境界を越えるもの
施設の外郭は、遠目には無機質な箱にしか見えなかった。窓は少なく、表面は滑らかで、継ぎ目すら目立たない。だが近づくにつれ、その違和感は強くなる。光を吸収するような外壁、音を返さない構造、そして周囲の空気の流れが、わずかに内側へ引き込まれている。
少女はその前に立っていた。足を止める。呼吸が浅くなる。ここに来るまでの間、ずっと前だけを見ていたはずなのに、目の前にそれが現れた瞬間、体が拒否を始める。
「……ここか」
声は小さい。
返事はない。
それでも、確信だけがある。
「……いる」
胸の奥が強く反応する。引かれるような感覚。嫌なはずなのに、離れられない。怖さと、別の何かが同時に絡みつく。
「……あいつ、ここだ」
少女の足が一歩、前に出る。地面の感触が変わる。柔らかい土から、硬い素材へ。人工の領域に踏み込んだ証だった。
その瞬間、施設の一部が静かに動く。音はほとんどしない。ただ、空間がわずかに歪む。入口が開いているのかどうかすら、視覚では判別しづらい。
「……来るの、わかってんだろ」
少女は低く呟く。
「じゃあ、開けろよ」
答えはない。
だが、次の瞬間、空気が裂ける。
見えない壁が消える。
道が、現れる。
少女はそれを見て、一瞬だけ躊躇する。ここに入れば、もう後戻りはできない。それはわかっている。逃げ場はない。隠れる場所もない。
それでも――
「……行くって言った」
小さく言う。
「もう、止まんねぇ」
足を踏み入れる。
施設の内部は、外よりもさらに静かだった。白い壁、均一な照明、影の少ない空間。どこまでも続く通路が、同じ形で連なっている。方向感覚が狂う。どこを見ても同じで、どこにいるのかが曖昧になる。
少女はその中を進む。
迷わない。
わかるからだ。
どこにいるか。
どこに行けばいいか。
「……そこだろ」
小さく呟く。
胸の奥の引きが、強くなる。近づいている証だった。
そのとき、前方の通路に人影が現れる。複数。装備に覆われた無機質な輪郭。動きは速く、無駄がない。
「対象侵入確認」
無線が響く。
「迎撃に移行」
少女の足が止まる。
呼吸が乱れる。
怖い。
やっぱり、怖い。
「……来るな」
声が震える。
一歩、下がる。
逃げたい。
戻りたい。
その衝動が、強く出る。
だが――
胸の奥で、別の感覚が動く。
ベビーパピニー。
あの小さな手。
「……離すなって言っただろ」
ぽつりと落ちる。
「守るって、言っただろ」
その言葉と同時に、少女の周囲に粒が現れる。これまでとは違う。量だけではない。密度が、重さが、明らかに変わっている。
空気が歪む。
通路の壁がわずかに軋む。
「……どけ」
少女は言う。
「邪魔すんな」
人影の一人が装置を構える。光が収束する。粒を消すための光。
「発射」
光が放たれる。
粒に触れる。
だが――
消えない。
削れる。
だが、残る。
「……出力不足?」
無線に動揺が混じる。
少女は一歩、踏み出す。
怖いまま。
それでも進む。
「……効かねぇよ」
低く言う。
「もう、効かねぇ」
粒が前へと押し出される。塊ではない。流れでもない。圧のように、空間ごと押し潰す。
人影が後退する。
足が止まる。
その一瞬の隙。
少女は走る。
通路を抜ける。
まっすぐに。
止まらない。
止まれない。
「……そこだ!」
声が荒くなる。
前方に、扉がある。重く、厚い。だが、それが“違う”とわかる。そこにある。
少女は手を伸ばす。
触れる。
その瞬間、粒が一斉に反応する。扉の表面に沿って広がり、侵食するように形を変える。
音はない。
ただ、構造が崩れる。
扉が、開く。
その先に、光がある。
透明な容器。
その中に――
「……いた」
声が止まる。
ベビーパピニー。
そこにいる。
動いている。
生きている。
少女の視界が揺れる。
足が止まる。
「……よかった」
かすれた声が落ちる。
その瞬間、背後で音がする。
複数の足音。
無線の声。
「対象、コアへ到達」
「排除優先」
空気が変わる。
少女は振り返らない。
目の前だけを見る。
「……待ってろ」
小さく言う。
「今、出す」
手を伸ばす。
その動きは、震えていない。
怖さは消えていない。
それでも、止まらない。
少女は、境界を越えた。
戻らない場所へと。




