■第7話「触れてくるもの(完全版)」
地下のさらに奥へ進むほど、空気の質が変わっていった。湿り気は同じでも、重さの種類が違う。肺に入るたびに、何かが混ざっているような感覚が残る。壁面は不規則に膨らみ、場所によってはゆっくりと脈打っているようにも見える。一定ではない揺れが、この空間全体に広がっていた。
少女はその中を進んでいた。歩く速度は速くない。だが止まらない。腕の中にはベビーパピニーがいる。その小さな体は軽いのに、確かに重さを持っている。その重さが、少女の足を前へ動かしていた。
「……離れるなよ」
小さく言う。
「絶対、離れんな」
ベビーパピニーは少女の服を握る。返事はない。それでも、その動きだけで十分だった。
少女は視線を前に戻す。暗闇の中に、何かが“いる”とわかる。見えているわけではない。それでも、そこにあると理解してしまう。
足が止まる。
「……いる」
声がかすれる。
「また、来た」
これまでの塊とは違う。形がない。輪郭が曖昧で、空間の一部が濃くなったような影。その中心がどこなのかもわからない。それでも、そこから何かが伸びてくる。
触れられている。
皮膚ではない。もっと内側。思考の奥に、直接指を入れられるような不快な感覚。
少女の肩が震える。
「……やめろ」
声が弱くなる。
「触んな」
影は動かない。
だが、確実に近づいてくる。
距離という概念を無視するように、じわじわと侵入してくる。
少女は歯を食いしばる。
「来んなって言ってんだろ!」
声を上げる。
その瞬間、ベビーパピニーが強くしがみつく。小さな手が、少女の腕に食い込む。
その感触で、少女の意識が現実に戻る。
呼吸を思い出す。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「俺がいる」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に熱が生まれる。
守る。
その感覚が、はっきりと形になる。
少女は一歩前に出る。逃げるのではなく、踏み込む。怖さは消えていない。むしろ強くなっている。それでも、後ろに下がる理由がなくなっていた。
「……来るなら来い」
震える声で言う。
影がわずかに揺れる。
その瞬間、少女の周囲に粒が現れる。水の球がいくつも浮かび上がり、一定の距離を保ちながら回り始める。呼吸に合わせて膨らみ、縮む。
影が一歩“踏み込む”。
粒が一斉に前へ飛ぶ。
ぶつかる。
音はない。
衝撃もない。
ただ、粒が消える。
「……え」
少女の目が見開かれる。
粒は触れた瞬間に消えていた。壊されたのではない。吸い込まれたように、跡もなく消えている。
影がさらに近づく。
少女の呼吸が乱れる。
「……なんだよ」
声が震える。
「なんで消えんだよ」
ベビーパピニーが少女を見上げる。その目は何も知らない。それでも、そこにいる。
少女はそれを見る。
理解する。
これは、さっきの“壊せるもの”じゃない。
もっと奥に入ってくるもの。
逃げても、追ってくる。
どこまでも。
少女の足が動かない。
影が、すぐそこまで来る。
「……くそ」
唇を噛む。
怖い。
その感情が膨らむ。
その中に、別のものが混ざる。
奪われる。
ベビーパピニーを、持っていかれる。
その想像が、頭に浮かぶ。
その瞬間、何かが切り替わる。
「……触んな」
低く、はっきりとした声。
「こいつに触んな」
影が伸びる。
少女に向かって。
少女はベビーパピニーを強く抱き寄せる。覆うように、守るように。
「……ダメだ」
言い切る。
「これは、ダメだ」
その言葉と同時に、空気が歪む。
床から、壁から、大量の粒が溢れ出る。今までとは比べ物にならない量。少女の周囲を覆い、層を作る。
影が触れる。
粒が触れる。
ぶつかる。
今度は消えない。
逆に、影の一部が削れる。
「……効いた」
少女の目が揺れる。
「……効くじゃん」
わずかに呼吸が戻る。
影は揺れる。完全には崩れないが、形が乱れる。
少女は一歩踏み出す。
「来んなって言ってんだろ」
声が強くなる。
粒がさらに集まる。壁のように前へ広がる。
影はそこで止まる。
進めない。
数秒の静止。
やがて、影はゆっくりと引いていく。
消えるわけではない。ただ距離を取る。
少女はそれを見つめる。
追わない。
ただ、そこに立っている。
「……いる」
小さく呟く。
「まだ、いる」
完全に消えたわけではないと、理解している。
それでも、今は来ない。
それだけで十分だった。
少女はその場に崩れるように座り込む。
力が抜ける。
ベビーパピニーを抱きしめる。
強く。
離さないように。
「……怖ぇ」
声が漏れる。
「……でも」
呼吸を整える。
「……一人じゃねぇ」
その言葉は、これまでで一番静かで、一番重かった。
ベビーパピニーが少女の胸に顔を寄せる。
少女はその頭に手を置く。
「……いいな」
かすかに笑う。
弱く、壊れそうな笑い。
それでも、確かに笑っていた。
その奥で、別の気配が動いている。
人の気配。
機械の気配。
遠くから、近づいてきている。
少女はまだ、それに気づいていない。
だが確実に、次は“人間”が来る。




