■第8話「引き剥がされるもの(完全版)」
地下の奥は、異様な静けさに包まれていた。音がないわけではない。水滴の落ちる微かな響きも、壁の奥で何かが軋む気配も確かにある。それなのに、それらが途中で削がれ、届く前に消えてしまうような感覚があった。空間そのものが音を吸い込んでいる。そんな錯覚を抱かせるほど、不自然な静寂だった。
少女はその一角に身を寄せていた。壁に背を預け、ベビーパピニーを抱え込むようにして座っている。呼吸は浅く、細い。少しでも音を立てれば、ここにいることが知られてしまう。そんな予感が、理由もなく胸の奥に張り付いていた。
「……ここ」
小さく呟く。
「まだ、大丈夫か」
答えはない。
ベビーパピニーは少女の胸元に顔を埋めている。小さな体が上下に揺れる。その動きがあるだけで、少女の中の何かが辛うじて繋ぎ止められていた。
「……離れんなよ」
声はかすれている。
「絶対、離れんな」
ベビーパピニーの指が、布を強く握る。
それだけでいい。
それだけで、まだ崩れずにいられる。
そのとき、空気が変わる。
ほんのわずかだった。だが、明確に違う何かが混ざる。これまで感じてきたものとは違う。曖昧ではない。はっきりとした存在。
人の気配。
少女の体が固まる。
「……いる」
喉が乾く。
「来た」
耳を澄ます。音はほとんどない。それでも、硬いものが触れ合うわずかな音、規則的な動きの気配が混じる。
自然ではない。
人工の動き。
少女の呼吸が乱れる。
「……やだ」
小さく漏れる。
「来んなよ」
体をさらに縮める。ベビーパピニーを覆うように抱きしめる。
「見つけんな」
祈るように呟く。
その瞬間、暗闇の中に光が走る。
細く鋭い光線が、空間をなぞるように動く。壁を、床を、そして少女のいる方向を正確に辿る。
少女は息を止める。
動かない。
動けない。
光は止まらない。一定の速度で往復する。
「リード、スキャン範囲拡張。反応はこの先だ」
低い声が響く。
「誤差は最小。位置は固定されている」
別の声が続く。
少女の耳に届く。
理解できない言葉もある。
それでも、“探している”ことだけはわかる。
「……俺、だ」
喉の奥で声が震える。
「俺、探してんのか」
体が震える。
ベビーパピニーを抱く腕に、無意識に力が入る。
「……やだ」
繰り返す。
「やだやだやだ」
光が近づく。
距離が縮まる。
少女は目を閉じる。
見られたくない。
見つかりたくない。
見つかったら終わる。
その確信が、頭を埋める。
そのとき、ベビーパピニーが動く。
少女の胸から顔を上げる。
光の方を見る。
「……見るな」
少女は咄嗟に顔を押さえる。
「見るなって」
だが、止まらない。
ベビーパピニーは光を見つめる。
その瞬間、光が止まる。
「……いた」
無線の声がはっきりと響く。
少女の心臓が跳ねる。
「目標確認」
空気が凍る。
「……見つかった」
言葉が落ちる。
次の瞬間、足音が一斉に近づく。今まで抑えられていた音が解放されたように響く。
「確保班、前へ」
「対象は小型個体を伴う」
「分離を優先」
その言葉が、少女の中で繋がる。
分離。
ベビーパピニー。
それを取られる。
その瞬間、体が動く。
「……ダメだ」
低く言う。
「それはダメだ」
立ち上がる。
ベビーパピニーを抱えたまま後ろへ下がる。
光が一斉に向く。
強い照射が視界を奪う。
「対象確認。人型一体、小型個体一体」
「抵抗あり」
「構わん。小型を優先」
少女の呼吸が荒くなる。
「……来るな」
後ずさる。
「来んなって言ってんだろ!」
声が裂ける。
だが止まらない。
人影が現れる。複数。顔は見えない。装備に覆われた輪郭だけ。
その一人が手を伸ばす。
まっすぐに、ベビーパピニーへ。
「……触んな」
少女の声が低くなる。
「触んなって言ってんだろ!」
粒が溢れる。
床から、壁から、空間から。
今までで一番の量。
だが――
光が変わる。
照射の色が切り替わる。
粒が弾ける。
消える。
「……え」
少女の目が見開かれる。
防げない。
止められない。
「対処可能。続行」
無線が淡々と告げる。
少女の喉が詰まる。
「……なんで」
理解できない。
その間にも、手が伸びる。
ベビーパピニーに触れる。
「……やめろ」
声が崩れる。
「それ、やめろ」
腕に力を込める。
離さない。
離せない。
だが――
引かれる。
強い力で。
無理やり。
「……っ」
少女の体が揺れる。
ベビーパピニーの指が、服を掴む。
必死に。
離れまいとする。
「……やだ」
少女の声が裂ける。
「離すな」
引き剥がされる。
少しずつ。
確実に。
「……やめろ!」
叫ぶ。
だが止まらない。
「確保優先。本体は後回し」
無線が響く。
少女の視界が歪む。
光か涙か、わからない。
ただ――
手が、離れる。
「……あ」
音が消える。
思考が止まる。
腕の中が、空になる。
その感覚だけが残る。
「……やだ」
小さく落ちる。
「やだ」
それだけしか言えない。
少女は立ち尽くす。
動けない。
追えない。
ただ、奪われたという事実だけが、深く突き刺さる。
地下の静寂が、戻る。
だがもう、それは同じものではなかった。
少女の中で、何かが確実に壊れていた。




