■第9話「外へ出る理由(完全版)」
地下の空間は、何も変わっていなかった。湿った空気も、音を吸い込むような静けさも、壁の不規則な形も、そのままそこにある。だが少女にとって、そのすべては意味を失っていた。ついさっきまで確かにあったものが消えた瞬間から、世界の輪郭が歪んでしまった。
少女は立ち尽くしていた。両腕は宙に浮いたまま、何かを抱えていた形で固まっている。そこにはもう何もない。それでも腕を下ろせない。下ろしたら、本当に何もなくなる気がした。
「……いない」
かすれた声が落ちる。
「……いない」
同じ言葉を繰り返す。
理解が追いつかない。
さっきまで、確かにそこにいた。触れていた。掴まれていた。温度も、重さも、全部あった。
それが、ない。
「……なんで」
喉が詰まる。
呼吸がうまくできない。
胸の奥が締めつけられる。
「……なんでだよ」
膝が崩れる。
その場に座り込む。
視界が揺れる。
何も見えない。
何も考えられない。
ただ、空になった腕の感覚だけが残る。
「……やだ」
小さく漏れる。
「やだ」
その言葉は弱い。
何も変えられない。
それでも止まらない。
「……返せよ」
声が少しだけ強くなる。
「返せ」
床を叩く。
鈍い音が響く。
それだけだ。
何も戻らない。
少女の中で、何かが崩れていく。
怖さではない。
怒りでもない。
もっと単純で、もっと深い感情。
「……一人」
ぽつりと落ちる。
「……またか」
その言葉に、自分で気づく。
また。
また、奪われる。
逃げても、隠れても、同じ。
その感覚が、ゆっくりと広がる。
少女は顔を上げる。
暗闇が広がっている。
さっきまで、この場所は少し違っていた。
隣に誰かがいた。
それだけで、全部が変わっていた。
それが、消えた。
「……くそ」
低く吐き出す。
「ふざけんなよ」
手を握る。
爪が食い込む。
痛みが走る。
それでも足りない。
「……なんでだよ」
声が震える。
「あいつ、何もしてねぇだろ」
誰に向けた言葉でもない。
それでも止まらない。
「……なんで取んだよ」
答えはない。
わかっている。
あいつらだ。
さっきの、人間。
光を持って、迷いなく手を伸ばしてきたやつら。
「……あいつら」
名前は知らない。
顔も見ていない。
それでも、はっきりしている。
奪ったのは、あいつらだ。
少女の呼吸が、少しずつ変わる。
乱れていたそれが、ゆっくりと整っていく。
代わりに、別のものが生まれる。
「……取り返す」
小さく呟く。
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
「……取り返す」
もう一度言う。
その言葉は、逃げるためじゃない。
向かうための言葉。
少女はゆっくりと立ち上がる。
足は震えている。
怖い。
外は怖い。
人間は怖い。
見られるのも、触れられるのも、全部嫌だ。
それでも。
「……行く」
言い切る。
「行くしかねぇ」
胸の奥が強く脈打つ。
怖さは消えない。
それでも、それ以上のものがある。
ベビーパピニー。
あの小さな手。
掴んで離さなかった感触。
それが離れた瞬間。
「……戻す」
声が低くなる。
「あれ、戻す」
その言葉は揺れない。
少女の周囲に粒が現れる。
静かに、しかし確実に集まる。
呼吸に合わせて、形を変える。
少女はそれを見る。
「……使う」
理解ではない。
感覚。
でも、わかる。
使える。
「……怖くても」
一歩踏み出す。
暗闇の奥へ。
上へと繋がる方向へ。
「……関係ねぇ」
足が止まらない。
止まれない。
「行くって言っただろ」
自分に言い聞かせる。
進む。
逃げるためじゃない。
取り返すために。
通路は上へ続く。
空気が少しずつ変わる。
重さが抜ける。
外に近づいている。
少女はそれを感じる。
一瞬だけ、足が止まる。
怖い。
あの空。
あの視線。
全部、そこにある。
「……でも」
目を閉じる。
一瞬だけ。
そして開く。
「……行く」
その言葉は、もう揺れなかった。
少女は歩く。
初めて、自分の意思で。
外へ向かって。
奪われたものを、取り返すために。




