それでも、ここにいる
白い空間の中心で、少女は立っていた。呼吸は荒い。それでも足は止まらない。視線の先には、透明な容器。その中で揺れている、小さな存在。
ベビーパピニー。
それだけが、すべてだった。
「……待ってろ」
かすれた声が落ちる。
「今、出す」
少女は一歩、踏み出す。床に足が触れた瞬間、わずかに沈むような感覚がある。この空間自体が、ただの床ではない。何かが制御している。抑えている。
それでも、止まらない。
容器の前に立つ。手を伸ばす。透明な壁に触れる。冷たいはずなのに、どこか柔らかい。押し返される感覚がある。
「……邪魔すんな」
小さく呟く。
その瞬間、少女の周囲に粒が現れる。静かに、しかし確実に増えていく。空間を埋めるように広がる。今までとは違う。揺れがない。迷いがない。
意思だけで、形になっている。
背後で足音が止まる。
「……止まれ」
誰かの声。
「それ以上進むな」
少女は振り返らない。
聞いていない。
「……返せ」
ただ、それだけを言う。
容器に触れた手に、力が入る。粒が集中する。表面に沿って流れ、押し込むように圧がかかる。
ひびが入る。
小さく。
だが、確かに。
「……割れる」
少女の声が震える。
「……いける」
もう一度、力を込める。
粒が重なる。
圧が増す。
ひびが広がる。
「やめろ!」
背後の声が強くなる。
「対象が不安定化する!」
知らない。
そんなことはどうでもいい。
「……返せって言ってんだろ!」
叫ぶ。
その瞬間、容器が割れる。
音はほとんどしない。
ただ、形が崩れる。
液体が流れ出る。
その中から、ベビーパピニーが滑り落ちる。
少女は迷わず手を伸ばす。
抱き止める。
軽い。
でも、確かにそこにいる。
「……いた」
声が崩れる。
「……いた」
何度も繰り返す。
「……よかった」
抱きしめる。
強く。
離さないように。
ベビーパピニーの体が、わずかに動く。指が、少女の服を掴む。
その感触が戻る。
それだけで、胸の奥が満たされる。
「……離すなよ」
かすれた声。
「もう、離すな」
ベビーパピニーは何も言わない。
それでも、しがみつく。
それでいい。
それだけでいい。
そのとき、空気が変わる。
背後で、何かが崩れ始める。
制御が乱れる。
装置が軋む。
光がちらつく。
「……出力が保てない!」
「遮断できない!」
無線が乱れる。
少女はゆっくりと振り返る。
人影たちが後退している。
今までとは違う。
恐れている。
はっきりと。
「……なんだよ」
少女は小さく言う。
「最初から、そうしとけよ」
怒りはある。
でも、それ以上に――
どうでもいい。
「……行くぞ」
ベビーパピニーに向けて言う。
「帰る」
どこに、とは言わない。
ただ、ここじゃない場所。
それだけでいい。
少女は歩き出す。
止めるものはいない。
止められない。
粒が自然と道を作る。
空間が、避ける。
外へ続く道が開く。
そのまま進む。
振り返らない。
もう、見る必要がない。
施設は、ゆっくりと崩れていく。
音もなく。
ただ、形が保てなくなる。
人間たちはそれを見ているしかない。
触れられない。
届かない。
理解できない。
少女はそのすべてから離れていく。
地上に出る。
空が広がる。
風が当たる。
光が目に刺さる。
それでも、立ち止まらない。
ベビーパピニーを抱えたまま、歩く。
少しずつ。
遠くへ。
「……なあ」
小さく呟く。
「怖いか」
ベビーパピニーは答えない。
ただ、しがみつく。
それで十分だった。
少女は少しだけ笑う。
「……俺もだ」
正直な言葉。
「でも、いい」
空を見上げる。
あの時と同じ空。
でも、違う。
隣にいる。
それだけで。
「……いいな」
ぽつりと落ちる。
かすれた声。
それでも、確かに届く。
誰にも聞こえなくてもいい。
ここにある。
それでいい。
少女は歩く。
止まらずに。
逃げるでもなく、隠れるでもなく。
ただ、進む。
その先がどこでも。
もう、一人じゃない。
それがすべてだった。




