人いる。
それが、すべてだった。




